聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問20「すばらしい救い」ヨハネ3章16-21節

2016-06-26 15:59:06 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/06/26 ハイデルベルグ信仰問答20「すばらしい救い」ヨハネ3章16-21節

 

 今まで、イエス・キリストはどのようなお方なのか、というお話しをしてきました。イエスは、私たちを神と結びつけるために、神と私たち人間との間に立って下さったお方です。その架け橋(仲保者、仲介者)となるために、完全な神であり、同時に完全な神になってくださった、だから、私たちに完全な救いを下さるのです。この私たちを神と再び結び合わせてくださる、ということをマルチン・ルターは「イエス・キリストといっしょに一つのケーキを作る」と言い表したそうです。(加藤常昭氏、『ハイデルベルグ信仰問答講解 上』)

私たちがイエスに結び合わせられるとは、これから、イエスと一緒に共同作業をする。美味しいもの、素晴らしいものを、作るのですね。勿論、これはたとえですから、本当にケーキを作るのではないですけれど、イエスがお造りになっている世界を、一緒に作るわざに参加する。それが、キリストと結ばれる姿なのだ、というのは良い表現だなぁと思うのです。そして、今日の問20も、こう考えると分かりやすいのではないでしょうか。

問20 それでは、すべての人が、アダムを通して堕落したのと同様に、キリストを通して救われるのですか。

 すべての人がキリストを通して救われるのですか。キリスト以外に救い主はいないことを今まで確認してきました。ですから、ここでは、キリストを通さなくても救われる人はいますか、と聞いているのではありません。キリストがおられるのだから、救われない人なんていないのではないですか、という意味で、全ての人が、キリストを通して必ず救われるんですか、という質問です。これを「万人救済論」といいます。みんな救われる。救われない人などいない、という考え方です。でもこれに、答は、

答 いいえ。まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。

 イエスと結び合わされる。それは、先に、ルターが言いましたように、イエスと一緒にひとつのケーキを作るような生活です。神と共に生き、神の創造の御業に、私たちも加えられるのです。それは楽しいことです。完成が楽しみです。なかなか上手く出来なくても、ちゃんと先生が手取り足取り教えてくれたり、失敗しながら段々上手になっていくような楽しさがあります。そして、そのようにイエスに結び合わされ、イエスのお造りになる世界に、私たちも参加すること。それこそが、キリスト教が言う、「救い」の一面だということでもあります。

 しかし、そうしたくない人も大勢います。「イエスと一緒に何かを作りたくなんかない。自分は自分のやりたいようにやらせてほしい。神のなさることに自分も参加するだなんて、真っ平ゴメンだ」。そう言い切る人も多いのです。イエスとともにいたくない、イエスの恵みなんか戴かなくても、自分は平気だ。そういう人は、要するに「救われたくない」ということになるでしょう。勿論、イエスとはどんなお方か、その恵みがどれほど素晴らしいかが分からなければ、願いようもありません。ですが、イエスについて大事な事実が分かっても、なお、自分は自分でやっていきたい、その救いなんか要らない、と拒むことは決して少なくないのです。

ヨハネ三19そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

20悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 イエスは世を照らす光としておいでになりました。それは、人々を救うためでした。けれども、多くの人は、その光を憎みました。なぜなら、自分の生き方に問題があると分かっていて、でもその問題を変えられたくなかったからです。

 泥棒が夜のうちに盗みたいように、フクロウやハイエナなど夜行性の動物が夜を待ち構えているように、トロルや吸血鬼が朝日を浴びると死んでしまうように、光を恐れて、憎んでいる人は、救われたいとさえ思っていないのです。そのような人も「キリストによって、救われる」とは言わないのです。そして、自分の殻に閉じこもって、闇の中に生きる事自体が、「さばき」だと言っていますね。決して、神の裁きとは、救われたい人間をも不信仰だから、あれが足りないから、と地獄に突き落とすような、そんなものではありません。人の罪を暴き立てて、門前払いを食らわすような、そんな神ではありません。神は、私たちとともに世界を作りたくて、私たちのために犠牲を払ってくださいました。ひとり子イエス・キリストがこの世に来られて、十字架の苦しみを引き受け、死んで、よみがえってくださいました。私たちと神との間の、唯一完全な架け橋となってくださいました。その救いをも、人間は拒むのです。

 いいえ、私たちは生まれつき誰一人、救いを望もうとせず、神を押しのけようとするものだったのです。神と一緒にケーキを作るよりも、自分だけでいいやと思うようなものでした。厳しい神が御自身の家から、人間を締め出すというよりも、ひねくれた人間が神の家から飛び出してしまい、帰って来たがらない、という所に滅びの問題があるのです。

 そういう私たちが、「救われたい」「神とともにありたい」「神の恵みを戴きたい」と思うのだとしたら、それ自体が、神の救いの御業に他なりません。そして、私たちが神との関係を修復するのに、自分の努力や善い行いと積み上げる必要もありません。キリストが救ってくださるのです。しかしそれは、私たちに「まことの信仰」を与え「そのすべての恵みを受け入れる」ようにと働いてくださることを通してです。

