聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

聖書の物語の全体像06 ヘブル書8章8~12節「私たちの神となる神」

2019-01-20 17:38:41 | 聖書の物語の全体像

2019/1/20 ヘブル書8章8~12節「私たちの神となる神 聖書の物語の全体像06」

 今日のヘブル書8章は、旧約聖書のエレミヤ書31章の言葉を引用して語っています。そこに

「新しい契約」

という言葉が出て来ました。これが聖書を「旧約聖書」「新約聖書」に分ける元になっています。イエスは「新しい契約」を下さいました。聖書の前半、イエスがおいでになるまでは「古い契約」で「旧約聖書」、イエスが来られた後の後半は「新しい契約」が書かれた「新約聖書」です。とはいえ、7節にはこう書かれている事に注意しましょう。

八7もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。神は人々の欠けを責めて、こう言われました。

 旧約の契約、特にモーセに与えられた契約は欠けがありました。神の契約が欠陥品だったという意味ではなく

「人々の欠け」

人間の欠陥、罪、限界を覆うには不十分だったのです。古い契約は、人間の欠点を覆うには不完全であることは最初から分かっていたのです。主は「新しい契約」を実現なさいます。決して「古い契約」が失敗したための対策としての「新しい契約」ではありません。「古い契約」は最初から「新しい契約」の準備として与えられた暫定的な役割の契約、言わば「仮契約」「養育係」[1]でした。人々はその契約を守りませんでしたが、神はそれで失望したり腹を立てたりしたでしょうか。いいえ、むしろ神が自ら「新しい契約」の実現を約束されています。「人が良い行いをしたから、古い契約に忠実な生き方をやり直そうとしているから、少しでも反省の色を見せるなら」と言う条件は一切ありません。ただ神の側からの一方的な宣言として、「新しい契約」を与えるとエレミヤ書で約束されたのです。

 その契約の中身は、こうです。

「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 以前の契約は、神の律法、神の道を、文字で人に教えました。外から与える教えでした。しかしそれは人々には不十分でした。人は欠けがあり、外からの契約では間に合わないからです。「新しい契約」はそうではありません。神が人の思いの中に律法を置く。人の心に律法を書き記す。外から神の道を、いくら口を酸っぱくして教えられても、人には守れません。それは神もご承知でした。神が用意されていたのは、神ご自身が人の心に働いて、神の思いを書き記してくださる、という最終的な契約です。それも「あれをしなさい、これをしてはならない」という掟ではありません。

「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」

という関係が心に書き記されるのです。「わたしは彼らの神、彼らはわたしの民」そういう堅く、強いを神は私たちとの間に持ってくださることがハッキリ分かる。そういう契約です。それが分かるのは、11節、

11彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。

 この「知る」は頭で知識を知る以上に、もっと深く人格的な意味での「知る」です。「知り合いになる」に近いし、「主について」ではなく「主を知る」という人格的な出会いです。新しい契約では、神が人の心に働いて、神との出会いを与えてくれます。誰かが教えてくれるのではなく、その人その人が、自分の事として神を知ります。なぜなら、

12わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 新しい契約を実現するイエス・キリストは、私たちの不義を蔑まず裁かず、あわれんでくださいます。私たちが自分の罪で後悔し、自己嫌悪し、恐れや恥に苛まれるとしても、キリストは私たちのために十字架に架かることで、完全な赦しを成し遂げてくれました。神は私たちの罪を怒るよりも、神の子イエスが身代わりに罪となる事で、私たちに憐れみと赦しを与えてくださいました。その事を通して、私たちは主を知るのです。その事を通して、神が私たちの心に働いて、神の道が刻み込まれるのです。神は私たちの神となってくださった、私たちは神の民となった、そういう関係が始まるのです。これが、イエス・キリストの新しい契約です。

 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる」

の言葉は、新しい契約によってハッキリと届けられる関係です。しかしこの文言は、古い契約でも度々繰り返されていました。新約では4回ですが、旧約では40回以上も出て来ます[2]。神が

