聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答72、75 エペソ1章15~23節「王であるイエス」

2019-01-27 14:36:49 | はじめての教理問答

2019/1/27 エペソ1章15~23節「王であるイエス」はじめての教理問答72、75

 夕拝ではここしばらく、

「キリスト」

とは

「油を注がれた者」

という意味であることと、その働きは「預言者・祭司・王」という三つの務めを手がかりに理解できることをお話ししています。今日はその最後の「王」、イエスが王であるというテーマです。

問72 キリストがあなたにとって王であるとは、どういうことですか?

答 キリストはわたしや、この世界、そして悪魔をも支配し、わたしを守ってくれます。

問75 どうして、あなたには王なるキリストが必要ですか?

答 わたしは、弱く無力なものだからです。

 キリストは、私にとっても、この世界にとっても、王です。そして、悪の力に対しても王です。キリストこそ、すべての上におられて、全ての者を治めておられる王です。私たちは、イエスの最高の権威、権力、支配、偉大さを信じます。

 そう言いながら、私たちは、イエスよりも自分の心の王座に自分がデーンと座ってしまう者でもあります。イエスを自分の願いを叶える王、取り引き出来る相手として、事実上、イエスは自分の王座から追い落とします。イエスが力強い王だということさえ、そのイエスの力を後ろ盾にして、自分を高めよう、自分が強くなろうという誇大妄想に結びつけてしまいます。そんな無理は、不安や不満を膨らませる結果を招くだけです。

 だからこそ私にとっては

「イエスが王である」

という告白は

「私は王ではない。私が神や強い人になろうとするのではない」

という気づきに結びつきます。また、自分の願うようにならないで、惨めで無力な思いをするときにも、それでもいいのだ。大事なのは、イエスが私の王でいてくださることだ、という安心感につながります。

 もう一つ、ここでキリストが

「悪魔をも支配し」

と言われていることに触れておきましょう。キリストは悪魔に対しても王です。決して、キリストも神も、サタンと対等な関係にはありません。確かに聖書には、悪魔(サタン)と呼ばれる存在が出て来ます。神が造られた霊のひとりなのでしょうが、なぜか邪悪で、神に逆らったり、人間を神から引き離そうとしたりする存在で、最後には、神の裁きによって罰せられる存在です。そういう悪い霊、邪悪で強い働きをする存在は確かにいるようです。しかし、それは神と対等な存在ではありません。神に敵対してはいますが、神の敵やライバルではありません。神はサタンに手こずらされることはありません。サタンは、神の手を焼かせて、困らせたり、神に隠れて何かをしたり、神を少しでも出し抜いたりすることは全くありません。神はサタンも含めた、全てのものを完全に治めておられる王なのです。

 サタンと戦っているのは神の側の御使いです。悪魔は神に直接刃向かうことは出来ませんし、御使いたちは、悪魔を討ち滅ぼし、やがて完全にサタンを打ち負かすのです。そして、そのような闘いが、神の支配の中で進んでいるのです。神は悪魔と戦っておられるのではなく、神の支配の中で、悪魔の悪巧みや悪足掻きが打ち負かされていく途中なのです。ですから、悪魔の企みに注意しつつ、悪魔を恐れすぎることはしないようにしましょう。■岬希君が好きなドラゴンボール。この中にも、悪者や良い者が出て来ますね。お話しの中に「かみさま」も登場します。では、聖書で言う「神様」に一番近いのは、誰だと思いますか。一番強いキャラクターでしょうか。聖書を考えていくときに、神様は聖書の中に出て来るのではなく、聖書を書いたお方です。ですから、この物語では、登場人物の誰かよりも、作者、原作を書いて著作権を持っているのが最も神様に近いのです。

 エペソ書は、読者の「心の目がハッキリ見えるように」と、こう祈っています。

エペソ一18…神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

 神の大能の力、すぐれた偉大な力が、キリストを通して私たちに働いている。神はキリストを死者の中からよみがえらせ、神の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権、今の世にも、やがて来る世にも、すべての名の上にキリストを置かれています。神は、イエスを、すべてのものを治める王とされています。力の偉大さを、私たちが味わい知ることが出来るよう、私たちの心の目がハッキリ見えることを祈っています。

