聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答68~69 イザヤ書61章1~3節「キリストの三つの役割」

2019-01-06 21:49:14 | はじめての教理問答

2019/1/6 イザヤ書61章1~3節「キリストの三つの役割」はじめての教理問答68~69

 イエス・キリスト、という名前は、「イエス」が私の「古川和男」とか「○○」という名前で、「キリスト」が職務です。「王」とか「救い主」とか「社長」というような肩書き、役割名です。「イエス」が名前で「キリスト」が苗字なのではありません。キリストは肩書きです。イエス・キリストとは「キリストであるイエスさん」というような意味です。では、「キリスト」とはどういうことをする人の肩書きなのでしょうか。今日の「初めての教理問答」ではこう答えています。

問68 約束されたメシアとして、キリストはいくつの役割を果たしますか?

答 キリストは、三つの役割を果たします。

問69 その三つの役割とは、どのようなものですか?

答 預言者としての役割、祭司としての役割、そして王としての役割です。

 キリストの役割は「預言者、祭司、王」の三つです。これをキリストの「三職論」ということもあります。大事な理解ですのでこの後、問70から、預言者、祭司、王の一つずつについて見ていきます。今日は、その一つ一つを見ることの前に、「キリスト」という役割について見ていきましょう。

 キリストとは「油注がれた者」という意味のギリシャ語です。聖書の時代の昔に、大事な役職に任職する時、神はその人に油を注ぐ儀式で、その人が神から任命されたことのしるしとしていました。この「油を注ぐ」という言葉が、旧約聖書の書かれたヘブル語で「メッシアー」といいます。これを新約聖書の時代の公用語であるギリシャ語に訳したのが「キリスト」です。「メッシアー」は「メシア」または「メサイア」という英語のもとになった言葉です。キリスト、メシア、メサイア、すべて「油注がれた者」という意味です。

 旧約聖書を見ていくと、神が香油を注いで任職されたのは、三種類の働きでした。それが「預言者、祭司、王」です。預言者エリシャ、大祭司アロン、そしてサウル王やダビデ王たちが、神様からの香油を注がれて、任職されたのです。どれも神の民にとってはなくてはならない働きでした。神の言葉を教えて、語る預言者。神と人間との間の関係を取り持ってくれる祭司、そして、神の民を治めてくれる王。その三つの働きがバランス良くなされていたのです。それが、旧約時代の後半、預言者イザヤの時代になると、「油注がれた者」メシアという言葉が、違う響きを持つようになります。神様から油注がれたはずの祭司や王が、その道を踏み外して、好き勝手なことをするようになる。人間には、王や祭司になることは誘惑が多くて、パワハラや不正に手を染めるようになってしまう。そういうことがハッキリしてきた時代です。そのような時代に書かれたイザヤ書には、神が油を注がれて、私たちのために遣わして下さるお方がいる、という信仰が見られるようになります。神が遣わして下さるメシア(キリスト)がおいでになる、という待望が持たれるようになるのです。

イザヤ書六一1である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

 こういう方がおいでくださる、という信仰が育って強くなっていったのです。やがてメシアがおいでになる。神がメシアを遣わして下さって、貧しい人に良い知らせを告げて、心の傷ついた者を癒やして、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げて下さる。そういう期待を膨らませていったのです。そして、イエス・キリストがおいでになったときに、この言葉を会堂で読まれました。ルカの福音書四章18節以下です。

18「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、

19主の恵みの年を告げるために。」

 この言葉を読んだ後、イエスはこう仰ったのです。

21イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 イエスはご自身が、神に油注がれた者メシア(キリスト)であること、そして、貧しい人に良い知らせを伝え、捕らわれ人には解放を、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げ知らせるために来たと宣言されたのですね。イエスはキリストです。それが、「イエス・キリスト」という言い方になったのです。そしてイエスがキリストであるということは、私たちをも変えます。私たちに良い知らせが告げられて、解放や自由、目が開かれること、恵みの年が確実に届けられる、ということでもあるのです。

 「キリスト」という名前を「救い主」だと説明することもあります。それが間違いなのではありません。確かにキリストは、私たちを救って下さいます。しかし、キリストは私たちの救い主以上のお方です。それは具体的には、預言者であり、祭司であり、王であると言い換えられます。キリストは私たちの王として来られました。ただの救い主という以上に、私たちの王がおいでになったのです。かつてのイスラエルの王が、その道を踏み外して、暴君や悪王となったのとは違って、イエスは良い王、正しい王ですが、私たちの王ではあります。また、私たちの祭司として、私たちの心を清めて、神との純粋な関係を造って下さいます。そして、預言者として私たちを教え、語って下さる、教師でもあります。イエスは、私たちの預言者、私たちの祭司、私たちの王です。