「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」

と仰る。これは、神が聖書の最初から語っておられた、メッセージです。また、最初の創世記に繰り返されているのは、

「主がアブラハムと(イサクと、ヤコブと、ヨセフと)ともにいてくださった」

という言葉です。最後の黙示録でも、

二一3…「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。…」

と描かれるのです。これが聖書の示す最終的な将来の特徴です。創造された世界は、人間の背信によって大きく揺さぶられましたが、イエス・キリストがその世界の真ん中に来て、十字架の死によって神のあわれみ、赦しを示して人に神を知らせてくれました。神が人の心に働いて、神との関係を回復してくださいました。それが、キリストの成就した最終的な契約でした。新しい、決して古びることのない、最終的な契約によって、私たちは神の民となるのです。古い契約の時代を重ねて、最後にはキリストが完成してくださった契約の中心は、この関係です。

 出エジプト記の3章で、主がモーセに初めて出会ってくださる記事があります。その時、モーセが「神の名は何かと答えられたら、何と答えたら良いでしょうか」と質問したとき、

出エジプト三14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」

また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。

15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」[3]

 この「わたしは「わたしはある」という者」が神の名前であることは、神が永遠に存在しておられる、厳粛な意味もあることは疑いませんが、同時にここではそのお方が「あなたがたの父祖の神、主」と名乗られる流れも大事です。「わたしはあるI AM」と言われるお方が「あなたがたの父祖の神 I am God of your fathers」と言われ、あなたがたを苦しみから解放すると約束なさるのです。つまり、神は私たちの神となる神。永遠に有るという絶対的な区別に留まらず、私たちの神となり、私たちとの親しく永遠の関係を持つ神になってくださるのです。

 一昨年「聖書新改訳2017」が出されたのに次いで昨年「聖書協会共同訳聖書」が出されました。その中でこの「わたしはある」が

「わたしはいる」

と訳されています。ヘブル語や英語ではBE動詞なのも、日本語は「ある」「いる」と分けるのが特徴ですが、12節では「いる」と訳している事を踏まえて、神も「わたしはいる」と名乗られた、という説明は衝撃でした[4]。神は「わたしはいる」と名乗られる神。あなたがたの神となる神であり、私たちを神の民としてくださる神。イエスがおいでになる時、御使いは生まれる幼子の名を「インマヌエル」(神は私たちとともにいます)と言いました。神は私たちとともにおられます。

 キリスト教の神様ってどんな神様?と聴かれれば、「わたしはいる」と言われる神だと言えます。
 聖書って何が書いてあるの?と質問されたら、「神が何としてでも私たちの神になってくださるって物語だよ」という答え方も出来るでしょう。
 キリスト教の救いって何?と言えば、「神が私たちの神になって、私たちは神の民、神の家族にしてもらえる」という救いなのです。

「私たちの神よ、あなたはこの大きな世界の、小さな小さな私たちの神となり、私たちをあなたの民としてくださいました。私たちの心にあなたを知らせ、あなたの掟を教えてください。主の恵みにただただ感謝し、信頼し、そしてその豊かな関係を育て、分かち合い、励まさせてください。恵みならざるもの、主への信頼を疑わせるような一切のものから解放してください」



[1] ガラテヤ書三24「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。25しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」

[2] 「わたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」は、いくつかのバリエーションも含めて、以下の箇所に明言されています。創世記十七7、8、出六7、二〇2、二九45、レビ十一45、二二33、二五38、二六12、45、民数記十五41、申四20、七6、二九13、Ⅱサムエル七23、24、詩篇五〇7、八一10、イザヤ四一10、13、四三3、エレミヤ七23、十一4、二四7、三〇22、三一1、33、三二38、エゼキエル書十一20、十四11、二〇5、7、19、20、三四24、31、三六28、三七23、ホセア十二9、十三4、ヨエル二27、三17、ゼカリヤ八8、一〇6、Ⅱコリント六16、ヘブル八10、Ⅰペテロ二9、黙示二一3、7。

[3] 少し前後も引証して、その中心にある「わたしはある」を考えると、一層意味が深まります。出エジプト記三10以下、「さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」12神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」13モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。16行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」

[4] 『舟の右側』2019年1月号、巻頭言とインタビュー記事。

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