聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/7/25 マタイ伝22章23~33節「思い違うほどの神の力」

2021-07-24 10:02:14 | マタイの福音書講解
2021/7/25 マタイ伝22章23~33節「思い違うほどの神の力」

 今日の箇所、24節で引用されているモーセの律法は、伝統社会ではあり得る規則でした[1]。
…「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」[2]
 これを根拠に、イエスに対し、「では実際にある人が子がないまま死んで、残された妻を弟たちが順に娶ったとしたら、将来その人は誰の妻になるのか」という質問です。これは、当時の家族の考え、家を長男が継ぐという発想や、聖書の律法を背景にした問答です。しかしそうでなくとも、私たちが将来とか死の後の世界を考える時には、答えに窮する質問でもないでしょうか。「愛する人との再会が死後に待っている」という言い方はよくされます。しかし、そうでない人との再会はどうなるのでしょうか。向こうが会いたいと思ってもこちらは会いたくない場合はどうでしょう。お互い会いたくないとか、ここで問われているように、再婚相手全員が顔を合わせるなんて、どんな顔をすれば良いのか。その気まずさに解決は思いつきません。
 そこをツッコんで「だから復活はない」と言ったのが、ここに出てくるサドカイ人でした。でもそのようにツッコまれても答えることの出来ない、薄い将来像、今の世界・人生の延長でしか復活を思い描けていないのが、当時の復活を信じる人たちの将来像でもあったのです[3]。引いては私たち自身も、将来とか救い、神の国をどう思い描いているだろうか。神が語っておられるような将来、人にも本当に「福音」として届く将来への希望だろうか、と問われます。
29イエスは…答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。30復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
 ここで「天の御使いたちのよう」と言われたのも、人は自分の経験や想像の範囲で狭く小さく考えて「天使のように中性的で、性欲とか欲望、欲求などなくなる」と思うかもしれません。しかしマタイで御使いは繰り返して登場します。聖書に出て来る御使いは、人が一目見たら、恐ろしさに震えてしまう存在です。去勢どころか、生き生きと輝いて、人間の夢にも現れて神の民を助け、文字通り神の使いを果たす存在です[4]。そういう輝く御使いのように、人はやがてなる。もう「誰の妻か」ではないのです。「俺の妻だ」「私の子でしょ」とか、ややこしい関係とか、今はそれを引きずっていて、それのない将来像なんて思い描けない。でも聖書はそこからの解放を語っています。神の力は、人を縛り付けているあらゆる鎖を解き放つ力です。
 このサドカイ人たちの想定問答も、全くの男性目線で、これ自体問題だらけです。まず、七人兄弟の誰の妻か、と問いますが、逆に、一人の男性が離婚して再婚をしたり、一夫多妻や浮気をしたり、には当時は非常に甘かったのです(日本も最近までそうでした)。また「彼女は誰の妻か」の問いには、その女性本人の気持ちとか気まずさへの思いやりより、夫たちの所有権を巡ってで、それには決着が付かない、と決めつけた理屈ですね。本当に妻の気持ちを思いやるなら、兄弟たちが譲り合ったり仲良くしたりして困らせなければいい。「復活があるなら」という仮定でなく、今現在、妻の気持ちを思いやれたら、こんな問いは無用です[5]。それがなければ、自分の妻だって、復活してからも自分の妻だなんて真っ平御免だと思っているかも知れない。将来の復活の有無でなく、今、妻の思いよりも「誰の妻か」を論じたり、それに応えられない将来しか差し出せなかったりする、その冷たさこそが問題です。[6]

 だからイエスは言われます。
「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。」
 聖書は今の争い、自分の権利とか「自分のものだ」という主張を一切解体します。神の力とは、人の争いや思い違い[7]を引き下ろして、そこで縛られている人を解放する力です。
31死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
32『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」33群衆はこれを聴いて、イエスの教えに驚嘆した。
 これは出エジプト記3章の神の自己紹介です[8]。どんな神にでもなれる神が、アブラハム、イサク、ヤコブ[9]――四百年以上前に死んでいた先祖の神として名乗られました[10]。神が彼らの神となったなら、その人の死は終わりではなく、魂だけになるのでもなく、身体も魂もあっての人間はやがて復活して、神のものとして永遠に生かされないはずがないのです[11]。

