聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

2018-07-23 17:58:01 | 一書説教

2018/7/22 士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

 今月の一書説教は聖書同盟の通読カレンダーに従って「士師記」です。ちょうど夕方からの夏期学校で「聖書はしくじり大図鑑」とお話しをします。子どもの本やテレビ番組でも「しくじり」「ざんねん」という切り口が多いことを聖書の切り口にもしてみようと思いましたが、士師記はまさに「ざんねんなヒーロー」たちのいた時代を取り上げている書です。

1.士師記の全体像

 週報にも書いたように、士師記は大きく、三つの部分に分けられます。一章二章が導入部、三~一六章が「さばきつかさ」十二人のエピソード[1]。名前だけ登場する人もいますので、詳しい活躍が分かるのは7人で半分ぐらい。しかし、理想的なヒーローは殆どいません。二番目の左利きのエフデがましなほうで、後は何かしら大失態を演じてしまいます。四章のバラクは、優柔不断で、結局ヤエルという女性が手柄を立ててしまいます。

 六章から八章は有名なギデオンですが、彼も最初は臆病で煮え切らない人でした。最後には大勝利を収めるもののその後がいけません。彼は偶像を作って人々に偶像崇拝の誘惑を与えてしまい、その上、大勢の妻を娶ります。彼が死ぬとその子の一人が他の兄弟大勢を皆殺しにして暴君になる[2]

 その後のエフタは、無謀な誓いをして娘を失う過ちを犯して、最後は自暴自棄になってしまいます。

 最後の怪力サムソンは一三章から四章かけて詳しく書かれていますが、怪力で活躍した合間に見せるのは何とも鼻持ちならず、身勝手で、いい加減で、依存症的な未熟さです。最後は美女の泣き落としで秘密をばらして怪力を失って、捕まってしまう。こんなさばきつかさばかりです。

 そして、三つ目の部分、一七章以下は、もうさばきつかさが登場さえせず、二つのとんでもない出来事が記されています。最後の段落の十七6には印象的な言葉があります。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

 これがそのまま士師記の最後、二一25で繰り返されます[3]。この言葉で士師記は結ばれるのです。王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた時代。それが、ヨシュア記で約束の地に入った後のイスラエル民族の見せた歩みでした。士師記の「さばきつかさ」は理想的なスーパーヒーローではありません。残念な人たちばかりです。「神が選ばれたのだからきっと素晴らしい英雄ばかりだろう」と期待したら見事に裏切られます。むしろ人間の弱さ、私たちの陥りやすい弱さ、その結果の悲惨さを、十分に現してくれる人たちなのです。

2.士師記のパターン

 問題なのはその士師(さばきつかさ)たちだけではありません。それは民全体の不信仰や問題を映し出す鏡に他なりません。今日読みました、二章の真ん中はこの後に繰り返されていくパターンを最初にまとめて書いている部分です。イスラエルの民は主の目に悪であることを行い、他の神々に仕える。それは主の怒りに触れて、主は敵がイスラエルを支配するのをお許しになり、民は苦しい思いをします。そうして民が呻いて主に助けを求めると、主は士師を起こしてくださって、敵の手から救ってくださる。民の生活は改善します。ところが、その士師が死ぬと、民はまた主から離れて、前よりももっとひどく道を踏み外し、他の神々に仕えて、それを拝む。主は怒られて、民を放っておかれる。苦しくなった民はまた主を求める。主は民を憐れんで、士師を送って下さる。助かった民はまた主に背いて行く…。

 士師記の中ではこのパターンが基本的に繰り返されるのです。反逆、自業自得、悔い改め、士師の登場、回復、また反逆…です。そういう民の軽さ、甘さ、性懲りもなさが士師記のループなのです。

 この繰り返しから学べることはいくつもあります。まず私たちは人間の愚かさをまざまざと見て謙虚にならざるを得ません。折角入った約束の地でイスラエルの民は、本当に情けない歩みをしました。神から祝福を豊かに戴いても、心に罪や自己中心、甘え、思い上がりがあって、台無しにしてしまうのです。単純な話、「クリスチャンになったから大丈夫」ではないのです。

 でもそういう愚かな人間を、神は決して諦めて捨てたりはしません。イスラエルの民が繰り返して背いても、主は呆れてしまわずに、士師を遣わして下さるのです。本当に何度でも、主は救い出してくださいます。限りなく憐れみ深いお方、何度でも助けてくださるお方です。