 しかしキリストの御支配は、決して上からの、力尽くの支配ではありませんでした。キリストは王位を捨てて、人間の所に降りてこられ、人に仕えました。金の冠で偉そうにするよりも、茨の冠を被され、本当に人の痛みを思いやる王でした。人の心の恐れや悩み、疲れ、罪に届くために、ご自身が悲しみや弱さ、死をも味わわれました。イエスの偉大さ、神の大能の力は、そのような憐れみ、惜しみない愛にこそ現れています。

 『そのままのきみがすき』という絵本があります。王様が来られる時、人々は

「王様は偉い方なんだから、いいところを見せなきゃ、お城ってのは素晴らしい才能のある人だけが住めるんだから」

と考えます。そこにやってきた本当の王様は、誰も気がつかない普通の格好でした。そしてこう言うのです。

「もし王様だと気づかれたら、お願い事を言われたり、チヤホヤされたり、文句を言われたりするだけで、淋しい。王様はみんなとただ話したい、一緒に過ごして、一緒に笑ったり泣いたりしたいんだ。どうすればわたしによく思われるだろうと考えたりせず、わたしがありのままを愛していることを知って欲しいんだ」。

 キリストも大能の力を持つ王でありながら、世界の最も低い場所に来られ、貧しい一生を過ごし、十字架で裸にされて死にました。それはこの世界の王とは真逆の歩みです。しかしそれこそが全ての王の王なるキリストの権威です。このイエスこそ私たちの王で、私たちも世界をも治め、悪魔からも守ってくださいます。そのイエスは、私たちも偉ぶったり競争したりせず、互いにそのままで喜び合い、生かし合うように私たちを治めてくださいます。私たちを神の御国の中で育ててくださいます。

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はじめての教理問答71、74 ヘブル7章24~8章6節「祭司キリスト」

2019-01-27 14:27:39 | はじめての教理問答

2019/1/20 ヘブル7章24~8章6節「祭司キリスト」はじめての教理問答71、74

 

 「キリスト」とは「油注がれた者」という意味の言葉です。旧約聖書には、香油を頭に注いで、神様がその人を、神の国のために特別な立場に着かせることを表した儀式が何度か出て来ます。それは、預言者と祭司と王の三つの働きでした。「キリスト」のお働きもその三つを手がかりに出来ます。今日は二つ目の「祭司」です。

問71 キリストがあなたにとって祭司であるとは、どういうことですか?

答 キリストはわたしの罪のために死に、わたしのために祈りつづけてくれます。

問74 どうして、あなたには祭司なるキリストが必要ですか?

答 わたしは、神の律法を犯し、罪あるものだからです。

 ここでは、キリストは私の/あなたの祭司だと言われています。私たち自身は、神の律法を犯して、罪があるものです。神の前に立つには相応しくない、心の罪や、嘘や憎しみや思い上がりがあります。ですからその私たちのために、キリストがいてくださって、私たちのために神様との繋がりを造って下さっているのです。よいですか、私たちにはキリストがいてくださいます。私たちが、どんなに大きな悪いことをしたり、心の奥にどんなに深い闇があったり、ボロボロであって、とても自分は無理だろうと思ったとして、イエスが私たちの祭司となってくださって、私たちと神とを結びつける役割をしてくださいます。だから、私たちはどんな時も希望を失わないのです。

 今日のヘブル書は、この書全体が、キリストが私たちの大祭司だと教えている手紙だと言えます。パウロの手紙には「祭司」という言葉は一回しか出て来ませんが、このヘブル書には、祭司・大祭司あわせて30回も出て来ます。そして、イエスが大祭司であることを詳しく豊かに教えてくれます。すばらしい言葉がたくさんありますが、今日は、

七24イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

 イエスは永遠に存在される祭司。いつも生きていて、私たちのために執り成しをしておられる! そう言われています。私たちはお祈りの時に「イエスのお名前によって」と言います。それはここにある「ご自分によって神に近づく」ことです。イエスのお名前を通して神に近づく。私たちの願いや祈りを、イエスが祭司として届けてくださることを信じて、安心して、確信をもって祈ることが出来るのです。

 イエスと他の大祭司、イエスの前にいた祭司達と比べると、イエスがどれほど優れた、完全な祭司であるかが分かるともここでは言われています。イエス以前の祭司たちも神が油を注いで選ばれた祭司ではありましたが、イエスほど完全ではありませんでした。彼らは人間で、まず自分の罪のために生贄を捧げなければなりませんでした。弱さを持っている人たちで、悩んだり、間違いをしたりしていました。不完全な祭司でした。

