聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問19「救いの魅力」ローマ8章1-4節

2016-06-19 16:24:47 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/06/19 ハイデルベルグ信仰問答19「救いの魅力」ローマ8章1-4節

 

 今読んだ聖書の箇所を思い出してください。イエスは、ご自分の育ったナザレの町で会堂に行かれ、聖書を渡されました。この「聖書」は、イエスが十字架と復活の御業をなさって、新約聖書が書き始められる前ですから、「旧約聖書」ですね。その旧約聖書を読んで、イザヤ書の言葉を朗読された後、説教をするために、お座りになりました。そして、その時に、なんと仰いましたか?

「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」

と仰ったのですね。これを聞いて、そこに居た人々は途端にザワザワ騒ぎ出しましたのですけれど、それはさておき。やっぱり、みんながざわめき立つような爆弾発言を、イエスはなさったのですね。聖書に書かれている、

ルカ四18「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

19主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 この言葉が今日実現しました。つまり、イエスがお出でになったことにおいて、イザヤ書に書かれてある言葉が成就しました、と仰ったのです。他でもイエスは、旧約聖書の事は、すべてご自分を指して言っていたのだと言われるのですね。そして、教会とはそれを信じているキリスト者たちの集まりなのです。

問19 あなたはこのことを何によって知るのですか。

答 聖なる福音によってです。それを神は自ら、まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式を通して予型し、御自身の愛する御子を通してついに成就なさいました。

 この事とは、前回問18で、学んだことですね。

問18 それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。

答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。

 この、「私たちの主イエス・キリストこそ、神であり人間である、完全な仲保者であり、私たちに完全な救いと義とを下さる方です」という事は、どうやって分かるのでしょうか。それはただ夕拝で牧師がそう言っているからでしょうか。お父さんやお母さんがそう言っているから、そういう事にしておけばいいのでしょうか。信じておくしかない、賭(ギャンブル)みたいなものなのでしょうか。いいえ、聖なる福音によって分かるのです。それは、エデンの楽園でも言われました。アダムとエバが、神との約束を破った直後に、既に神は蛇に向かって、こう言われたのです。

「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 そして、

「その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式を通して予型し、御自身の愛する御子を通してついに成就なさいました。」

というのです。ここで、この事をまとめてくれた動画を見つけましたので、これを見てみましょう。

 聖書は驚くべき本です。様々な物語がすべてイエスを指さしています。聖書の始まりは、神が完全な世界と完璧な夫婦を置かれたことです。しかし彼らは、神に従わずに罪を犯し、死を持ち込んでしまいます。神は、大洪水で全地を裁かれますが、ノアに箱舟を造らせ、動物たちとノアの家族が生かされました。ノアの子孫の一人が、アブラハムで、神は彼の子孫を空の星のように増やし、世界の祝福のために用いられると約束なさいました。その地に飢饉が広がったとき、神はヨセフを起こし、イスラエル人をエジプトにやりますが、そこで奴隷とされてしまいました。新たな指導者、モーセは、民を救い出し、約束の地に導きました。神は奇蹟と律法を授けられます。「幕屋」を建て、罪のために生け贄をささげさせました。しかし、約束の地でも、イスラエル人は反抗的で、偶像を礼拝し、高ぶりました。王の一人が、ゴリアテを倒したダビデで、その息子ソロモンが大きな神殿を建てました。しかし国は分裂し、苦しみます。その時、預言者たちが人々に「メシヤ」について語りました。メシヤが来て、私たちを治めてくださる。イスラエルの国が滅びてもそう語ったのです。やがて神は彼らを国に帰らせ、神殿が再建されました。メシヤがまもなく来ると告げられました。その後、沈黙の四百年が続き、飼葉桶の赤ん坊が現れました。そのイエスメシヤです。生涯罪を犯さず、奇蹟を現され、神に立ち帰る道を示されました。イエスを信じた人はわずかで、捕らえられ、十字架に磔にされ、その後、イエスは生き返られたのです。死を征服し、罪を打ち破られたのです。(間)最初に言ったように、聖書のすべてはイエスを指さしています。その最初の瞬間から、そうです。ノアの箱舟は、イエスの救いの約束でした。アブラハムの子孫であるイエスが、世界を祝福されるのです。いけにえは、イエスの十字架を指さしていました。聖書の全ページは、私たちにイエスを指し示している物語です。それだけではありません。弟子たちは、イエスを地の果てまで伝え、あらゆる所で福音を分かち合ったのです。あなたと私も同じ招きをもらっています。イエスが戻って来られるまで、イエスの福音を分かち合うのです。聖書の物語は、すべてイエスについての物語なのです。

