2020/5/3 Ⅰ列王記19章1~7節「旅はまだ長い 一書説教 列王記第一」
月に一度の「一書説教」を、「列王記第一」からお届けします。列王記は第一が22章、第二が25章になりますが、元々は一つでした。その前のサムエル記上下とも合わせて、四巻物の大きな歴史絵巻[1]。列王記第一だけでも120年の歴史の記録ですし、第二まで含めると400年にも及ぶ時代を眺めます[2]。日本で今から四百年前と言えば、江戸時代が始まって鎖国や「島原の乱」などの大昔。徳川幕府から今のIT時代まで、と思えば、この列王記の中身の濃さも実感できるかもしれません。実際、列王記はダビデ即位の頃とは似ても似つかない、イスラエルが南北に分裂して、周囲の国と闘ったり同盟を結んだりする波乱の歴史が描かれます。
そんな列王記第一には、沢山の印象的なエピソードが鏤められています。ソロモンが知恵を求めた祈りや[3]、神殿奉献の祈り[4]、シェバの女王の来訪[5]、そして、南北に分裂した時のドラマの数々。そして、北王国最悪の王アハブと妻イゼベル、そして預言者エリヤが対決する17章以降[6]。18章では、天から火が降って、主こそ神であることが力強く立証されるのです。
しかし、その続きの19章はどうでしょう。それほどの奇蹟があったのだから、形成が一気にひっくり返った…とはなりませんでした。アハブ王の妻イゼベルの脅しに、エリヤは逃げ去るのです。天から火が降る奇蹟を目にして民衆も大興奮したのに、そんな盛り上がりはアッという間に冷めてしまう[7]。エリヤは果敢に立ち向かうどころか、打ち拉がれて逃げていく。
19:4…彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」
こんな崩れ落ちた姿です。
私たちも大きな出来事があれば「これで善くなるだろう」と思ってしまう。期待しては裏切られてガッカリ、どっと疲れが出る。生きるのも嫌になる。でも、大きな出来事や上辺の立派さは何も保証しない、という事こそ列王記のテーマかもしれません。印象的な出来事もありますが、ダビデが死ぬ前にソロモンに命じた粛正とか、預言者同士のやりとりとか、これは良いことなのか犯罪じゃないのか、と理解に苦しむ出来事もある[8]。ソロモンの若き日の繁栄や贅沢や神殿建設も、手放しで評価されてはいません[9]。先のサムエル記でも、
「人はうわべを見るが、主は心を見る」
とありました[10]。それに続く列王記は、イスラエル社会がもっと大きく複雑な組織になって、人は上辺の出来事しか見えませんが、主はこの世界をもっと違う目で見ておられるのだと思わされます[11]。むしろ私たちに、上辺を見て「これは素晴らしい」「ダメだ」と、安易に白黒をつけなさんなよ、見た目の行動を無理矢理変えようとしても解決にならないんだよ、と弁えさせるのが、列王記かもしれません[12]。天から火が下るような奇蹟があるとか、金の立派な神殿を建てて、人は変わったように見えるかもしれない。しかしそれは上辺だけで、人の心は変わらない。エリヤも期待を大きく裏切られて疲れて、逃げ出し、あまり居心地も良さそうでないエニシダの木の下で惨めに横になっていました。
19:5彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。
御使いは、エリヤの不信仰を責めたり悔い改めを迫って説教したりせず、パン菓子と水を下さり、また眠らせてくださる。そして、もう一度戻ってきて、こう言います。
7…彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。
この旅の道のりはまだ長い。神は脅して無理に変えようとはなさらない。むしろ、神は、人の心を深く取り扱っていく長い道のりを惜しまれないのです。聖書協会共同訳はこう訳します。
「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。」
神は、長い道を厭われません。分裂王国では、北は離反者で、善い王は皆無で、エルサレムのある南がダビデ王の直系で、正統で、最終的には百年長続きします。でも列王記で神は、より罪の重い北イスラエル王国との遠回りの道を厭われません。罪を繰り返して責めつつも[13]、預言者を送り、働きかけ、愛し続け、語りかけてくださる。主ご自身が長い道のりを、堪え難い思いをしながら、でも堪え続けてくださる。それを、エリヤにも知らせているのです。
色々な出来事が起こり、中々物事がうまく進まず、イライラし疲れ、他人を変えようとして、罰則や暴言で封じ込めようとして、ますますギスギスしています。神様ならもっと手っ取り早く、近道を作ればいいのに、と思いたくなりますが、神にはそういう考えはなく、長い遠回りをなさり、人に関わってくださる。型にはめたり罰で脅したりしても、人は変わりません。そうした解決を焦るやり方を手放して、まず自分の心が何に動かされるか、何を求めているかに気づきましょう。主は、私たちを責めも脅しもせず、安請け合いも語らずに、食べ物や眠りを与え、道は長い、と淡々と励ましてくださいます。それがイエスが示した道です。その長い道を通して、主は私たちを導き、心に触れてくださると信じて、旅を続けていくのです[14]。