 「メシアコンプレックス」という言葉があります。救世主妄想とも言いますが、誰かの役に立ちたい思いが強すぎて、人助けこそ自分の使命や生き甲斐だと、無理に人を助けようとしたり、人を助けられない自分には価値がないと思ったりする生き方です。本当に人を愛するのではなく、誰かを助けるスゴイ自分になりたい、劣等感の裏返しです。でも私たちはメシアではありません。誰もイエスに代わる救い主になることは出来ません。人を救うのはイエスだけです。イエスが来られたのは、私たちをメシアコンプレックスから救うためでもありました。私たちに必要なのは、誰かの素晴らしいメシアになる事ではなく、キリストをメシアとしてお迎えすることです。人助けする立派な人になろうとするのではなく、私ではなくイエスがキリストであると告白することです。自分も人も皆メシアにはなれない弱さや問題を認めて、イエスにあってともに生きる事です。

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詩篇85篇「主は良いものを下さる」 新年礼拝

2019-01-06 21:43:23 | 聖書の物語の全体像

2019/1/6 詩篇85篇「主は良いものを下さる」

 祈祷会では詩篇を読んでいます。一昨年から読んでやっと85篇まで来ました。今年でも終わらない計算ですが、詩篇をじっくり読む。私たちの予想する祈りを大きくはみ出す祈りの言葉を味わう、本当に嬉しい経験です。新年礼拝、この85篇を一緒に読み、味わいたいのです。

 この詩は、旧約聖書の時代、イスラエルの民が神に散々逆らって、遂に国が滅ぼされ、70年間、異国で過ごした生活から、ようやく帰って来た後に詠まれた詩だと考えられています。帰ってくることも神の約束されていた事でした。「もう堪忍袋の緒が切れた」と見捨てる神ではありませんでした。神は、しばらく外国で暮らす思いをさせた末に戻してくださる神でした。

主よ あなたはご自分の地に恵みを施し ヤコブを元どおりにされます。

あなたは 御民の咎を担い すべての罪を おおってくださいます。 セラ

あなたは 激しい怒りをすべて収め 燃える御怒りから身を引かれます。

 自分たちが神に逆らって、国の中で暴力や虐待、貧富の差が罷り通るような社会を作ってきたことはまぎれもない事実だ[1]。それを警告して来られた主が、遂に民の咎を怒って、この地から自分たちを追い払われたことも当然のこと。しかしそれで終わりではない。主は、地に恵みを施し、ヤコブを元通りになさる。激しい怒りを収めて、私たちを回復してくださると言います。この詩篇が詠われたのがエルサレムに帰還した後だったなら、これは今まさに目の前にある出来事、自分たちが体験している生活そのものでした。今ここにある生活は、確かに神の恵みなくしては到底叶わなかった恵みだ。主がここに私たちを帰してくださった。ところが、

帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。私たちへの御怒りをやめてください。

あなたは とこしえに 私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで 御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは 帰って来て 私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民が あなたにあって喜ぶために。

主よ 私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。

 エルサレムに帰っては来たものの、生活は苦しい。神がおられないかのようで、

「帰って来てください」

と叫んでいます。喜びが持てない生活、まるで神がまだ怒っているかのような現実があります。7節最後の

「救い」

は、いわゆる魂の救いとか、将来の再臨とかいう宗教的な意味での話ではなく、現実の生活や健康、社会の状態が健やかにされることですね[2]。エルサレムに帰ってきただけでも恵みなのですが、それで高望みは諦めたり、「これで十分としよう」と慎ましく満足したりはしません。また、そもそも自分たちの罪が、神の御怒りに相応しかったと神妙に口を閉じはしません。激しく、主の救いを願っています。言わば、「都合の良い」願いを恥じらいもなく祈っているのです。そして、詩人はそのような祈りを主は聞いてくださると信じています。主は、私たちの罪を怒る以上に、私たちを生かすお方、主にあって私たちを喜ばせてくださるお方、恵みと救いを下さるお方だと信頼しています。

聞かせてください。主である神の仰せを。主は御民に主にある敬虔な人たちに平和を告げられます。彼らが再び愚かさに戻らないように。

確かに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは栄光が私たちの地にとどまるためです。

10恵みとまことはともに会い義と平和は口づけします。

11まことは地から生え出で義は天から見下ろします。12主が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出します。