 イエスはこう復活をハッキリと教えておられます。それでも、それを聞く私たちの理解は必ず限界があります。思い違いがあるはずです。愛する人との再会、が精一杯の、乏しい私たちの理解で、それもちょっと考えて始めるとあれやこれやはどうなるのか、心配です。そんな私たちの狭く限界ある想像よりも遙かに大きく、自由で生き生きとした将来を神は備えてくださいます。気まずい思いも心配しなくていい。何より、私たちは「誰の妻(夫、母、子、娘)」とか「○の○」、或いはそういう肩書きが何もないとか、そんな今だけの呼ばれ方は終わって、ただ神が「私の神」でいてくださる時が始まるのです。お互いをも「神がこの人の神でいてくださる」と見る。それは、死よりもどんな柵よりも強い神の新しい恵みです。
 その神の御国を私たちは今ここでも証しするため、今すでに、誰にも縛られず、誰をも肩書きで縛らないのです。神が私たちの神でいてくださる。それゆえに、互いを尊び合うのです。本当に思いやりや和解ある関係を求めて、永遠を少しでも先取りすることを願いながら、今ここで生きるのです。


※ カバー写真は、こちらから。なんとも笑ってしまう写真なので、紹介しました。http://openingtheseals.com/matthew-24-2/the-sadducees-question-the-resurrection/
「私たちの神である主よ。あなたが私たちの神である故に、私たちは永遠を生き、死の先にも復活を約束されています。思い描くのは難しくても、神であるあなたが、愛するすべての人に、御使いのように輝く、驚くばかりの恵みを、想像を絶して深い幸いを備えておられます。どうぞ今この生涯でそれを少しでも味わい、受け取り、眼差しも考えも、新しくしてください。他の何物でもなく、ただあなたのものである幸いに喜び、それゆえ互いに尊び合わせてください」

[1] これを「レビラート婚」と言いますが、創世記39章には、ヤコブの息子ユダが、自分の長男が死んだ時、その妻を次男に嫁がせ、次男も死んだら三男に嫁がせることを考えた出来事が書かれています。モーセの律法の四百年以上前に、このような習慣が既に当地にはあったことが窺えます。モーセ律法がこのように定めた、というよりも、家父長権・世襲制のシステムで、跡継ぎの長男の名を残さなければならないというあり方を、モーセも容認しているのです。

[2] 申命記25章5、7節(兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。6そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。7しかし、もしその人が自分の兄弟の妻を妻としたくないなら、その兄弟の妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」)

[3] たとえば、ルカの福音書14章15節以下では、「イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」」と言いますが、イエスはこれに対して、神の国を婚宴に譬え、招待されても自分のことを優先して、断る人々の姿を描きます。

[4] マタイでは20回!1:20(彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。)、24(ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、)、2:13(彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」)、4:6(こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」)、4:11(すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。)、11:10(この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。)、13:39-41(毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。…41人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、)、13:49(この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、)、16:27(人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。)、18:10(あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。)、22:30、24:31(人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。)、24:36(ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。)、25:31(人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。)、26:53(それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。)、28:2(すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。)、28:5(御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。」

[5] ドラマだと、夫が死んだと思って別の男性と再婚したら生きていたとか、複雑な事情で二人の男性が一人の女性を巡って争うなんて筋書きはあって、泥沼劇になるものとして描かれるものはよく見ます。古くは映画「ひまわり」、韓国ドラマ「冬のソナタ」や「伝説の魔女」など。

[6] 参照、レベッカ・ソルニット『私たちが沈黙させられるいくつかの問い』(ハーン小路恭子訳、左右社、2021年)。https://bookmeter.com/books/17296609

[7] 思い違いをしているプラナオー 道を外れている。彷徨っている。 18:12-13(あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。13まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。)、22:29、24:4-5(そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。5わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。)、11(また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。)、24(偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。) 27:63(こう言った。「閣下。人を惑わすあの男プラノスがまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。」、27:64(ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしプラネーのほうが、前の[惑わし]よりもひどいものになります。」)も同語根。

[8] 出エジプト記3:6~16節「さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。…12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」…14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。…」。また、同4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」

[9] ヤコブも、四人の妻の間で、気まずい人生を歩んだ人でした。

[10] この言葉は、ブレーズ・パスカルが上着に縫い付けていた羊皮紙に書き付けられていた言葉を思い起こさせます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や学者の神ではない、確実、確実、直感、喜び、平安。イエス・キリストの神」。神は哲学者や学者の神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして私たちの神となってくださった、イエス・キリストの神でいてくださいます。

[11] 聖書は、人間を魂だけではなく、からだもあるものとして見ています。創世記2:7「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」。ですから、人の死は、「魂と体の分離」と理解して、「魂だけが存在する」という状態は、人間としては不完全であり、やがてもう一度身体がよみがえって、魂と結ばれて初めて、人としての希望ある将来が始まると考えています。

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