聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/5/17 マタイ伝7章1~5節「はっきり見えるように」

2020-05-16 11:44:32 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/5/17 マタイ伝7章1~5節「はっきり見えるように」

 マタイ5~7章の「山上の説教」をゆっくり見ています。ここにはイエスの福音のエッセンスが詰まっています。「神の国」とはどんなものか、イエスは私たちをどんな生き方に招いているのか。神が私たちの天の父である生き方。神の国と神の義を求める生活。それがどんなものか、豊かに描かれています。その一つが、
「さばいてはいけません。」
です。
 裁判や判断は必要ですが、誰もが裁判官になったら大変です[1]。でもそれはされがちです。「あの人はダメだ。頭がおかしい。何かあったんだよ。報われるようなことをしたのだ。親の育て方が間違った。性格が歪んでいる」。そんな口さがない言葉が溢れています。イエスは仰る。
「さばいてはいけません」。
 それは
「神の国と神の義を求めなさい」
の大切な具体化です。
 「神の国」は神の恵みが治める国です。
「2あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」。
 あなたの裁きが自分に当てはめられることを想像させます。自分が当てはめられて嬉しい物差しは何だろうか、と想像させる。噂話でも批評でも、それが自分にそのまま帰って来たら…と思うと、ハッとさせられますね[2]。
 更に言います。
「3あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」。
 人の目に塵(埃、木屑)が見えて「取り除かせて下さい」と丁寧に申し出て親切なようでも、あなたの目には梁がある。針ではなく梁[3]。木屑どころか丸太がある。目に丸太が入るわけがありません。でもイエスはそんな大袈裟な言い方で、私たちに裁きが無理である事を揶揄されます。目に丸太が入っていたら何も見えません。それに気づいていないのだとしたらよっぽど鈍感で、感覚が麻痺しているでしょう。もう一つ、それを振り回せば、危ない。人を助ける所か、傷つけたり殺したりしかねません。ですから、
5偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。[4]
 今回、「ああこう言われていたのだ」とハッとしました。はっきり見えるようになって[5]、人の目から塵を取り除くことも出来るようになる[6]。「裁いてはなりません。自分が裁かれないため」と、人の欠点や間違いが見えるけれど、それを言うと自分も裁かれるのは嫌だから、黙っておく。人の事を言わない。でも自分の目には梁が入ったまま。「私は目に丸太は入っていて人の事は言えない私です」と萎縮して諦めてしまう人に、イエスははっきり見えてほしい天の父である神を見て人の小さな裁きから解放してあげよう、と招いておられるのです。
 1節の
「さばいてはいけません」
は対象がありません。「人を」とは言いません。自分をも裁かない、という事も大事でしょう。また1節は
「自分がさばかれないために裁く」
ことを禁じているという文にも読めます。自分が裁かれたくないから先手、を打って人を裁く。或いは、人から裁かれたくなくて、先に自分で自分を裁く。そして、自分が裁かれたくないから、人を裁くこともしない。どれも、裁かれることの恐れが動機です。評価か罰か、ジャッジが土台になる生き方です。そういう考え方そのものが「目の中の梁(丸太)」ではないでしょうか。
 イエスがずっと語るのは、あなたがたの天の父である神です。断罪者ではなく、贖い主である父です。悪い者にも太陽を、不正な者にも雨を降らせ、明日は地に落ちる鳥も養い、明日には火で焼かれる花をも最高に装いたもう神を指し示して、その神の子どもとして生かされているのです。私たちを養い、愛して、恵みの義の道に招かれる神。この神に、背を向けた世界で、私たちはいつのまにか目に丸太か覆いか色眼鏡かで曇らされて、神の恵みが見えなくなり、私たちはいつも人を上辺でさばいたり、レッテル貼りをしたり、噂話や憶測や決めつけをしています。その見えない目のまま、神も私を裁いているかのように思ってしまう。そういう私たちの「さばき」を土台とした見方を、「さばき」から自由にして、天にいます父を「はっきり見える」。それがイエスの願いです[7]。
 そして、神の恵みが見えるようになって、その光の中ですべてを見るようになる時に、人の目から塵を取り除くことも始まるのです。[8]
 こう仰るイエスご自身、笑って
「さばくのはやめなさい」
と仰ったように思います。
「あなたの目には梁がある」
なんて譬え、生真面目な人には思い浮かびません。聞いていた人たちも、大袈裟すぎて、笑って良いのか悪いのか、分からなかったかもしれません[9]。そして、この後イエスは、罪人と見なされる取税人や売春婦たちとも食事をし、分け隔てなさいませんでした。周囲の人は「どうしてあんな奴らと一緒にいるのか」と裁きましたが、イエスは彼らを愛され、喜ばれました。
 教会は、さばかれる必要のない人たちの集まりではありません[10]。
 裁かれたら、居ることの出来ない人たちが、イエスの恵みによって、神の子どもとされて集められているのが教会です
 そこで、実際に問題になる目の塵を、そのままにはせず、丁寧に、神の恵みの光の中で取ることもして、そしてともに父を仰ぐ集まりです[11]。
 私たち全員がその一人一人です。