 この美しい段落で

「義」

が三回繰り返されます。正しさ、不正や悪がないこと、罪をさばき、咎を罰することは「義」の一面です。そして造り主ならぬ人間の「正義」は断罪や裁きで終わりがちです。しかし10節

「義は平和と口づけします」

 神の義は平和と深く結びつく義です。造り主である神は、断罪や悪人を罰して滅ぼすよりも、人に罪を認める心、悔い改める心、非を認めて責任を認める生き方を与えます。間違いを全て明らかにした上で、そこから償いや和解を始めさせ、罪がもたらした深い傷を癒やして、本当の回復を造り出す創造力をお持ちです。人間の考えでは「恵みとまこと」は時に相容れません。「義と平和」は「水と油」「あちら立てればこちらが立たず」となります。8節の

「主にある敬虔な人たちに平和を告げられます」

と聞いて、「やっぱり敬虔な人でなければ平和はもらえず、罰や怒りしかもらえなくても仕方がないよな」と考えてしまうのが人間です。そうでしょうか。この「敬虔な人」とはかつては「愚か」でした。自らの罪で激しい怒りを招いた人です。その人が自分の蒔いた禍を刈り取って悔い改めて、神を仰ぎました。罪や愚かをすべてご存じの神の主を仰ぎ、畏れかしこんで心砕かれた人。それが「敬虔な人」です。その人自身の敬虔さではなく、主が私のすべての罪をご存じの上で、主の民としてくださった恵みを受け取る敬虔さです。私たちがどんなに愚かで罪があっても、主は平和を備えてくださる。御怒りがあるとしても、怒りや罰以上の平和を主は約束してくださいます。それゆえに私たちは、賢明に、正直になれます。神は、平和と口づけしない義など考えもしません。

「義が天から見下ろしている」

のは、監視カメラのようではなく、見守ってくれる安心です。

「主が良いものを下さる」

 大地の産物、穀物も野菜も果物も、神が良いものを下さる証拠です。そして、もう一度13節で「義」です。

13義は主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。

 民の咎、罪、激しい怒りという言葉から始まった詩ですが、結びは「義」です。その義は、良いものを下さる主の義です。神は、私たちの咎、罪、隠れた悪を何一つ見逃さず、それに向き合わされますが、ここで

2「御民の咎を担い」

とあるように、裁判官の席から裁くのではなく、その席から飛び出して来られて、主ご自身が私たちの咎を一緒に担(かつ)いでくださって、一緒に解決や償いを果たさせてくださる義なのです。それは主イエスがおいでになった時、人の罪の罰である十字架を担いでゆかれ、死んでくださった姿に鮮明に現されました[3]。そしてよみがえられた主は

「あなたがたに平和が」

と語られました。こういう主です。この主の、義と平和の口づけがあります。それが、4~7節で求めた

帰って来てください。

お示しください。あなたの恵みを。お与えください。あなたの救いを。

の切望の根拠になっています[4]

 8~13節は、美しいだけでなく、私たちの切実な訴えの根拠です。今この生活にあるだけでも恵みではあるとは言え、しかしそこに山積みの問題や苦しみ、悲しみ、破綻を、正直に嘆いて、主の恵みを求めるのです。まだ義も平和も見えない、恵みが見えない、そういう中で

「帰って来てください。御怒りをやめてください。恵みを示してください」

とまで祈ることが出来るのです。こんな言葉で祈ったことはありますか。「こんな願いは都合が良すぎるだろう」「自分のような愚か者、罪や不敬虔な者には、身の程知らずだろう」。そんな風に思い込んで自分で蓋をした憧れも神はすっかりご存じで、私たち以上にそれを汲み取り、良いもの、素晴らしいものを下さるのです[5]。神は、ご自身へのイメージも、私たちの生き方も、世界の貧困や争いや暴力を見る目も、新しく創造してくださいます[6]。今日も「祝福」から派遣されます。

主があなたに御顔を照らし、あなたを恵まれますように。

主があなたに御顔を向け、あなたに平安を与えられますように」[7]

 主の御顔は私たちの全ての行い、罪や咎も、心の底の思いも、不信仰や疑いもすべてご存じの上で、私たちに恵みを照らす御顔です。平和が与える御顔です。自分の中の「幸せになりたい、赦しを聞きたい、自由になりたい、思い切り笑いたい、このままの自分を知って欲しい」…そういう思いを真っ直ぐに受け止めておられる。神はそういう神だという約束に縋って、「帰って来てください」と祈ってよいのです。心や世界にある嘆きを、神に訴える祈りも許される、飾らない関係が、すでに始まっているのです。

