聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/12/30 ローマ書七14―25「主イエスへの感謝」

2012-12-31 09:43:17 | ローマ書
2012/12/30 ローマ書七14―25「主イエスへの感謝」
創世記八6―22 詩篇五一篇

 今年の最初からローマ人への手紙を説教してきました。最後の礼拝を、この赤裸々で凄まじい言葉を聞いて終わるということになりました。
「15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」
 このような言葉が延々と羅列されています。こうした言葉に戸惑う方も大勢いるでしょう。しかし、とても深く共感できる、自分の中にもこのような思いがある。するべきこと、本当にしたいと思うことが出来ずに、そんなことはしたくないと思っていることをしてしまう。まさに、これは自分の思いだ。そう思い、パウロの言葉が身近に感じられて、慰められる。そういう読み方をしている方は、それ以上に多いのかも知れません。自分の弱さ、という言い方をしてもよいでしょう。ローマ書は難しいと考えられることが多いのですが、この箇所だけは好きだ、という方だっているかもしれません。
 ただし、改めて、パウロが言いたいことはそれだけなのか。「あの大先生でさえも、心中では酷い葛藤に苛(さいな)まれていたんだな」-そういう読み方で終わっていいのか、と考えさせられました。
 ある人たちは、このような罪の苦しみは、きっとパウロがイエス様と出会う前のことを思い出しながら語っているのだろう、と考えます。イエス様にお目にかかって、もうこの煩悶からは解放されたのだ、と考える人も少なくありません。しかし、パウロはこれを現在形で語っています。また、22節には、
 「…私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、」
とありますが、神の律法を喜ぶことが出来るのは、キリストを信じる前ではなく、聖霊によって心を新しくされ、信仰を持つようになって後のことです。ですから、これは、信じて救われる以前の心境だ、と説明することは出来ないのです。あるいは、信じてからもしばらくはそういう罪の意識から逃れることは出来ないときがあるけれども、ある瞬間(聖化とか聖霊体験、「第二の恵み」などと呼ばれますが)、罪を浄められて、完全に純粋な心を持つようになる、それまでのことだ、と教える教派もあります 。しかし、これもまた、そのようなことは聖書に教えられていません。パウロが、
 「私は罪人のかしらです」
と言ったのは晩年だったのです 。
 では、これはパウロのこの時のホンネなのか、と言いますと、これはまたこれで、別の問題が持ち上がります。23節には、
 「…私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしている…」
とあります。しかし、先の六章ではこれと反対のことを言ってきたのです。
「六17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
 このような言葉はどうなってしまうのでしょうか。いいえ、ローマ書の全体や、ピリピ書やテサロニケ書の、喜びと確信に満ちた言葉がすべて、綺麗事、タテマエだった、ということにもなりかねません。
 一体、パウロはここで何を言いたいのでしょうか。それは、ここまで何を言ってきたのかを思い出すことから始まります。それは、人が救われるのは決して律法を守ることによってではなく、ただイエス・キリストの恵みによる、それが福音である、ということでした。そして、それならば律法は何なのか、それを守るために律法が与えられたのでなかったら、律法は罪なのか、ない方がよかったというのか、という反論を想定して、そうではない、と言ってきたのです。
「七12…律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」
「14私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」
 そういって、ここに今日の「告白」が述べられていくのですね。
 ですから、一言で言えば、これは、恵みがなくて、律法だけの下にあるとしたら、そこで明らかになるパウロの姿、なのです。本当は、これだけではないのです。これが現実の全てではないのです。喜びや感謝、確信や希望はあるのです。けれども、パウロがここで想定している、それも心配しすぎな想定ではなくて当時も今も根強く人間の中に残っている神の恵みへの軽率な反抗心という反対が正しいとしたら、どうなるか。救いを望んでも、善を行いたいと心から願っても、なおそれが出来ずに、かえってしたくない悪を行ってしまう、そういう罪を、いやというほど気づかされるだけだ。そうパウロは言っているのです。
「20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