 簡単な表にしてみると、こんな比較がここで言われています。

 大祭司イエスは

「敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離されて、天よりも高く上げられた」

大祭司でした。裏を返せば、イエス以前の祭司たちは、敬虔さも不十分で、悪も汚れもあり、罪人の仲間でした。ですから、他の祭司たちは、まず自分の罪のために生贄を献げなければ、人々の罪のための執り成しをすることは出来ませんでした。イエスは自分のいのちを献げました。イエスご自身が、神と私たちとの間の架け橋となったのです。しかし、他の祭司たちは、動物、羊や牛や穀物を捧げました。それは、イエスの十字架の死と比べたら、ままごとみたいなものです。また、イエスは一度だけ自分を捧げたら、完全に生贄は成し遂げられました。それまでの祭司たちは、毎日、生贄を捧げ続け、年に一度の特別なお祭りさえ、毎年繰り返さなければなりませんでした。イエスはその生贄によって、

「永遠に完全なものとされた」

と言われますが、それまでの祭司たちは弱さを持ち、最後には死んで、次の祭司と交代し続けました。そして、イエスは

「人間によってではなく、主によって設けられたまことの幕屋、聖所でつかえておられます」

と言われますが、他の祭司たちはそうではなく、

「天にあるものの写しと影に仕えて」

いただけでした。

 この「天」というと、どうしても空の上、宇宙の彼方のように思ってしまうのではないでしょうか。もし「天」が私たちから遠くなったのだとすると、イエスが大祭司であることの有り難みも薄れてしまいます。ここでは

「よりすぐれた契約の仲介者」「はるかにすぐれた奉仕を得ておられます」

と書かれています。イエスが天にある聖所で仕えていることは、私たちに遠くなったのではなく、地上の聖所が表していた本体、天にいます神に仕えてくださっていることです。それは、以前の祭司たちが示してきたメッセージの完成です。イエスは、本当に私たちと天の神とを結び合わせてくださるのです。

ヘブル四14さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 イエスは私たちの大祭司として、私たちと同じ人間になり、弱さや試みを自分の事として知っておられます。私たちの罪や恥も十分に知った上で、私たちと神との間に立って執り成してくださる大祭司です。そして、私たちを神に結びつけることで、私たちを強めて、助けて、大胆さをも与えてくださいます。イエスは、私たちの罪の弁護や情状酌量を神に求めるだけではありません。イエスは、私たちの心を清くして、私たちが罪に振り回される生き方ではなく、神への信頼をもって生きるように変えてくださる大祭司です。私たちはまだ神の律法に違反して、罪がある者です。その私たちの大祭司となってくださったイエスは、イエスご自身のいのちによって、私たちと神とを結びつけてくださいました。今、私たちの礼拝も、皆さんの毎日の祈りも、心の奥のうめきさえも、イエスは神のもとに届けて下さり、いつまでも神の民として歩ませてくださるのです。

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出エジプト記19章3-9節「わたしの宝とする 出エジプト記」

2019-01-27 14:21:52 | 一書説教

2019/1/27 出エジプト記19章3-9節「わたしの宝とする 出エジプト記」

 今月の一書説教は「出エジプト記」です。エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエル人を、神が力強い奇跡で救い出して、神の民としての新しい歩みを下さった。何度も映画化される、ドラマチックな内容です。イスラエルの民は、このエジプト脱出を記念する「過越」を毎年春にお祝いし続けて、自分たちの原点としています。そしてイエス・キリストは「過越の祭り」において十字架に架かり、私たちに新しい歩み、神の民として解放を与えてくださいました。出エジプトの過越と、海が割れた奇跡、そして五十日目のシナイ山での律法付与は、イエスの十字架の死と三日目の復活、そして五十日目に聖霊が注がれたペンテコステと平行関係にあります。キリスト教的には、出エジプト記自体が、やがてのキリストの御業の予告なのです[1]

 大変内容の濃い中で、今日の19章3~4節の言葉を、中心聖句の一つとしてご紹介します。

出エジプト十九3モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』…」

 「鷲の翼に乗せて」とは文字通りではなく、力強くという詩的な表現ですね。そんな言い方に相応しく、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出してくださいました。でもそれがゴールではありませんでした。これから自覚的に主の声に聞き従う。主の言葉に生かされていく。その歩みに踏み出して、あらゆる民族にとって、主の「宝」となる[2]。祭司とは神と人間との間に立つ橋わたし、繋ぎ目となる存在です。イスラエルの国が「祭司の王国」だとは、自分たちだけが特別な神の民で他の民族は滅びる、というのではなく、全世界と主とを繫ぐ存在、蝶(ちょう)番(つがい)となる、ということです。それも、イスラエルの民が主の声に聞き従い、主の契約を守ること、言わば、主との関係を豊かに育てて行くことが不可欠だったのです。

