2020/5/31 マタイ伝12章22~32節「赦されない罪がある?」
「御霊に対する冒涜は赦されません」と聞くとドキッとします。「赦されない罪があるのか」と怖くなります[1]。今日の31~32節に「聖霊に対する冒涜は赦されない」と言われています。
31ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。
この言葉は、イエスが十字架にかかる前、集まった群衆を癒やし、目が見えず口も利けない人を癒やされた時を背景にしています。イエスの癒やしや回復の御業がありました。そして、18節から21節では、古いイザヤ書の預言が引かれて、この神の約束の成就だと言われます。
「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」
主が、しもべを送ってくださって、その上に聖霊を授けて、異邦人にも、傷んだ茎の細い葦や、燻って消えそうな灯のような弱い者にも、勝利や希望を与えて、導いてくださる。そういう約束を神は昔から語っておられました。その始まりとして、イエスが来られました。集められていた群衆や障害者、社会の底辺に生きている人たちに近寄ってくださいました。彼らこそ、生まれが異邦人であれば、除外される。傷や弱さがあれば、それは本人か親か、誰かの罪のせいに違いない、と「赦されない罪を犯した者たち」とレッテルを貼られて、社会からはじき飛ばされていた人たちです。でも、神の約束はそれよりも深く、大きく、豊かでした。神は、ご自分のしもべとして御子イエスを遣わして、傷んだ人に、消え入りそうな人たちに寄り添ってくださいました。そこに神の聖霊も働いてくださって、癒やしや回復が始まっていたのです。それは異邦人さえ、イエスの名前に望みを持てる、という神の約束の始まりだったのです。
それにケチを付けていたのが、24節のパリサイ人たちです。
この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。
彼らは、イエスの周りの、病人や異邦人や下層庶民が喜ぶ姿にケチを付けずにおれません[2]。イエスは26~30節でその言いがかりを喝破されます[3]。でも問題は、イエスの働きや聖霊の働きに逆らう事を口にしたかどうか、ではないのです。そもそもパリサイ人が握りしめている神の約束への抵抗、聖霊が心に働いても耳を貸したくない頑固さが警告されているのです。神の約束である癒やしや、広く罪人を招かれる赦しに対する反発、「あんな奴らまで癒やされたら、自分たちの立場がない」という自分本位の生き方、人の傷や弱さ、痛みや罪を、憐れみ、自分のことのように嘆くよりも、自分は奇麗でいたい、強くいたい、立派に見られたい。そういう本心。それ自体、差し出された赦しも和解も拒むことですから、赦されようがないのです。[4]
今日は聖霊降臨主日。「五旬節」[5]のお祭りの時に、使徒二章に書かれるように、聖霊が弟子たちに降りました。元々「初穂の祭り」、初めての収穫のお祝いでした。この日から、聖霊が実り豊かな宣教を始めてくださいました。また五旬節は「十戒」が授けられた日です。聖霊は私たちの心を神の戒めによって新しくします[6]。ペンテコステから始まった聖霊の御業の末に、イスラエルから遠い世界である今ここにいて、福音を聴き、御言葉を教えられ、世界中の教会とともに主イエスを礼拝しています。イエスの十字架と復活に続いて、ペンテコステの日に弟子たちが新しくされて、神の物語が新たな1頁を迎えて、教会が広がっていったのです[7]。それは、弟子たちの働きである以上に、聖霊によって人に届けられた、神の御業なのです。
聖霊は、神に背いていた人の心に働いて、罪に気づかせ、悔い改める心を与えて、赦して受け入れて、同じように赦され、傷み、燻っている灯のような者たちと同じ神の民の一員として歩ませます。鳩の姿で現れた聖霊は、病気や障がいのある人も、異邦人、よそ者と見られた人にも、癒やしと希望を下さり、神の民としてくださる。コロナや差別や恐れで、どうすれば良いか分からない時、聖霊は私たちを強がりから自由にして、弱さや限界を受け入れ、ともに生きる心を下さいます。それがイエスが始めた「神の国」です。その、他者に対する赦しや恵みに言いがかりをつけたパリサイ人に、赦しを拒む「赦されない罪」が警告されたのです。[8]
赦されない罪を犯したのではないかと思ったら、罪と気づかせてくださったのは聖霊であり、回復の始まりであることを思い出しましょう。「赦されない」と恐れたり自分を責めたりせず、赦しを祈り、和解を求め、癒やしを戴き、そして、隣人や自分にとっての異邦人にも、同じ憐れみが注がれていることを忘れない眼差しをいただきましょう。それが、聖霊のお働きです。私たちが信仰を持ち、礼拝に集まっていること。それは、ペンテコステの続きであり、やがてすべての人が主の大きな赦しに与るという望みへと至る保証なのです。
「主よ、あなたが私たちのために、御子イエスを送り、聖霊を遣わされた恵みに感謝します。信仰も悔い改めも、希望も愛も、私たちではなく聖霊が下さった賜物です。あなたの大きな御国のご計画、世界の回復の兆しです。どうぞその御業に今も与らせてください。コロナで心が弱くなる今こそ、聖霊により、言いがかりや冒涜から、あなたの愛と祈りへと導いてください」
脚注
[1] ここから、教会の歴史では、「七つの大罪(傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰)」という教理や、「意図的に犯した罪」、などという「赦されない罪」の定義が論じられてきました。しかし、それは、ここでの本旨とは違うと考えられます。
[2] パリサイ人たちは、ここでイエスに敵対する権力側、体制側、社会の主流で尊敬されていた立派な人として出て来ていると言って良いでしょう。イエスが悪霊を追い出しているのは、「悪霊のかしらの力だ」というのは「毒をもって毒を制す」というよりも底意地が悪い考えで、イエスを悪霊側、毒のある側に断定しているわけです。
[3] よく考えれば、サタンの国の内部分裂なら自滅しかありませんし、パリサイ人側の悪霊追い出しも「自作自演の狂言だ」と言えなくなります。パリサイ人の論理は、全く説得力を欠いています。
[4] パリサイ人はその恵みの国を憎みました。貧しい人、異邦人として退けていたい人が赦され、神の慈愛に与って癒やされ、喜んでいることを僻んで、妬んで、ケチを付け、泥を塗ろうとしました。それは、神のお働きを拒むことです。神の業、イエスの働きを「悪霊の力だ」なんだと難癖を付けるのは、聖霊の働きへの冒涜です。神の赦しを踏みにじることです。神の赦し以上の回復を拒むなら、赦しはもらいようがないのです。
[5] 主イエスが十字架にかかって、三日目によみがえったイースターから七週間後、五〇日目のこの日は、「五〇」を意味するペンテコステ(五旬節)と呼ばれます。ヘブル語では「シャブオート」です。
[6] エレミヤ書31章の預言が成就したのです。
[7] 神は、イエス・キリストの十字架と復活によって私たちを贖い、その業を聖霊によって、私たちに確実に届けてくださり、罪の赦しも信仰も与えてくださいます。大きな救いの物語に入れて、神の戒めの支配を待ち望む心も下さって、今ここに生かしてくださっています。
[8] ニュー・シティ・カテキズム第三十七問「聖霊は私たちをどのように助けて下さるのですか? 答 聖霊は私たちに罪を認めさせ、私たちを慰め、導き、霊的な賜物を与え、神に従う思いを与えてくれます。そして私たちが祈れるようになり、神の御言葉を理解させてくれます。」