「天の父よ。あなたの力強い恵みが世界を生かし、傷を癒やし、罪に赦しを、和解や回復をもたらしています。その御業を見えなくしている私たちの目の丸太を取り除いてください。あなたの福音の約束がはっきり見えるようになって、殺伐とした裁きの言葉や思いを溶かしていただけますように。裁かれる恐れのない教会としてください。あなたの愛の光の中でだけ、罪も問題も取り扱われ、あなたの御心に適う、健やかな交わりが生まれると信じさせてください」
[1] マタイでは「さばく(クリノー)」は、5:40、19:28とここのみ。さばきは悪いことではない、神がなさるのだ。神だけがなしうる、デリケートで難しいものなのだ。いずれにせよ、私たちの土台は、裁きではなく恵み。神の裁きさえ、恵み故の裁き。詩篇では「裁きか救いか」ではなく、「裁きは救い」「義は喜び」なのだ。詩篇97:8「シオンは聞いて喜び ユダの娘たちも 小躍りしました。 主よ あなたのさばきのゆえに。」、119:20「いつのときも あなたのさばきを慕い求めて 私のたましいは押しつぶされるほどです。」だからこそ、人は慎重にならなければならない。ともすると、神に代わって、出過ぎた「さばき」で壊してしまう。自分が裁かれるべきことを忘れて、人を論う。自分が裁かれたくなくて、人や自分をさばく。神が恵みの神、天の父となってくださったことが見えないまま、神から離れた世界の、「異邦人の」「偽善者」の歪んだ、表面的な、表層的なジャッジをしてしまう。
[2] 自分がさばく秤で、自分も裁かれる。これは、とても腑に落ちる基準。最後の審判で、万人が量られる裁きの基準も、ある人には及びもつかない高尚な基準、と言うよりも、自分が量ってきた秤で、自分が量られるのだとすれば、言い返すことが出来ない、正当な裁きでしょう。自分だけ特別扱いは出来ない。
[3] 「梁」(ドコス) 英語でログ。
[4] 「偽善者」6:2、5、16と繰り返されてきた注意が、ここでは直球で「あなた」と言われる。(二人称単数)
[5] 「はっきり見える」ディアブレポー ここと、マルコ8:25(8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。)、ルカ6:42(平行箇所)
[6] 「取り除く」エクバロー。7:22「悪霊を追い出し」他。イエスの働きの一つだが、自分の目が塞がったまま、他者の目からチリや悪霊を追い出す愚が指摘されている。
[7] はっきり見えて欲しいのは、何よりも、人の目のちりよりも、神の豊かな恵みだ。エペソ1:17~19「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(この「はっきり見えるフォーティゾー」は、マタイ6:5の「はっきり見える」とは違う言葉ですが)。神の恵みの世界だ。鳥にも花にも、この世界に明らかな恵みだ。それが見えていないことが、イエスは最も悲しいのだ。
[8] 「他人がどう感じているのか、何を必要としているのかを知ろうともせず、他人がどうなろうと気にしないというのは、ほかの人の存在を認めようとしないことであり、つまるところ、世界に自分以外誰ひとり存在しないのと同じだ。…わたしたちのなかには、無限の価値を持っている人に「おまえは役立たずだ」と言い、本当は賢い人に「おまえは馬鹿だ」と言い、実際には成功している人に「おまえは失敗している」と言う破壊的な人びとに囲まれている人がいる。けれども、このように他人を引きずり下ろす人と反対に位置するのは、お世辞を言ったりおだてたりする人ではない。寛容でありつつも言動への責任を求める人であり、あなたの本当の姿と言動を映す鏡になる、あなたと対等の人なのだ。/対等であるわたしたちは、お互いに誠実であり、批評や意見を取り交わし、意地悪や虚偽を許さない。そして、自分の意見に耳を傾け、敬意を払い、応対してくれるよう相手に求める。それは誰にも許されていることなのだ。わたしたちが自由であり、自分の価値を認めているのであれば。自分が抱えている欲求や恐怖や感情を他人も同じように持っていることを認識させてくれる公の対話には、民主主義がある。オキュパイ・ウォール・ストリート運動に参加していた高齢の女性が語った「私たちは、すべての人が尊重される社会のために闘っている」という言葉に、わたしはいつも立ち戻る。…」レベッカ・ソルニット『それを真の名前で呼ぶならば』(渡辺由佳里訳、岩波書店、2018年)16~17頁
[9] イエスは、イエスご自身がはっきり見える目を持っている。父の愛を、自然にも周りにも豊かに見て、喜んで、安心している。私たちの変化、将来も、悲観せず、今日を生きている。梁はその目にはなく、梁を交差させた十字架に、つけられることで私たちへの愛、罪とその赦しを見せてくださった。イエスが私たちの目から、塵も梁も取ってくださるのである。人を裁く秤からも、自分を裁く秤からも、裁かれることを恐れる不安からも、救い出してくださるのだ。
[10] ここで思い起こすのは、「世界で一番美しい詩」The Best Poem in the World です。この詩にも「さばいてはならない」という言葉が出て来ます。
[11] それはどうしてか。自分のことは棚に上げたり、裁きのための裁き、粗探し、断罪ではなく、父なる神の恵みに気づくからではないか。否定から入るのではなく、恵みを土台とするからこそ、正義は人を生かす義となり、さばきは人間関係を整理する裁きとなる。
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