「義しく慈しみ深い主。あなたの義によって私たちを新しくし、恐れから救い出してください。造り主なるあなたがこの世界に用意されている豊かで、深いご計画を私たちに教えて、信頼させてください。主イエスが十字架で、私たちの罪とこの世のすべての呻きを担ってくださいました。この一年、感謝も罪も、涙も願いも飾らず正直に祈り、恵みの御顔を仰がせてください」



[1] この「罪」は、垂直の罪(神に逆らう罪)だけではなく、隣人に対する不正や無情さ、更には、構造的な社会の問題にも手を付けないで放ってきた咎めであることは見落としてはなりません。

[2] 聖書の「救い」には広い意味があります。イエス・キリストの救いにしても、罪の赦しだけでなく、神の子どもとされることや、神の家族の仲間入りをするという広い意味があります。ここでもこの詩が「お与えください。あなたの救いを」というのはキリストによる救いというよりも、今の現実社会の苦しみや貧窮が解決してほしいとの願いです。

[3] ヨハネ一17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」、また、コロサイ一19「なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、20その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」

[4] 1節の「元どおりにし」と通じるのが、エレミヤ書30章9以下ですが、そこにもまさに、神の回復の無条件での約束と、そこに必然的に伴うさばきの事実とが併記されています。「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──主は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」10わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──主のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。11わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」12まことに主はこう言われる。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。13あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。14あなたの恋人たちはみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。15なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは癒やされがたい。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ。16それゆえ、わたしは言う。あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、捕らわれの身となって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。17まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。──主のことば──まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。18──主はこう言われる──見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。19彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。20その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。21その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──主のことば──22あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」

[5] 「そんなに高望みはしない」と諦めているのかもしれません。確かに、現実は、そうそう上手くはいかないし、この詩のように、今この生活をしているだけでも有り難いと思えるのも幸せなことです。けれども、私たちの中にある「怒られないでホッとしたい。全部知られた上で赦されて、大丈夫だよと笑顔で言われたい」というような、いや、もっと言葉にしづらいような思い、自分でも蓋をしてしまっている思いを、神は全部汲み取って、それを知り尽くしてくださっています。自分で勝手に蓋をしたり、諦めたり、割り引いたりする必要はなく、主は平和を約束してくださったのです。

[6] 主の統合された御性質を知ることは、私たちの生き方、人格の在り方に反映されます。コロサイ書三12~17「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。13互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。14そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。15キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。16キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。17ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」

[7] 正月に読みました本では、最後にこの祝福が「これ以上に美しい言葉はない。これ以上に十分な言葉はない」と紹介されていました。この祈りを、主人公の牧師がある若者との別れの場面で、手を置いて祈るのです。その若者は、父親や家族との関係を壊し、神を信じることも出来ず、妻や子どもとの関係も失いそうでいます。その若者のために、主人公はあの民数記の祝福を祈ります。「ぼくは全霊をこめて祝福を述べた。こまかな点はともかく、もちろん民数記の祝福の言葉によって。「主がみ顔を照らし、あなたに恵みを賜るように。主がみ顔を向けて、平安を賜るように。」これ以上に美しい言葉はない。また、ぼくの気持ちをあらわすのにこれ以上の言葉はなかった。これ以上にじゅうぶんな言葉はなかった。そして彼がまだ目をあけず、顔を上げないでいるタイミングをとらえて、次のように加えた。「主よ、ジョン・エイムズ・バウトンをお守りください。この愛する息子、兄弟を。そして夫であり、父であるひとを。」…神学校で学び、牧師任職の按手を受け、さまざまな経験をしてきた、そのすべての年月は、ただこの瞬間のためだったんだ。…」 マリリン・ロビンソン『ギレアド』(宇野元訳、新教出版社、2017年)335頁以下。それを聞いても、若者は疑心暗鬼で、戸惑うだけです。それでも人の疑いや不安を超えて、神はこの世界に働いておられる。若かった頃はもっと道徳的で生真面目だった牧師が、先が長くないことを感じつつ、主はよいお方だという確信を、この若者のための祈りで確信するのです。私も、そして皆さんもお互いに、この主の祝福を祈り合いたい。お互いを、息子、娘として、兄弟姉妹として、夫や妻、父や母として、そのままに祝福し合いたいのです。人の義の基準で照らせば、その関係をズタボロにしてしまうようでも、造り主であられる義なる神は、そこにも義をもって来られて、平和を下さる。祝福を造り出せないわけがない。そういう慰めをいただいて、その慰めへと励まし合い、主の栄光を拝したいのです。

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