2019/1/27 エペソ1章15~23節「王であるイエス」はじめての教理問答72、75
夕拝ではここしばらく、
「キリスト」
とは
「油を注がれた者」
という意味であることと、その働きは「預言者・祭司・王」という三つの務めを手がかりに理解できることをお話ししています。今日はその最後の「王」、イエスが王であるというテーマです。
問72 キリストがあなたにとって王であるとは、どういうことですか?
答 キリストはわたしや、この世界、そして悪魔をも支配し、わたしを守ってくれます。
問75 どうして、あなたには王なるキリストが必要ですか?
答 わたしは、弱く無力なものだからです。
キリストは、私にとっても、この世界にとっても、王です。そして、悪の力に対しても王です。キリストこそ、すべての上におられて、全ての者を治めておられる王です。私たちは、イエスの最高の権威、権力、支配、偉大さを信じます。
そう言いながら、私たちは、イエスよりも自分の心の王座に自分がデーンと座ってしまう者でもあります。イエスを自分の願いを叶える王、取り引き出来る相手として、事実上、イエスは自分の王座から追い落とします。イエスが力強い王だということさえ、そのイエスの力を後ろ盾にして、自分を高めよう、自分が強くなろうという誇大妄想に結びつけてしまいます。そんな無理は、不安や不満を膨らませる結果を招くだけです。
だからこそ私にとっては
「イエスが王である」
という告白は
「私は王ではない。私が神や強い人になろうとするのではない」
という気づきに結びつきます。また、自分の願うようにならないで、惨めで無力な思いをするときにも、それでもいいのだ。大事なのは、イエスが私の王でいてくださることだ、という安心感につながります。
もう一つ、ここでキリストが
「悪魔をも支配し」
と言われていることに触れておきましょう。キリストは悪魔に対しても王です。決して、キリストも神も、サタンと対等な関係にはありません。確かに聖書には、悪魔(サタン)と呼ばれる存在が出て来ます。神が造られた霊のひとりなのでしょうが、なぜか邪悪で、神に逆らったり、人間を神から引き離そうとしたりする存在で、最後には、神の裁きによって罰せられる存在です。そういう悪い霊、邪悪で強い働きをする存在は確かにいるようです。しかし、それは神と対等な存在ではありません。神に敵対してはいますが、神の敵やライバルではありません。神はサタンに手こずらされることはありません。サタンは、神の手を焼かせて、困らせたり、神に隠れて何かをしたり、神を少しでも出し抜いたりすることは全くありません。神はサタンも含めた、全てのものを完全に治めておられる王なのです。
サタンと戦っているのは神の側の御使いです。悪魔は神に直接刃向かうことは出来ませんし、御使いたちは、悪魔を討ち滅ぼし、やがて完全にサタンを打ち負かすのです。そして、そのような闘いが、神の支配の中で進んでいるのです。神は悪魔と戦っておられるのではなく、神の支配の中で、悪魔の悪巧みや悪足掻きが打ち負かされていく途中なのです。ですから、悪魔の企みに注意しつつ、悪魔を恐れすぎることはしないようにしましょう。■岬希君が好きなドラゴンボール。この中にも、悪者や良い者が出て来ますね。お話しの中に「かみさま」も登場します。では、聖書で言う「神様」に一番近いのは、誰だと思いますか。一番強いキャラクターでしょうか。聖書を考えていくときに、神様は聖書の中に出て来るのではなく、聖書を書いたお方です。ですから、この物語では、登場人物の誰かよりも、作者、原作を書いて著作権を持っているのが最も神様に近いのです。
エペソ書は、読者の「心の目がハッキリ見えるように」と、こう祈っています。
エペソ一18…神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
神の大能の力、すぐれた偉大な力が、キリストを通して私たちに働いている。神はキリストを死者の中からよみがえらせ、神の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権、今の世にも、やがて来る世にも、すべての名の上にキリストを置かれています。神は、イエスを、すべてのものを治める王とされています。力の偉大さを、私たちが味わい知ることが出来るよう、私たちの心の目がハッキリ見えることを祈っています。
しかしキリストの御支配は、決して上からの、力尽くの支配ではありませんでした。キリストは王位を捨てて、人間の所に降りてこられ、人に仕えました。金の冠で偉そうにするよりも、茨の冠を被され、本当に人の痛みを思いやる王でした。人の心の恐れや悩み、疲れ、罪に届くために、ご自身が悲しみや弱さ、死をも味わわれました。イエスの偉大さ、神の大能の力は、そのような憐れみ、惜しみない愛にこそ現れています。
『そのままのきみがすき』という絵本があります。王様が来られる時、人々は
「王様は偉い方なんだから、いいところを見せなきゃ、お城ってのは素晴らしい才能のある人だけが住めるんだから」
と考えます。そこにやってきた本当の王様は、誰も気がつかない普通の格好でした。そしてこう言うのです。
「もし王様だと気づかれたら、お願い事を言われたり、チヤホヤされたり、文句を言われたりするだけで、淋しい。王様はみんなとただ話したい、一緒に過ごして、一緒に笑ったり泣いたりしたいんだ。どうすればわたしによく思われるだろうと考えたりせず、わたしがありのままを愛していることを知って欲しいんだ」。
キリストも大能の力を持つ王でありながら、世界の最も低い場所に来られ、貧しい一生を過ごし、十字架で裸にされて死にました。それはこの世界の王とは真逆の歩みです。しかしそれこそが全ての王の王なるキリストの権威です。このイエスこそ私たちの王で、私たちも世界をも治め、悪魔からも守ってくださいます。そのイエスは、私たちも偉ぶったり競争したりせず、互いにそのままで喜び合い、生かし合うように私たちを治めてくださいます。私たちを神の御国の中で育ててくださいます。