 確かにイスラエル人はエジプトから力強く連れ出されました。しかし「救い出されて万々歳」ではなく、その後すぐに露わになるのは、民の文句や傲慢、頑固さでした。海の奇跡の後は、

十五21ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

と言いますが、その直後には、水がない、パンがない、文句を言い、喧嘩を始める姿です。

十六3…「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

 こんな事を言い出す姿です。奴隷生活からは救い出されたけれど、その心には奴隷根性やお客様意識や無責任な生き方がすっかり染みついています。そして32章では、神がモーセと語っているシナイ山の麓でとんでもない事件が起きます。

「金の子牛」

を造って、それを礼拝してお祭り騒ぎを始める。奴隷生活から救い出された民が、まだ神ならぬものに心を奪われている。まだシッカリ歪みが染みついている。救って下さった神を怒らせて滅びを招くような反逆をしてしまう。そういう民を、神は忍耐し、時には厳しく向き合いながら、神の言葉によって教え、育て、変えようとしておられる。そうやって神の民が、本当に謙虚にされて、成長していくことを通して、周囲にとっても「神の宝」となる。神と全ての人を結びつける「祭司の王国」としての役目を果たしていく。この出エジプトが指し示す私たちキリスト教会の歩みも同じです。キリストの十字架と復活によって神の民とされました。それでも私たちは不完全で、頑固で、罪や歪みがあります。感謝を知らず、不平や不信仰があります。「信じたら救われる」だけではなく、信じて神の民とされても、問題があるのです。「それでもいい」でも「それではダメ」でもなく、その問題に気づかされて、御言葉によって、主の恵みや赦しを体験し続けながら、変えられて行く。主の恵みに心から新しくされて、思い上がりや思い込みを砕かれ、謙虚になり、そういう私たちを永遠に愛される主の恵みを味わい知っていく。そういう歩みが、周囲の人にとっても、祭司となる。神がどんな方かを知らせる存在となるのです。

Ⅰペテロ二9しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。[3]

 出エジプト記と言えば、エジプト脱出のドラマを思い出すと同時に、後半の律法や十戒を思い出す方も多いでしょう。中には、イエスの来られる以前は、あの律法に従わなければ救われなかったのだ、怖い時代だったと思う方もいるかもしれません。しかし、順番はまず一方的な救いがあり、その上で律法が与えられるのです。それは救われるための掟ではなく、神の民としての生き方です。人を束縛したり、上下を付けたりする生き方から救い出すための光なのです。そして、その途上でしくじり続ける私たちとも、神は変わらずともにおられるのです。

 出エジプト記のメッセージを、後半に詳しく繰り返されている「幕屋」を手がかりに覚えてください。

 幕屋とエジプトのシンボルであるピラミッドを比べましょう[4]。ピラミッドは、ファラオや一部の支配階級が上から全体を支配している社会、下に多くの人が犠牲にされ、人間扱いされずに抑圧されている社会です[5]。ある人たちが頂点に立って、他の人を踏みつけて成り立つシステムです[6]

 これに対して幕屋は平面です。上下とか抑圧はありません。幕屋は主の臨在を表し、その周りには十二部族が集められています。役割の違いはあっても、格差や順位はなく、多様で伸び伸びとした姿です。外国人の寄留者さえ酷使は禁じられました[7]。主を中心に、上下関係のない、フラットな集まりがここに始まりました。また、ピラミッドは動かせませんが、幕屋は折りたたんで動かせました。実際、民の歩みは旅だったのです。その旅を主がいつもともにあって導いてくださって、約束の地へと連れてくださっている。

