聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問95「偶像崇拝という悲喜劇」出エジプト記32章1-8節

2017-11-12 20:46:17 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/11/12 ハ信仰問答95「偶像崇拝という悲喜劇」出エジプト記32章1-8節

 私たちが、毎日の生活をどう生きていけば善いのか、聖書には「十誡」というエッセンスで神の民の生き方が教えられています。「十の言葉」を一つずつ見ることにして、先週の続きの第一戒を今日もう一回お話しします。第一戒は

「あなたにはわたし以外に、他の神があってはならない」

という戒めでした。その他の神を拝むことの中には、迷信や魔術をしないことも含みますが、第一には

「偶像崇拝」

をしないことです。先回の問94では

「あらゆる偶像崇拝」

をしない、とありました。「偶像」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。

 こういう「いかにも」な「偶像」を思い浮かべるかも知れません。像というのですから、見える形や、礼拝のためにわざわざ作ったものを思うかも知れません。確かにこういうものは偶像です。そして、世界にはまだまだこういう像や宗教を作っては「神」だと呼んで拝んで止まない人がたくさんいるのです。人間が神を作ったり、自分の願いをかなえてくれる神を作れるとしたら、神なんていらないぐらい人間はスゴイことになりますが、そういうちぐはぐなことをしているのです。

 とはいえ、こういう分かりやすい像や人間の作品だけが「偶像」ではありません。

問95 偶像崇拝とは何ですか。

答 御言葉において御自身を啓示された、唯一まことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。

 聖書の御言葉において御自分を現されている本当の神と取り替えて、何かに信頼を置くことは、すべて第一戒が言う「主以外のものを神とする」ということなのですね。それは偶像や宗教ではないかもしれません。それでも、神である主の代わりにしているものは、自分では気づかなくても、第一戒で主が戒められた警告に該当するのですね。

 最近、こんな記事を読みました。イスラム圏で長く暮らしてきた方が日本の大学生に聖書の話を伝える時のことです。「彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。/日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。/そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。」

 「人は誰も「宗教(偶像)」を持っている」。

 これはとても大切で鋭い指摘です。神に作られて、神を礼拝する心を与えられた人間は、神から離れると代わりに何かを礼拝せずにはおれません。自分に安心や価値や幸せをくれる何かに縋ってしまうのです。

 皆さんは何に縋っているでしょうか。教会に来て、イエスを知り、他に神はいないと言いつつも、知らないうちに神のように、神以上に大事にしているものがないでしょうか。男性は仕事が偶像になりがちです。就職試験に落ちたら自分の価値がないように思ったり、出世や職場の評定を人生の絶対的なもののように考えてしまいやすいです。そのために健康や家族を犠牲にしたりします。私も、自分の「牧師」という仕事が自分の評価や全てにならないように気をつけたいと思っています。また、趣味も、行き過ぎて、自分のすべてになってしまうことがあります。「健康」や「若さ」「体」を鍛えることが偶像になる場合もあります。スポーツ選手もそうですし、老いることや死ぬことを恐れて、お金を惜しまない現代は、自分の身体を崇めんばかりに大事にする風潮があります。「アイドル」というのは分かりやすいですが、まさに「偶像」という意味です。色々なアイドルがあり、あらゆるもののオタクがいます。また、親からの評価や拒絶を恐れて、それが人生のすべての土台になることもあります。その結果、兄弟や自分の子どもや友人、団体との尊敬を得よう、見捨てられないためならひどいこともする。自分を犠牲にして、愛情を勝ち取ろうとしてしまったりします。そういう「人間関係での承認・尊敬」が偶像になっていることもあるのです。他にも、華やかなスターになれば幸せになれる、ステキな恋愛をすればバラ色な人生が待っているとか、国家や人類全般、イデオロギーとか色々なものを偶像にしてしまいます。

 人は誰もが何かしらの「宗教(偶像)」を持っています。そして、それを手に入れなければ幸せになれない、それさえ手に入ればきっと幸せになれる、というストーリーを思い描いています。でも、そういうものは実際には神ではありません。神に代わって私たちを幸せにすることは出来ません。私たちが信じてしまっている成功や幸せの物語はいつか終わるのです。

 神は世界の創造主であり、私たちの父、恵みの神となってくださるお方です。聖書はそのような神がご自身を啓示され、恵みによる物語を通して、私たちに語って下さった本です。神は人間が、神ではないものを神のようにして、追い求めたり、絶対視したり、そのために犠牲を払うようになってしまう空しい結果をご存じですから、人間に神ならぬものを神としないよう、とても強く命じて下さっています。そして、聖書を通して、神ご自身が人間を愛され、追い求められ、祝福してくださっている、という事実を語っています。お金や名声や出世や健康は大切ですが、うつろうものです。そこに私たちの価値や命を置くのは危険ですし、痛々しいのです。私たちは既に神に愛され、価値を認められています。力のない偶像に犠牲を払うのではなく、私たちのために既に犠牲を払い続け、イエス・キリストの十字架という犠牲をも惜しまなかった神にこそ、自分の命をかけたほうが現実的ですし、幸せが約束されています。

 そのために、イエスは来てくださいました。聖書は、神がイエスにおいて、人間に回復と救いを与えてくださる福音を啓示しています。だから私たちはこの神以外のものを神のようにしないのです。どんなに脅されたり、失うものが大きかろうとも、勇気をもって、私はこの世界を作られた、唯一真の神様だけを礼拝します、と喜んで言うのです。そう言わせて下さる神なのです。

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