 聖書はイエスの完全な救いと義を語っています。イエスが、私たちを救い、私たちの人生を正しく導いてくださることをずっと語っているのです。そういう福音が、聖書の初めからずっと語られているのですね。聖書を読むのは、この福音に気づくためです。

 もし聖書がなかったとしたら、私たちの信仰はとても怪しいものでしかありません。でも、福音とは何よりも確かなものです。神は、聖なる福音を最初から様々な方法で人類に告げ知らせておられました。それは聖書が私たちに確信させてくれることです。

 聖書にある沢山のドラマや出来事は、私たちを励まし、慰め、喜ばせ、謙虚にしてくれ、イエスの救いにあずからせてくれます。聖書を読んで、福音をいつもいただきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記二八章(1~14節)「高く挙げられるために」

2016-06-19 16:22:14 | 申命記

2016/06/19 申命記二八章(1~14節)「高く挙げられるために」

1.聖書で二番目に長い章

 最近一番ホッとした出来事の一つは、北海道で八歳の子どもが六日ぶりに見つかったことでした。本当に胸を撫で下ろしました。あの事から「しつけ」や「罰」についての悩みがあちこちで議論されました。どこまでがよいのか、どうやっても言うことを聞かない子に、厳しい躾はどうなのか。そんな事への答として、

「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」

と現実に気づくことも大事だと言われています。どなったり、罰したりしそうになった時は

「子どもに伝わっているか、しつけでなく心理攻撃になっていないか」

と考えることが呼びかけられていました。[1]

 今日の申命記二八章は、申命記で今まで語られてきた、神の民としての契約を結ぶ部分です。全部で68節もある長い章です。これは、聖書でも二番目の長さです[2]。今読んで戴いた14節までには、主の言葉に従った場合の祝福が記されていました。この後、15節から68節までは、反対に主の契約に背いた場合の呪いが書かれているのです。祝福の四倍もの長さで、延々と、契約違反の結果がどれほど悲惨なものとなるのかが書き連ねられていくのです。病気や不作だけでなく、敵国に攻められて包囲されて、極限の飢餓状態になるとか、敵の捕虜として連れて行かれて、心が病んでしまうとか、徹底的な荒廃がこれでもかとばかりに描かれるのです。

 ただし、これは聖書の書き方の問題ではなくて、古代オリエント社会での契約文書は、祝福と呪いとを並べて最後に取り交わす、というのが形式を取ったのだそうです。そして、呪いの方が長いのも普通です。現代でも、契約違反の条文はやはり詳しく書かれますね。契約の祝福は、契約そのものに含まれているので長々と述べる必要はありませんが、契約を踏みにじるような場合は覚悟しておけ、と釘を刺すのは一般的な事です。

 しかも、ここに至るまでの話を思い出してください。イスラエルの民は、主の力強い御業によって、エジプトから救い出された解放を体験していました。本当に神があわれみ深く、何度も赦してくださるお方であることを知っていました。だから、これからも主に従い、主の命じる生き方を棄ててはならないことは当然だと弁えることが出来たはずなのです。こんな呪いは恐ろしいからと、恐怖で従うのではなくて、主が真実で恵み深い神である以上、従うのは当然で、のろいを言われなくても従うし、従わなければ呪われるのも自業自得だ、と思うのが本当だった筈です。そこを誤解すると、恐怖政治のように思えてしまうのです。

2.しかし、罰では人は変わらない

 あえて言うならば、先の

「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」

はここでも当てはまりました。こう言われたからと言って、民が神である主に対する忠誠を貫いたわけではありませんでした。この二八章そのものは、当時の契約文書の書き方を踏襲したものです。しかし、これだけ詳しく、主の言葉から離れてはいけないと具体的に長々と確認しても、それは民の心を直すことはなかったのですね。「御言葉に従わなければならないなんてしらなかった」とは言えませんし、「するなと言われたら却ってやりたくなる」なんて屁理屈も通用しません。民は、神である主、生ける唯一の創造主の力と恵みを知った上で、その神が命じる礼拝の民としての歩みを捨てました。互いに親切にし、偏見や格差のない社会を造ることを辞めて、利を貪り、虚栄を求めるようになりました。知らなかったからではなくて、悪いと十分教えられた上で、背いたのです。

 これは聖書の物語の大きな要因(プロット)の一つです。人間は、神と共に正しく喜んで生きることを望まなくなってしまった。いくら幸いをもらっても、いくら罰を与えられても、警告を受けていても、それでも神に背いたり、こっそり悪を行ったりしてしまう。それが人間の姿です。聖書はそれを分かっています。だからここでも、呪いや罰を恐ろしく描き出して、「神に従わないと悲惨が待っているぞ」と脅しつけ、無理遣り従わせようとするとは思わないで下さい。恐怖が動機で、恨みを秘めた信仰など信仰でさえないのです。罰や厳しさだけで人間は育ちません。勿論、刑罰が不要だとか、罰は無い方がいいということではありません。聖書は、神を恐れ、他の何物も神とせず、人をぞんざいに扱わず、正直であることを命じます。具体的な、本当に具体的な生き方を手取り足取り教えてくれています。私たちにとって必要だからです。