 でも旅をしていれば、途中ではいざこざが付き物です。その時こそ幕屋に行くのです。主は罪のための生贄や和解のための決まりを定められました。それは罪を責めたり人を非難するためではなく、民の罪が丁寧に解決されて、問題を丁寧に乗り越えるためでした。ピラミッド社会ではトップの罪がもみ消されたり、スキャンダルとして下に蹴落とされる汚点になったりするでしょう。主が建てられた幕屋は、その中心に人間の罪の赦しがありました。祭司や指導者も正直に非を告白するし、庶民もそれぞれに自分の罪を告白して、和解するよう求める招きがありました。何より、出エジプト記の筋書きが示す通り、人は奴隷生活から救われても、散々不平を言い、金の子牛を造ったりして、主を怒らせたのです。それでも主が赦し、忍耐して、今私たちの真ん中にいてくださる。主の臨在が幕屋の真ん中にある。幕屋の祭壇で捧げられる生贄の煙とともに立ち上っている。

 出エジプト記の最後は、幕屋を建てて、まだ全部の儀式が済んでいないうちに、待ちきれないかのように、もう幕屋を主の栄光の雲が満たしてしまう、という光景です。主は私たちのすべてを全部知った上で、私たちとともにいたいと願って止まない。その事を深く覚えて、謙虚にされ、ともに旅を続けていく。ピラミッド型でなく幕屋型。主を中心とした、フラットで自由で、回復のある在り方。

※「ピラミッド」vs「幕屋」
上からの支配   フラットな関係(焚き火的!)
奴隷による重労働 神の民の献身
絶対服従     赦しと和解が中心
カースト的    すべての人が招かれている
恐怖による支配  贖いの想起による一致
重厚       軽量・コンパクト
不動       旅を進める
王の墓      生ける神の臨在

 そういう神の民の姿、教会の背伸びしない歩みが、この世界にあって主と人とをつなぐ「祭司の王国」の歩みなんだ。そうされていく旅路が、神の民の歩みなのだ。そういう出エジプト記全体のメッセージなのです[8]

「主よ、私たちを、奴隷の家から神の家族へと招き入れてくださり感謝します。どうぞ私たちの生き方、考え、言葉をあなたの恵みで新しくしてください。私たちの心の頑固なピラミッドを崩してくださって、聖霊によって、あなたの恵みに生きる者と変えてください。まだまだ旅の途上にある私たちとも、あなたがいてくださり、私たちを主の恵みの器としてください」



[1] フランシスコ会訳聖書では、出エジプト記の概説においてこのように紹介しています。「旧約聖書全体の基礎をなす書であるとともに、イスラエルの人々が神の民とされた始まりについて記すものである。」

[2] イスラエルの民を「宝」と呼ぶのは、この他に、申命記七6、十四2、二六18、詩一三五4、マラキ三17

[3] この言葉は、明らかに出エジプト記19章3~6節の言葉を下敷きにしています。同時に、そのオウム返しではなく、当時の読者に合わせたアレンジをしています。現代においても、聖書の字面通りのオウム返しに終わらず、現代人がどのような言葉・メタストーリーを持っているかを理解して、それにアプローチする宣教の創造が望まれているのでしょう。

[4] エジプトと言えばピラミッドやスフィンクス。紀元前千八百年頃は既に全て揃っていましたから、イスラエル人がピラミッドを建てたわけではありません。しかし、主がエジプトを「奴隷の家」と呼ばれた事は、このピラミッドのイメージがピッタリでしょう。

[5] 主は、そのような社会の底辺で苦しんでいたイスラエル人の叫びを聞かれました。またそこで神のように振る舞っているファラオやエジプト人に、自分たちが神ではないことを力強く示されました。そして主は、ピラミッドのような「奴隷の家」、格差社会、人を奴隷のように扱う生き方とは違う在り方を造られます。

[6] これは特にレビ記で強調されています。十一45「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」、十八3「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。」ここから始まるレビ記十八~二十章は「神聖法典」と呼ばれ、主の民として「聖である」ことが求められますが、その「聖」の対極にある在り方が「エジプト」の習わしとして例証されるのです。

[7] 律法では、外国人排斥ではなく、寄留の外国人を大事にしなさい、あなたがたも寄留者で苦しい思いをしたことを知っているのだから、と繰り返されています。出エジプト記二二21「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」、二三9、レビ記十九34、申命記十19なども。

[8] しかも、ピラミッド的な社会構造を引っ繰り返すのは、クーデターや革命ではなく、フラットなコミュニティ形成によってであることが示されています。対決的なアプローチではなく、創造的な生き方そのもの、価値観そのものが引っ繰り返され、自由になり、文句や抑圧や反応的な生き方ではない、神の民としての破れ口に立つ生き方が、何より有効な変化の力なのです。

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