聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問50-51「神の右の座への即位」使徒二32-33

2017-01-29 16:34:23 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/1/29 ハイデルベルグ信仰問答50-51「神の右の座への即位」使徒二32-33

 牧師になって、初めて教会に来て信仰に関心を持つ方からよく聞かされたのが、

「神の右」って何のことですか?

という質問です。礼拝の使徒信条でも毎回言いますね。

「主は…天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり」

 でも、神の右ってどこなのでしょう。左もあるのでしょうか。あるならそこには誰がいるのでしょう。そんな質問に答えてくれるのが、今日のハイデルベルグ問50です。

問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか。

答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、そこにおいて御自身がキリスト教会の頭(かしら)であることをお示しになるためであり、この方によって御父は万物を統治なさるからです。

 ここでは、神の右が

「教会のかしらであることをお示しになる」

場だとあります。神は霊ですから、右も左もありません。「イエスが神の右におられるなら、神はイエスの左におられる」-そういうことではなく、「右の座」とは神から権威を委ねられて、神の支配権を委ねられた、ということです。皆さんの中に左利きの人もいるでしょうか。左手を自由に動かせる人はすごいなぁと思います。左は苦手で、右手の方が動かしやすいという人が多いですね。ですから、右と言えば、力や権威、正しさ、真実などを表すのです。神の右の座とは、神の栄光や支配を任される位です。王の世継ぎ、皇太子が座るのが右の座です。イエスが神の右の座に着かれたとは、イエスが神の御子として、神の権威を与えられて、すべてのものを治めておられることを指しています。

エペソ一20神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 ここに特に「教会にお与えになりました」というのが先ほどの

答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、そこにおいて御自身がキリスト教会の頭(かしら)であることをお示しになるためであり…

とある事と繋がっています。キリストが神の右に座しておられることは、特に、教会のかしらとして、万物を治めておられる、というのです。それがこう続きます。

問51 わたしたちの頭(かしら)であるキリストのこの栄光は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方がその聖なる御霊によって、御自身の部分であるわたしたちの中に天からの賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。そして次に、わたしたちをその御力によってすべての敵から守り支えてくださる、ということです。

 ここで大事なのは、イエスが神の右の座に着かれたことは、私たちから遠く離れた、天のどこかで座ってしまわれた、というのではないのです。イエスが神の右に座しておられることは、私たちを治めておられること。私たちに天からの賜物(恵み)を豊かに注ぎ込んでくださっているし、また私たちをすべての敵から守り支えてくださる。そういうことなのだ、と言うのですね。先ほど読んだ使徒の働きでペテロは言いました。

使徒二32神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

 このペテロは少し前には臆病で、大きな失敗をしてしまった人でしたが、ここでは大胆に大きな声でイエスの証しをしています。それは、ペテロ自身が、神の右に上げられたイエスに聖霊を注いで戴いて、力をもらっていたからです。もう一つ、使徒の働きの七章では、ステパノがイエスを証しして、殺される出来事があります。その時、殺されようとしていたステパノは、天を見上げてこう言いました。

使徒の働き七56こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

 ここでイエスは、人の子が神の右に「座って」ではなく

「立っておられる」

のを見たのですね。

イエスは、神の右に座って、ステパノが殺されようとしているのも構わずに、のんびりゆっくりしておられたのではないのです。ステパノを見て立ち上がっておられました。今も私たちを、身を乗り出しておられ、私たちのために執り成して働いておられるのです。それほど強い繋がりがあるからこそ、私たちはイエスが「神の右に座しておられる」と告白するのですね。それは私たちにとっての慰めであり、希望です。

 この強い繋がりをここではイエスが私たちの

「かしら」

であり、私たちはその

「部分」

と言って表現しています。これは「頭」と手や足や身体の諸部分のことです。英語ではメンバー、日本語では「器官」とか「肢体」という言葉がありますが、ちょっとピンと来ません。頭と手や足や目や鼻などのように、ひとつのからだになっていることです。聖書はこの繋がりを色々な表現で伝えています。羊飼いと羊もそうです。イエスは私たちを養い、私たちを守ってくださいます。水や牧草を与え、狼や泥棒は追い払ってくださいます。またぶどうの木とその枝というのも、そうです。私たちはぶどうの枝が幹につながるように、イエスに結びつけられ、養分を戴いています。枯れているように見える枝も、水を吸い上げて、ゆっくりと葉を茂らせ、時が来ると実を結ぶのです。イエスが教会のかしらであり、私たちがその部分として、一人一人に命や賜物を豊かに恵まれている…それは、そのように豊かなことです。イエスが神の右に座して、私たちを治めておられるとは、体や羊飼いやぶどうの木や、様々なイメージで豊かに伝えられるほど、本当に生き生きとしたことです。

一つ二つの例えでは言い尽くせないほど、私たちが教会の一員とされて、ここにいることはかけがえのない事実なのです。私たちは、神の右に座するイエス・キリストをかしらとする教会のメンバー。そう告白しましょう

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