 パウロは責任転嫁として、私じゃない、私の中の罪なんだ、と言っているのではありません。もしそうなら、24節で、
 「私は、ほんとうにみじめな人間です」
という必要もなかったでしょう。だって、それは私ではないんですから。けれども、パウロは責任逃れではなくて、自分の中に罪が宿り、いいえ、罪が自分を虜(とりこ)にして、自分の力や努力ではそれに勝つことは出来ない、と述べているのです。それが現実だ、と言うのではないのですよ。現実には、律法の下にはなく恵みの下にあるのです。そして、自分の力によってではなく、恵みの力、「わたしを強くしてくださる方」の力によって勝利をいただけるのです。でも、そうではなくて、律法だけを与えられて、頑張れと言われているだけであれば、罪に勝つことは出来ない。
 前回の7節以下で見ましたように、その罪とは盗んでしまうとか悪事を働いてしまう、という罪ではありません。むさぼり、心の中であれこれを欲しがり、妬み、自分の欲や願望が神となってしまう、という罪です。それをどうしようも出来ないのが私たちです。律法は、そのような私たちの罪を明らかにします。そのうち守れるようになる、ではなくて、どれほど守れないかを知るほかない。そして、その最後には24節の叫びになるのですね。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。
 私を救い出してくれるのは誰か。それは私自身ではない。他の人でもない。律法そのものでもなかった。そこから、次の25節、
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
という言葉が出てくるのです。そうです。律法は私たちを自分の罪と向かい合わせ、誰かの救いを求めさせ、すなわち、私たちの主イエス・キリストを通しての神への感謝へと至らせるのです。ですから、もし律法がなければ、私たちは自分の罪、惨めさということに気づきさえせずに、相変わらず自分は結構良い人間だ、やれば出来る人間だ、神様もそれが分かっているから救ってくださるんだ、ぐらいに考えてしまうに違いないのです。
 ですから、私たちは自分の罪との葛藤を覚えたり無力さや弱さに自己嫌悪したりすることがあるわけですけれども、ここを読んで、「あぁ、パウロも同じような葛藤があったんだな」と、安心したり「どうせキリスト教もそんなものか」と決めつけて終わる、というのではないのですね。これは律法だけ、恵みなしの努力だけ、という世界であれば、という話です。そこでパウロは、救い出してくださる方、主イエス・キリストに至り、感謝に溢れています。私たちもまた、自己嫌悪したり傷を舐め合ったりして終わるのではなくて、そこから主イエス・キリストを仰ぐ。無力な私たちのうちに、力強く働いてくださる神を仰がせていただくことが出来るのだと気づかなければなりません。
 「みじめ」という言葉は、ただ恥をかくとか情けないという以上に、滅びに至るしかない悲惨、という意味での惨めです。この言葉は、聖書にもう一度だけ使われます。黙示録三17です 。自分が惨めであることが見えず、豊かだと思っていたラオデキヤ教会のように、あるいは自分の惨めさが自分の罪のせいではなく、人のせいだと思っていたら、また、それ以前に、神の律法を本当に願いとしているよりも、憎むべき罪、むさぼりや妬みや自己中心を愛して、嘆くこともない-そういうこともまた、私たちが陥りやすい危険であります。福音がなければ私たちがとことん悲惨である、そのことを知って深く謙るときに、神への感謝が溢れるのです 。どうか、この福音の素晴らしい力に与るためにも、御言葉により自分自身の誤魔化し得ない罪を見つめ、悔い改めて新年を迎えたいものです。

「私も他者も、あなた様の恵みに包まれなければ、本当に惨めなものであると、今一度心に刻ませてください。奢(おご)ったり嘆いたり裁いたりする闇から、福音の光によって救い出してください。ここまで導かれてきたのも、これからも、主の恵みの中にある。感謝します」

文末脚注


1 このような立場は、「キリスト者の完全」(本物のキリスト者は完全に聖となって歩めるのだ。そうでない教会は堕落している)という考えを保持する教派に見られます。宗教改革期の急進主義(アナ・バプテストなど)やウェスレー主義、ホーリネス(昔の?)など。
2 Ⅰテモテ一15。
3 その他、六章全体を再読してください。
4 「あなたは、自分が富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」。
5 ハイデルベルグ信仰問答2「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたがどれだけのことを知る必要がありますか。答 第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」(吉田隆訳、新教出版社)。



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