 ではそのような繰り返しだけでいいかと言えば、そんなことは士師記は言っていません。「失敗しても悔い改めたら神が助けてくださる」と思ったら大間違いです。もしこのパターンに乗っかって「苦しかったら悔い改めたらいいや」と横柄に構えて甘えたら、それは神の御心とは違います。神が救いを送って下さるのは、神が人間を憐れんでくださるから、赦して再び立ち上がらせて下さるためです。決して、このパターンが今も約束された「法則」なのではありません。士師記の中でもこのパターンは破られますし、神は真剣に人間に迫られるのです[4]。士師記は、神を捨てた民の殺伐とした、やりきれない現実で結ばれます。この「悔い改め・回復」というパターンでは人は悪くなるだけだ、ということを明示する書なのです。

3.本当の「さばきつかさ」であるイエス

 士師記はハッピーエンドでは終わりませんし、ルツ記、サムエル記と続いて、やがてキリストがおいでになる新約聖書に至ります。ですから士師記に答や慰めを無理に見出す必要はないのです[5]。やがて神がキリストを完全な王、全き士師として遣わされます。士師記は、

そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

と強調していました。問題は王がいないことだと言われており、ただ「失敗しても悔い改めれば神が助けて下さる」というループでは本当の問題解決にはならなかったのです。この後、イスラエルは王を持つようになりますが、サウルもダビデも

「自分の目に良いと見えることを行う」

王で、旧約はまだまだ坂道を転がり落ちてゆく。でもその末に神が本当の王を遣わしてくださいます。それがイエス・キリストです。

 イエスこそ本当の王であり最高の士師でした。そしてどの士師とも違う士師でした。軍事的で戦闘的な王ではなく、平和的で民族や敵味方を和解させる王でした。力で人の生活を守るのではなく、人の心の闇を照らし、癒やしてくださるお方です。上から統治して掌握する代わりに、イエスは最も低くなって人間とともにおられ、最後には十字架に架けられ、嘲られて殺されました。ご自分の武勇伝を求めるより、私たち人間の一人一人にかけがえのない物語を与えて、その人生をご自分がともに歩む美しい物語に変えてくださいます。イエスという王が来られることで本当の意味で士師記は終わるのです。

 そのような大きな流れの中で読み直すと、士師記は本当に私たちの書だと思えます。坂道をゆっくり転がり落ちる士師記にも、随所で神が働いておられます。ギデオンもエフタもサムソンも、折角の士師の立場を生かし切れない残念な士師です。英雄になろうと背伸びして失敗してしまう。その士師記を読むことで私たちは、もう背伸びを止めよう、失敗のない生き方など目指さなくて良い、自分の限界を見据えてあるがままで生きようと思えます。

 私たちは間違う者です。限界を持つ不完全な存在で互いを必要として助け合い、互いの違いを理解し合い、ともに生きていく。それが主イエスが示された人のあり方です。それを忘れて背伸びをしたり突っ走ったりして失敗をし、時にはひどく悲惨な結果を引き起こしてしまう。そういうしくじりだらけなのが聖書の民であり、教会の歴史です。主は失敗してしまう士師や私たちを愛されて選ばれ、民の失敗をも益に変えてくださいます。取り返しのつかない間違いからさえ、神は新しいことを始めてくださいます[6]。それは私たちが失敗しないようになるためではありません。主イエスの御支配にとって大事なのは、一人一人が間違いなく生きるか、成功するかどうかではなく、主を信頼し、自分に正直になり、互いに愛し合い、赦し合い、助け合うことです。

「私たちの裁き司である主よ。士師記を有難うございます。あなたが今も私たちの失敗を知り、世界の痛みとともに味わい、歴史を導かれている事を励まされて感謝します。主イエスこそ私たちの王です。どうぞ偽りや傲慢を捨て、失敗からも学ばせてください。恵みが世界を覆い、破綻が癒やされ、全ての失敗さえも手がかりとされる主の豊かな御支配を現してください」



[1] 「士師」とは広辞苑ではまず「中国古代の、刑をつかさどった官」と出て来る、官僚を充てた言葉です。新改訳では「さばきつかさ」としました。

[2] 9章。

[3] 19章1節も「イスラエルに王がいなかった時代のこと」と始まります。「王がいない」は、士師記の中心テーマです。後述します。

[4] 6章7-10節、また、10章全体。

[5] 士師記に希望が見えるのは、一つには士師記が終わった後のルツ記においてです。男達が好き放題に生きて滅茶滅茶にしている時代に、辺境のモアブやベツレヘムでルツやナオミ、女性達が何をしていたか、そこに神の慰めに満ちた御業が進んでいた、という所で、殺伐とした士師記も希望に移れます。

[6] また、もっと無名の女性や周辺での出来事にも主が目を留めてくださっていたことが分かります。特に、女性達が男性よりも強くて、男性達は目を覚まさせられます。

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