聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き十章1-23節「神にできないこと」

2017-10-22 17:40:44 | 使徒の働き

2017/10/22 使徒の働き十章1-23節「神にできないこと」

 今日の箇所はカイザリヤにいたローマ兵コルネリオの紹介から始まり、十一章18節まで話が続きます[1]。二人が見た幻はそれぞれもう一度語り直されます[2]。そうしたことからも、この出来事がとても大切な出来事であること、大きな飛躍となる出来事だと印象づけられます。

1.「きよくない物」

 コルネリオは港町カイザリヤにいました[3]。2節の

「敬虔な人」

とは人格や為人(ひととなり)というより、神との関係です。聖書の神、エルサレムで礼拝されている天地万物の創造主なる主を知り、恐れて生きている人を指します。神である主との関係にはっきりと生きていたということです。しかし正式にユダヤ教に改宗するには、割礼という痛い儀式や生活上の様々な規定を受け入れなければなりません。相当ハードルが高かったのです。ですから、この当時、聖書の神に深く惹かれながらも改宗するには至らず、

「敬虔な人」「神を恐れる人」

と呼ばれる立場を続けて、エルサレム神殿に拝礼に来たり、施しや献金をしてユダヤ人を支えたりして敬虔に生きていた異邦人は少なからずいたのです。コルネリオはそんな一人でした。その彼に御使いが現れて、ヨッパにいる使徒ペテロを招くようにと告げたのです。それが8節までに書かれています。

 9節以下、コルネリオが遣わした三人がちょうどヨッパに来た頃、そこにいたペテロも別の幻を見ました。食事を待っている間に夢心地になり[4]、天からあらゆる動物や這う物や空の鳥が入った敷布が降りて来て、

「さあ、ほふって食べなさい」

と言われますがペテロはこれを拒みます。

「私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」

と言います。

 この感覚を想像してみてください。聖書の律法、特にレビ記十一章に

「きよい動物と汚れた動物」

の規定があります。蹄が分かれていて反芻する動物は食べて良いけれど、蹄が分かれていないか反芻しない動物は食べてはならない、具体的にどんな動物がダメか、が延々と書かれています。そして、聖い動物は食べて良いけれども、汚れた動物は食べてはならない、という規定がありました[5]。これはユダヤ人の律法で、それ以外の人の感覚にはありません。ユダヤ人にとっては汚れていて食べるべきでない動物も、食卓に並んで出されるのです。ですから、ユダヤ人は、異邦人の家に招かれて食事をすることは決してしませんでした。異邦人がユダヤ人を訪問して、受け入れることは良かったのです。ここでも最後にコルネリオの遣い三人が、ヨッパのシモンの家を訪問して受け入れられています。これはOKでしたが、その逆はタブーでした。ですから、ペテロにとって、この幻を三回も繰り返してみせられたことは

「いったいどういうことだろう」

と思い惑うしかなかったことだったのですね。

2.食物の規定の意味

 確かに主は聖書で「汚れた動物」を規定してそれを食べてはならないと命じておられます。そこには衛生的な意味も霊的な意味も、訓練としての意味もあったでしょう[6]。食べてはならないという規定はとても根元的なもので、天地創造の直後、エデンの園で神が与えられたのも園の中央にある

「善悪の知識の木から食べてはならない」

という約束でした。まだ人が神に背く前でしたし、世界に罪が入る前、すべてが甚だ良かったときの約束です。ですから、その木の実そのものに食べてはならない汚れや毒や魔力があったのではなく、食べないという約束を守ることに意味があったのです。後の律法で、動物をきよい動物と汚れた動物に分ける時にはもっと複雑な意味はあって、今日はそこまでお話ししませんが、いずれにしても動物そのものが汚れているのではなくて、人間が動物や食生活を管理することに意味があったわけです。

 イエス御自身がこれをハッキリ宣言されました。

外側から入ってくる物は人を汚すことが出来ない、すべての食物はきよい

とされました[7]。パウロも

「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです」

と言います[8]。もし神が動物や食物を本当に「汚れている」と忌み嫌われたのであれば、それを容認されることは出来ません。少なくともペテロを代表とする教会はそう思ったのです。だから、この時のペテロの行動を聞いたエルサレム教会の人々が一一章3節で非難したのは

