聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問89「みことばの力ある働き」 使徒20章32節

2015-11-15 21:05:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/15 ウェストミンスター小教理問答89「みことばの力ある働き」

使徒20章32節

 

 世界には沢山の宗教があります。キリスト教にとっての聖書のような本(経典)を持たない宗教は、ただ儀式をしたり、拝んで、お祈りをしてもらったりすることがすべてだと考えるのでしょう。でも、教会ではそのようには考えません。神は、聖書を与えてくださいました。神の言葉としての、聖書を私たちに与えて、語り掛けてくださるお方です。今日読んだ、使徒の働き20章で、使徒パウロは、もうたぶん二度と会うことがないだろうと思ったエペソ教会の人たちに、最後に言っておきたい言葉を話しました。「パウロの遺言説教」とも言われますが、色々なことを思い出させて、これから予想される大変さについて語って、大事な戒めを与えた上で、こう言いました。

使徒の働き二〇32いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

 みことばは、あなたがたを育成し、御国を継がせることが出来る…。パウロはそう信じています。神のみことばに対する大きく、深い、全幅の信頼です。他にも、聖書には沢山のみことばへの信頼や賛美が溢れています。これはキリスト教の大きな特徴です。

問89 みことばは、どのようにして救いに有効とされるのですか。

答 神の霊が、みことばの朗読、特にみことばの説教を、罪人に罪を自覚させて回心させ、更に信仰を通して、彼らに聖さと慰めにおいて造り上げ、救いにいたらせるのに、有効な手段とされます。

 前回、救いに有効な恵みの手段として、三つの方法があることをお話ししました。みことばと聖礼典と祈り、の三つです。今日は、その最初のみことばが、どのようにして救いに有効になるのですか、という問とその答です。

 最初に「神の霊が」とありますね。「御霊が、聖霊が」と言い換えてもいいでしょう。神の御霊が、聖書を有効な手段としてくださる、ということです。中には、聖書の言葉そのものに力や人格でもあるかのように考える人がいます。仏壇や神棚を熱心に拝んでいるお婆ちゃんに、牧師さんが、本当の神様は世界を造られた大いなる神様で、その神の言葉である聖書がどれほど素晴らしく、大切な神の言葉かを一生懸命話したのだそうです。お婆ちゃんが分かったと言ってくれたので、次の日もまたそのお婆ちゃんを訪ねたら、仏壇も神棚にあったものも片付けて、代わりに神棚に聖書を置いて拝んでいた、という話しを聞いたことがあります。聖書は拝む物ではありませんね。聖書に魔力があるわけではありません。神の霊が、聖書を通して、私たちに働かれるのです。また、聖書の言葉を呪文のように力があると考えるのも間違いですね。神の霊が、聖書を通して、私たちに教えて下さるのであって、聖書の言葉に何か特別な秘密の力はありません。

 では、神の霊は、みことばを通して、私たちにどのように恵みを与えてくださるのでしょうか。

ここには、「罪人に罪を自覚させて回心させ、更に信仰を通して、彼らに聖さと慰めにおいて造り上げ、救いにいたらせる」とあります。聖書に耳を傾ける時、私たちは自分の罪を自覚して、回心させられます。そして、信仰を与えられます。聖さをいただき、慰めをいただき、救いの完成へと至ります。スゴいですね。

 ただ知識だけではないのです。あれをしなさい、これをしなさい、という事が聖書で教えられるのではありません。もっと深く私たちは自分自身を知らされ、罪に気づかされ、生き方を方向転換して、神が下さる聖さと慰めの中で新しくされながら、救いに至らせていただける。

聖書を知らなければ、私たちは自分の罪に気づくことが出来ず、汚れや絶望の中で、滅びに至る生き方しかしません。私たちを愛してくださる神を知らない。イエスの十字架の赦しも知らない。救いの恵みも知らない。競争や迷信や間違った幸せに走ってしまうでしょう。でも、聖書を通して、神が私たちに光を与えてくださいます。それで、私たちは、迷わなくてもいいことで苦しまないようになります。暗やみの中で手探りしながら、この先どうなるか分からないような生き方ではなくて、主がともにいてくださり、行く手には素晴らしいゴールが待っていることを心から信じる生き方へと変えられていきます。私たち自身が、成長し、整えられていくのです。また、聖書には沢山の人たちの物語が出て来ます。だれも、立派で失敗のなかった人はいません。みんな、私たちと同じような人間です。失敗したり、危険にあったり、喧嘩したり、罪を犯したり、戦争に遭ったり、その時代その時代を生きた人たちの物語です。そういう伝記を通しても、私たちが慰められたり、自分を重ねたり、教えられたりします。立派なことや、覚える規則が書いてあるだけの本ではありません。聖書はもっと私たちにとって、大きく、壮大で、なまなましい本です。そういう神の言葉を通して、私たちは、ちっぽけで息苦しい生き方から、もっと長く、確かな生き方へ変えられていくのです。

よく言われます。「聖書は神様からのラブレターです」。本当にその通りだ、と私も思います。勿論、みんなが書いたりもらったりするような「ラブレター」とは随分書き方が違いますね。でも、これを下さったのは、間違いなく、私たちを愛しておられる、天のお父様です。その愛は「もっと真面目になったら愛してやろう」とか「ちゃんと生きないと愛してやらないぞ」なんていう愛ではなくて、私たちを無条件に愛する愛です。そして、限りなく愛するからこそ、私たちが、詰まらないものや、嘘や悪い心に捕らえられて生きるのではなく、もっと伸び伸びと、もっと正直に、もっと愛し合って生きることを願われるのです。そのために、こんな分厚い聖書を通して、私たちに丁寧に語り掛けてくださっています。私たちが、聖書に聴くとき、聖霊がみことばを通して力強く働いてくださって、私たちの心を励まし、私たちを育てて下さるのです。好きな人や、お父さんやお母さん、兄弟や友達、大好きな誰かからラブレターをもらうと嬉しいですね。心が嬉しくなりますね。もし、あなたが手紙を書いた人だったら、書いた手紙を読んでほしいでしょう。手紙をあげて喜ばれるとこっちも嬉しくなります。「読まなきゃいけないなんて面倒臭いなぁ」と、渋々読まれたり、粗末に捨てられたりしたら悲しいですね。神が下さったラブレターの聖書も、心から感謝して読みましょう。そして、聖書を通して、神の霊は私たちを必ず慰め、救いに至らせて下さいます。

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