「王なるイエスよ。旅の道のりはまだまだ長いとしても、あなたがともに歩み、ともに堪えてくださいます。温かい食べ物を与え、眠りなさい、と仰って、今日を迎えています。本当にありがとうございます。その愛によって、私たちを心から変えてください。あなたご自身が、私たちの上辺ではなく、心を憐れみ、慈しみ、慰め、成長させてくださいます。この困難な中でこそ、私たちがお互いを思いやり、主の言葉に支えられて、ともに旅路を進んでいけますように」
[1] サムエル記とのつながり。エリへの予言の成就(2:27)や、12:16の分裂の歌が、Ⅱサムエル20:1の反復であること、など。
[2] 南ユダ(BC1000-587。400年)、17人の王と3人の傀儡。北イスラエル(BC922-722。200年)、19人、8王朝。Ⅰ列王では70年。同じ時期に、北は9人、南は5人の王。
[3] Ⅰ列王記3章。
[4] 8章。
[5] 9章。
[6] そんな中にある有名な御言葉をいくつか挙げると、Ⅰ列王記3章9節「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」、8章27節「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」、46~51節「罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、47捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、48捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、49あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、50あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。51彼らはあなたの民であり、あなたがエジプトから、鉄の炉の中から導き出された、ご自分のゆずりの民だからです。」、17章14節「イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」、18章21節「エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。」などを挙げます。
[7] バアルの預言者らとの戦いは、ひとつのクライマックスだが、それで局面は変わりはしなかった。イエスも、天から火を下しましょうか、といきり立った弟子たちを窘める(ルカ9:54-55)。また、黙示録でも13:13では偽預言者側で、天から火を下す威力が演じられる。ここでも「火の中に主はおられなかった」(19:12)と言明されるのだ。主は「火の後に、かすかな細い声」がある。それが、主の声。私たちは、自分のいきり立つ声や、力尽くの奇跡に頼ることを戒められている。罪人を裁き、上から断罪する時、私たちも罪人に似ていく。
[8] 最初から、これはどうか?が多い。ダビデの暴力性、ソロモンの粛正、大神殿の建設(階段で作ることは禁じられていたのに)とその倍近い年数かけての宮殿建設、などは、正当化する必要はありません。13章の奇妙なエピソードも、南からヤロブアムを責めるために北上してきた預言者が、ヤロブアムを一方的に断罪することは出来ない、南ユダ王国の住民の霊的な事実を物語っていると言えます。
[9] それが間違っていたことは、レハブアムの登場直後に民から出たのが、ソロモンの統治下のくびきだったことから分かる。
[10] Ⅰサムエル記16章7節「主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
[11] ヤロブアムの幼い子アビヤの死も(14章)悲しい事ではあるが、ヤロブアムへの罰とは言われません。むしろ、その子(だけ)が良かったと言われ、悲しまれて墓に葬られるのはアビヤだけだ、と言われるのです。14:13「全イスラエルがその子のために悼み悲しんで葬るでしょう。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、彼だけです。ヤロブアムの家の中で、彼だけに、イスラエルの神、主のみこころにかなうことがあったからです。」
[12] 「罪にもかかわらず」とか「(前王の良き業にも)かかわらず」とか「父母ほどではなかった」(Ⅱ列王3:2)など、微妙な言葉も多い。単純に、勧善懲悪では測れないことが明らか。
[13] 「ヤロブアムの罪」は列王記で繰り返される特徴語です。10回。16:31、Ⅱ3:3、10:29、13:2、11、14:24、15:9、18、24、28。「ヤロブアムの道」15:34、16:2、19、26、22:52、5回。歴代誌には出て来ない。
[14] 私たちは、表面的なことだけ変えようとして、強いたり責めたり命じたりする。しかし、それでは内面がますます腐り、澱む。人の成長を望むなら、行動を強いたり脅したりするよりも、愛すること、励ますこと、自分も正直に接すること。