「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らと一緒に食事をした」

事です。異邦人に洗礼を施したことではなく、そこに行って一緒に食事をしたと非難したのです。異邦人が自分の生活や習慣を変えてこちらに来るなら大歓迎する用意はあったでしょう。しかし自分の方から出て行って、異邦人と一緒に食事をする、という発想はなかったのです[9]。そんな事、絶対に神はお許しならないと思ったのです。

 しかし神には御自身を否むことが出来ません[10]。神は汚れているものをきよいと変更することは出来ません。でも神がきよいと仰ったのは、元々あの食物規定が絶対的な禁止ではなくて、もっと別の意味があったからです。自分自身の生き方や心を神の前に聖くするための教材でした。決してそのような食生活を守っていれば大丈夫、それをしていない人はダメ、ではありませんでした。それこそ神には放っておけない誤解でした。ですから主は、ペテロにユーモラスな幻を見せて、彼らの所に行って一緒に食事をするよう大胆不敵な御心を示されました。

3.一緒に食事をすること

 主はコルネリオをペテロたちとの交わりに招かれました。彼は既に主を知る敬虔な人でした。コルネリオの罪を責め悔い改めよと言う必要はありません。勿論、約束のキリストを知ることは尊い意味がありました。それを知らせるためにペテロが送られました。しかしそのためだけではなかったのです。ペテロたちにとっても、コルネリオたちとともに食事をし、神の救いをともに受けたものとして分け隔てのない交わりを持つこと、躊躇わずに一緒に食事をするようになる-大きな驚きであり、予想もしていなかったチャレンジへと神は導かれました[11]

 ペテロは「汚れた物を食べることは出来ない」と言いましたが、本当に聖い神は、物や行為で汚れるかのような誤解を放っておくことが出来ませんでした。また、自分たちだけで潔癖な生き方に閉じこもり、異邦人を異邦人というだけで見下して、「汚れている」と触れないような間違った生き方を放っておけませんでした。そのために神の子イエス・キリストが私たちのところに来られて、私たちと一緒に食事をし、心も生き方もきよく新しくしてくださいます。食事や儀式での汚れないようにする、というお飯事(ままごと)は終わって、イエス・キリストとともに生きること、心にある罪を告白し、謙虚にされて、自分の問題に取り組むことで、聖くされるのです。

 罪を犯さないよう、汚れに触れないようにと生きるのではなく、キリストに心をきよめていただき、神に愛を注がれ、恵みを喜び感謝に生きること、そして、人を尊び、互いに仕え合う交わりを通して本当に聖くされるのです[12]

 それを表すのは、主の聖晩餐です。主のからだと血を、信仰をもって覚えてパンと杯を戴きます。その時、決して自分一人で飲み食いするのではありません。必ず他の方々と、主が招かれた全ての方々と、一つのパンを分け、一つの杯を一緒に飲むのです。そういう姿そのものが、主がもたらしてくださった驚くべき福音です。

 ともすると伝道それ自体がゴールになりやすいものです[13]。確かに新しい人や苦手な人と食事をするよりも、伝道という活動をしている方が楽です。人間関係は複雑で苦手意識や傷もあるものです。「使徒の働き」もパウロ書簡もそうしたリアルな問題を具体的に取り上げます[14]。そうした現実を十分踏まえた上で、そこで裁き合わず、天の大宴会というゴールを見て行きましょう。私たちがお互いに違っていても、うまく認め合えなくても、それでも主に召された者同士です。互いを尊重し、一つであること、やがて誰一人欠けることなく主の食卓をともに囲むと約束されています。その途上にあることに目を向けて伝道や交わりに励んでいくのです。

「聖なる主よ。冷たく潔癖な傲慢さを、あなたの聖なる愛によって溶かし、聖なる神の民の喜び踊る交わりに加えてください。ペテロに不思議に働きかけたように、今も聖人ぶって壁を造りやすい教会にも働いてください。私たちがたとえ善意や正義感からでも不要に人を裁いてしまうよりは、他者を喜び、互いを祝うよう、恵みによって心を新しく本当に聖くしてください」