 でも律法で人が正しく歩めるとは聖書は期待しません。人間には、神から離れようとする罪がある。その心は、外からの強制や脅しや何かによっては変わり得ません。だからこそ、神はイスラエルの民が背いても、すぐにここに書いてあるのろいを全て下されたりはしませんでした。自分のした結果を刈り取らせましたし、不正や暴力を持ち込んだ社会はどんどん荒廃していきましたけれども、そうした中で神は民に語り掛け、悔い改めて立ち帰ることを呼びかけ続けました。いいえ、この申命記でも三〇章ではもう、悔い改めと回復がハッキリ約束されているのです。神は人間を脅さず、自分の悪に気づき、神に従わなかった間違いに気づくのを待たれます。そうして、心から神に戻って来るよう、決して見捨てずに、ともにおられたのです。

3.高く挙げてくださる方

 人間の言いたがる屁理屈に「神がいるなら見せてみろ」「願いを叶えるとか奇跡を見せてくれたら信じられるのに」という詭弁があります。今日の二八章はそういう言いがかりへも答えていますね。奇跡やのろいを見たところで、人は変わりません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で懲りないのです。それは、人の心に、神を小さく考え、自分の方が神よりも上であるかのように思いたがう性質が染みついているからです。神もまたそれを十分ご承知ですから、私たちにただの意志の力で生き方を正しくし、根性で心を変えることなんて期待してはおられません。それでは無理だと示すのが、イスラエルの民の歴史なのです。そして、イスラエルの民が失敗を繰り返してどんどん破綻していっても、なお神はそこでともにおられました。時に怒ったり、嘆いたり、苦しまれつつ、ただ人間に表面的な従順を求めるのでは無く、神ご自身を心から信頼する深い関係へと招き続けられたのです。その末に、国が滅びる寸前のイスラエルに、神のひとり子イエス・キリストがおいでくださって、御自身を十字架に捧げてくださいました。そのイエスのいのちの犠牲によって、私たちのいのちも新しくされ、神に従う民が造られていく。そういう物語の中で、初期の躾の一部として、今日の二八章も意味を持っているのです。

 私たちは、戒めやその結果、自分が受ける祝福や呪いにもまして、それを下さった神ご自身を仰ぎましょう。侮ってはなりませんが、「良い子」でないと怒り狂う神でもないのです。

二八1もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。

と仰る神です。私たちを高く挙げなさる神。高く挙げたいと思ってくださる神[3]。神は私たちを卑しめ踏みつけたいどころか、喜んで御自身のそばに引き上げたくて溜まらない神です。そのためにも、神よりも自分の方が高いと思うことを止め、神を崇め、自分を低めるのは当然です。私たちよりも高く大いなる神の言葉の前に謙虚になりましょう。キリスト御自身が限りなく低くなられたように、本当の高さとは、低くなることにしかないのです。高くなろうと背伸びを止め、自分の問題や恐れや貧しさを認めましょう。神を大いなるお方として崇めましょう。そうして生活の中で人と付き合いながら、謙って歩む道は、呪いではなく恵みに他なりません。

 

「主よ。人が子育てに悩むように、あなた様も、呪いさえ警告し、忍耐をもって私たちを育て導いておられます。その限りない御配慮を感謝します。私たちの貧しさを悉く知り給う主が、私共をどうにかして命に生かそうと、卑しくなりたもうゆえに御名を崇めます。どうぞ私たちの心を、ただあなたの聖なる憐れみによって押し出し、謙って仕える歩みへと高めてください」



 
鳴門のウチノ海総合公園は、花盛りです!
 
 
[1] 「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しく、親の自己嫌悪につながる。積み重なれば、子どもの自己肯定感が低下することもある」。どなったり、罰したりしそうになった時は「子どもに伝わっているか、しつけでなく心理攻撃になっていないか、少し考えてみては。10回のうち1回でも冷静になれればそれでいい。子どもに伝える経験を積み重ねて、親も自信を持ってほしい」(「虐待としつけ、境目は? ママたち、日常を振り返る」『朝日新聞デジタル』2016年6月15日)より。

[2] 聖書で最も長いのは、詩篇一一九篇、三番目が民数記七章です。

[3] これは、13節でも「私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」と言われて繰り返されています。また、二六19でも「主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべtねお国々の上に高くあげる。」と言われていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする