聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/2/24 ローマ書八26-27「言いようもない深いうめきによって」

2013-02-27 10:37:07 | ローマ書
2013/2/24 ローマ書八26-27「言いようもない深いうめきによって」
イザヤ書五二13-五三12 詩篇一七篇

 前回、22節23節で、
「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている…。
23そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと…を待ち望んでいます。」
と言っていました。それに続いて、今日の箇所では、
「26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
と、その「うめき」についての考察を深めていきます 。
私たちはこの言葉をよく聴かされています。祈りについて語るときには、必ずここが引かれるといってよい位、知っている言葉です。私たちがどのように祈るか分からなくても、御霊が取り成してくださっている事に望みをかけて、祈ることが出来る。そう励まされて来た言葉でもあるでしょう。けれども、今日、改めてこの言葉を、本来のローマ書八章26節という位置付けで読むこともまたとても大切であります。何しろ、最初に、御霊も、と言われています。今の私たちが、苦しみや罪の中で、そのままであればとてもとても救われることなど出来ないし、滅びを覚悟するしかなかったのに、神は私たちを救い、キリストは十字架にかかるまでにご自身を与え、救いに入れて下さり、将来には、すべての苦しみをも取るに足りないとするほどの栄光を、私たちの中に入れてくださると約束して、私たちを慰め、励ましてくださっている。そこには、全被造物に対する神様の大きなご計画がありました。その話の中で、今日の、「御霊も同じように」という踏み込んだ教えがあるのです。
 ですから、ここで私たちの祈り、ということが言われますが、これはただ、祈りという、人間の宗教的な生活のさらにごく一面だけのことを言っているのではありません。この「弱い私たち」とは、「私たちの弱さ」という言葉ですが、私たちの弱さが、祈りの貧しさに表れるから、ここに、
「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、」
という言い方になるのです。これは、どう祈ったらよいか分からない時もあるではないのです。分からない時もあるけれど、分かる時もある、ではないのです。分からない、です。私たちは、本当に神に祈るとはどういうことか分からない。聖なる神、心の奥まで知っておられる神に祈るとは、どのように祈ればいいのか。どう祈ればいいか、ということは、言葉を整えるだけのことではありません。私たちの心、祈る内容、願い、そうしたものが問われてくる。そんなことを言われたら祈れなくなる、と思うかも知れませんが、パウロは、そのままの祈りでいいんだ、とは言いません。祈りの根拠は、祈る私たちの側にではなく、聖霊の執り成しのゆえに祈ることが出来る。それが、パウロの、聖書のアプローチなのですね。
 別の言い方をすると、この「うめき」は、私たちが呻かざるを得ないような困難な状況とか祈りの課題があるかどうか、ということには限られません 。勿論、そうした、祈る言葉も出ないほどの、どうしようもない状況も私たちの人生には起こるのです。しかしそうした時でも、祈っているうちに、「確信が与えられる」というよりも、本当に色々なことを考えさせられるようになり、その問題さえなくなってくれれば、ということから、その事を通しても神様が良いようにしてくださいますように、としか祈れなくなることもあるのではないでしょうか。しかし、その問題がそのままでいいとは祈れません。そういう、どうにも不甲斐ない思いになることがないでしょうか。結局、私たちは自分の人生というものをさえ、ちゃんと捉えることは出来ない。そして、抑(そもそ)も置かれた状況が楽かどうか、祈ったことが叶わなかったかどうか、そういうことに関わらず、この地上にあり、贖いの完成を待ち望んでいるただ、そのような私たちの貧しさ、限界を超えて、主が働いてくださるという所に、私たちの望みも慰めもあるのです。
 二つのことを考えたいと思います。一つは、人間は、自分たちが熱心に祈るならば、神も必ず悪いようにはなさるまい、と考えます。それも、善意や信仰深さから、そう思います。しかし、今日の箇所や聖書全体が教えるのは、私たちはどのように祈ればよいかさえ分からない者なのだ。しかし、その私たちの貧しさ、弱さをも共にしてくださる神の御霊が、私たちの思いの底の底、言葉にならない呻きさえ汲み取ってくださり、私たちと一つになり、祈りを神のもとに届けてくださるのだ。人間の思いに神が答えられるのではなく、神の測り知れない、ひとりひとりに寄せてくださる慈しみによって、私たちの祈りがある。この順番を覚えたいと思います。
 もう一つ覚えたいのは、この後28節に出て来る有名な言葉との繋がりです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 この言葉の前に、今日の、御霊の呻きによる執り成しが教えられるのです。28節そのものは次回に詳しく話しますが、一言で言うなら、私たちは御霊の呻きを抜きにして、万事を働かせて益としてくださるという所に、一足飛びに逃げてはならないのです。
 万事を働かせて益としてくださる、というと兎角(とかく)すべてのことが「うまくいく」とか「結果オーライ」とか、物事の事象面を考えがちです。しかし、もし出来事さえうまくいけばいいのであれば、御霊が呻く必要はありません。私たちの祈りが貧しくても、神様の方では先回りしてご存じであり、物事をうまく運んでくださればいいのですから。しかし、そうではない。御霊が、私たちの呻きをご自身の呻きとして、言いようもなく深いほどに取り成して、また、神の御心に従って、私たちの心を探り極めてくださる。ここにもまた、神が、私たちの心を見ておられ、心を深く取り扱われる方、出来事よりもこの人生でのハッピーエンドよりも、もっと大きなスパンで私たちの心を導かれるお方であることを覚えたいのです。
「27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
 私たちがあれこれと祈ったり一喜一憂したりする、そういう表のことではなく、もっと深いところにある、言葉にすることさえ出来ない呻きのような願いを、御霊はすくい取って、ご自身の呻きとしてくださいます。御霊がその私たちの呻きを神のもとに届けるという事によって、私たちの祈りが上っ面の祈りではなく、本当に心を神にささげるように祈ることが出来るようにされていきます 。それが、「神の御心に従って」御霊が私たちを「助けて」くださるという助けです 。私たちの祈りがしどろもどろで的を射ていなくても、その私たちの貧しい祈りを、御霊がご自身の思いとして、言わば「言い直して」くださいますので、人間の心を探り窮める方は、その御霊の思いという、御心のフィルターを通して、私たちの心を知ってくださると信じることが出来るのです。
 神が、人間の心を探り窮めるお方である、とは恐れ多いことです。穴があったら入りたいような、恥ずかしいような、ゾッとするような、そんな私たちの心の底にある思い、本音。自分でも直視したら呻いてしまうような思い。御霊をも呻かせてしまうほかない、私たちの罪があります。その、深い呻きを消したくて、私たちはあれやこれやの願いを祈ります。何か、周りの状況が変われば、夢が叶えば、心は満たされるのではないか、と望みますが、どんなに願いが叶っても、心の深い空洞は呻き続けるのです。いいえ、そうである限り、いくら万事が収まるところに収まった、絶妙などんでん返しの最後を迎えたとしても、私たちはなお、自分の願いが叶わなかったことを数えるでしょう。将来、すべての苦しみを取るに足りないとするほどの栄光に与ろうとする時にも、地上で受けた苦しみを数えて、神様のご計画にケチをつけてしまうでしょう。
 しかし、御霊はそんな私たちの思いを睨んだり嫌悪したりはなさらず、ご自身の呻きとしてくださり、しっかりと呻いておられます。私たちのために、私たち以上に、深く呻き続けておられます。私たちが自分でも気づかないほどの、深い虚無、滅びに至る悩み、自己中心で、思い上がった願い。そういう私たちの心に聖霊が中に入ってこられてともにしてくださり、今も、ご自身に引き受けつつ、こんな私たちを神様に取り成してくださっている 。そういう御聖霊の測り知れない慈しみを思えば、万事もまた益となるように働かせてくださらないはずがない、と信じられるのです。