[1] 節の数ではなんと六六節です。

[2] 十章3-6節の幻は、30-32節で、9-16節の幻は、十一章5節以下で、それぞれ繰り返されています。

[3] カイザリヤという名前の通り、ローマ帝国がユダヤ州を支配するための中心的な町、ローマ側にとってエルサレム以上に重要な行政都市でした。

[4] 当時は一日二食だったそうですから、12時はまだ食事時ではないのです。それなのに彼は非常な空腹を覚えました。ここに既に、神の通常ならぬ働きかけがあります。そして、その空腹に訴えるような幻が示されたのです。

[5] その規定を、ペテロも大切に守っていたのですね。パリサイ人ほど厳格に律法を守ることは出来ない、ガリラヤの漁師のペテロでさえ、食物の規定は今まで一度も破ったことがない、それが当時の常識でした。

[6] 不衛生なもの(屍肉をついばむような鳥)が避けられていることは当然、衛星上の配慮でしょう。しかし、そればかりではなく、イスラエル人の霊的なあり方そのものが、「死」から遠ざかり、「食べるにも飲むにも神の栄光を現す」という方向が示されています。そもそも創世記の二章で、エデンの園でさえ、何でも食べたいように食べるのではなく、「善悪の知識の木」からは食べないという最初の命令が与えられたように、主の命令に従って自制する、という訓練の意味もあったでしょう。また、エデンの園で蛇に唆されたことを思い出すかのように、レビ記一一章では、「蛇」は名前さえ挙げられていません。蛇よりももっと珍しく、食べる機会さえないような動物は挙げられているのに、です。そして、地を這うものは食べてはならない、という規定に向かって、蹄ではなく足の裏で地にぺったりと歩くものが避けられるような方向性もうかがえます。詳しくは、Nobuyoshi Kiuchi, Leviticus (Apollo’s Old Testament Commentary), IVPをぜひ。

[7] マルコ七17-18。

[8] ローマ十四14。

[9] 使徒の働きの流れで教会は、貧富の差や身体障害の有無、サマリヤ人ともつきあうようになりました。前回申しましたように、ペテロが泊まっていた家の皮なめしという仕事は、当時は汚れている仕事とされた場所です。ペテロはその差別から自由にこの家に泊まりました。異邦人に対しても異邦人だというだけで差別する意識はなかったでしょう。

[10] Ⅱテモテ二13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

[11] Ⅰコリント九19-23にはこうあります。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。20ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。21律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。23私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」 しかしこれを、異邦人を獲得するため、伝道するために、必要ならば汚れた動物も我慢して食べよう、交わりや様々な手段を利用しよう、という風に考えると誤解です。一緒に食事をすることは、伝道の方法論ではありません。むしろ、神が見ておられるのは、私たちが一緒に食事をしたり交わりを持ち、互いに愛し合い、喜びも悲しみも分かち合うことです。

[12] それが、聖なる神が私たちに求められる願いです。あれを食べてはならない、これをしてはならない、というリストを守ることが神の御心であれば、神はそれを変えることは出来ません。ここで神はそう思われていた律法をハッキリと(しかもユーモアたっぷりの幻で)一蹴されました。そして異邦人と一緒に食卓を囲む交わりへと派遣されました。

[13] 〈伝道はするけど、親しくなるつもりはない〉とか〈伝道の手段として楽しい交わりや食事をしよう〉と発想しやすいものです。

[14] 使徒の働き15章では「エルサレム会議」が開かれ、ユダヤ人と異邦人の関係の問題が議され、結論として、異邦人にはユダヤ人のように割礼を受けたり律法の規定を守ったりする必要はないが、「血と絞め殺したものと不品行」は避けるように、という配慮が求められます。また、ローマ人への手紙14章では、「何でも食べてよい」と考えるキリスト者と「肉は食べない」と考えるキリスト者に、相互に認め合うよう勧めがされます。コリント人への手紙第一では、8章から10章では、「偶像にささげた肉」の取扱が論じられます。パウロはここで、必要とあれば、金輪際、自分は肉を食べないことも選ぼうと言います。この他、テモテへの手紙第一やコロサイ書にも食事を巡っての論争が続いていたことがうかがえます。そしてそれをパウロは原則論でバッサリ切らず、それぞれの良心を尊重し、また互いに尊重し合うよう実践的な勧めをするのでした。

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