「私共が祈ることが出来る。心を探り窮める方が御霊によって私共の思いをすべて知ってくださっているからです。どうぞ、祈る言葉にもまして、祈る心そのものを整えてください。そして、本当に願うべきことを願う者へと、呻くべきことを呻く者へと強めてください。産みの苦しみをもって、新しくされることを、日々強く願わせてください」


文末脚注

1 ここと、使徒七34「うめき声」と名詞形で。
2 Gordon Feeはこの「うめき」を異言と解釈すします。(『過去 20 年におけるペンテコステ神学の深化』-Gordon D. Fee の 「パウロの異言の神学に向けて」を一例として- より)。この文献は、以下のウェブサイト、もしくは「大坂太郎 フィー」で検索するとみることが出来ます。
http://jeanet.org/menu_contents/JEA%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E9%96%A2%E4%BF%82/20070605_22%E5%9B%9E%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A4%AA%E9%83%8E_%E7%99%BA%E9%A1%8C.pdf
3 こういう視点からの詩を二編紹介しましょう。
当てはずれ(ツルバラ)/あなたは私が考えていたような方ではなかった/あなたは私が想っていたほうからは来なかった/私が願ったようにはしてくれなかった/しかしあなたは 私が望んだ何倍ものことをして下さっていた 星野富弘

ある不治の病に伏す患者の詩
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと/神に求めたのに謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに/よりよきことができるようにと病弱をあたえられた
幸せになろうとして富を求めたのに/賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに/得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに/あらゆることを喜べるようにといのちを授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが、/願いはすべて聞き届けられた
神の意に添わぬものであるにもかかわらず/心の中で言い表せないものはすべて叶えられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ
4 ルカ十40(手伝いをする)と、ここのみの言葉です。
5 八章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。神の右の座にいるキリストのとりなしと、私たちのうちにおられて私たちに祈らせてくださる御霊のとりなしという、二方向の執り成しが語られています。


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