 この「まことの信仰」とは何か、ということは次の問21で取り上げられます。そこでまた、私たちが頂いている信仰について教えられ、味わって行きましょう。また、神の恵みを戴く事にも熱心になりましょう。救われるためにそうするんではないですよ。救いは、イエス・キリストがくださるのです。それは本当はすべての人にとって喜ばしい、願ってもいないほどの素晴らしい救いなのです。救いを得るために頑張るのではありません。救いの中にある喜びをますます感謝するために、喜びに生きるために、信仰を学び、恵みを戴き続けるのです。神の測り知れない愛を知り、心を受け取り、私たちも心を込めて神に感謝するのです。そういう信仰のやり取り、心と心の恵みのキャッチボールですね。救われるとは、イエス・キリストと一緒にキャッチボールを楽しむ人生とも言えます。

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創世記五〇章19-21節「善き物を造りたもう神」

2016-06-26 15:51:17 | 創世記

2016/06/29 創世記五〇章19-21節「善き物を造りたもう神」

 月に一度、聖書66巻を一つずつお話しして、皆さんが聖書を読む足がかりにしたいと思います。ほんのさわりしかお話しは出来ませんが、それでも助けになるような紹介をします。

1.最初の書、創世記 神の民の原点

 聖書の最初に神が与えてくださったのが、創世記です。全部で五〇章あり、その中には天地創造やエデンの園、大洪水と箱舟、バベルの塔や族長たちの物語、様々な話が出て来ます。登場人物もアダムとエバ、ノア、アブラハム、イスラエルと大勢ですし、テーマも契約や礼拝など多岐にわたり、何日あっても話しきれません。皆さんが読む上での、さわりを紹介します[1]

 創世記は全部で五〇章ありますが、大事な節目は、十二章なのです。一章から一一章までは、天地と人間の創造、神に対する背信と追放などが書かれています。せっかく神が作られた世界で神に背いた人間が、殺し合い、暴君となり、神抜きの世界を築き上げてしまうのですね。そこで、大洪水が起こされて、ノアの家族だけが生き残ります。しかし、それによっても人の心が変わったわけではないので、残された人はまた増え始めるとバベルの塔を建てて、自分たちの王国を作り、世界に名を挙げようと、神を忘れたあり方をするのです[2]。それでは、人間は悪くなっていく一方ですから、神は人々の言葉が通じないようにして、全地に散らされる。これが、一章から一一章に書かれている物語です。人間は神からどんどん離れていき、自分勝手に歩むのか、世界はもう一度滅ぼされるしかないのか、神の創造のご計画は失敗だったのか。神はどうするおつもりなのか。そういう散々な状況が十一章まで綴られていくのです[3]

 神は、十二章で一人の人アブラハムを選ばれる。それも、子どものいない後期高齢者で、妻の尻に敷かれる男、枯れていた人でした。神は彼を選ばれて、彼の子孫を通して、世界を祝福すると約束なさいます。ただアブラハムが選ばれて、彼の子孫が繁栄するというのではなく、アブラハムの一族を通して、壊れかけた世界が祝福される、という約束ですね。そして、その後、アブラハムの子どもイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに十二人の子どもたちが与えられる。その十二人の子どもがエジプトで和解をしてともに住む姿が、この五〇章なのです。ただし、そこでも「めでたしめでたし」と終わるのでなく、神がこの先に、エジプトから再び故郷に帰る日をやがて下さるから、という開かれた結び方をしています。それは、創世記そのものが、完結した教えとか物語ではないからです。神が造られた世界に、祝福を取り戻すご計画が神にはある。それが、創世記であり、創世記から始まる聖書の物語なのです。

2.神は善い物を創造される

 今日読んで戴いたのは、創世記の最後の五〇章19節以下ですが20節にこうありました。

創世記五〇20あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 この「良い」というのは

[喜ばしい、すばらしい、富んでいる、大切な、美しい]

など豊かな意味を持っている言葉です。そして、これこそ創世記のキーワードの一つだと思います。創世記の一章で、神が世界を創造されたとき、たびたび「神はそれを見て良しとされた」とあります。七度も繰り返されるのです。神は世界を良いものとして創造された。この世界は神が造られた良い世界、素晴らしい世界、美しい世界だ。これが聖書の世界理解の出発点なのですね。他の多くの宗教や神話では、世界は何となく出来たとか、神が創造している間に邪魔が入って失敗してしまったとか、そういう展開なのだそうです。そうした中で、聖書は世界が、神の造られた尊い作品であり、そこには秩序と目的があると宣言するのですね。失敗作ではないし、この世界に置かれた人生には意味がある。仕事をし、社会を造り、家族を造っていくことは、良いこと、美しいこと、大切なことなのだ、と言い切るのです。

 先にお話ししたように、この創造された世界は、人間が神に背くことで暗礁に乗り上げてしまいます。そういう中で、神はなお世界を滅ぼされないのですね。そして、そこでアブラハムを選ばれて、彼らに世界の祝福となる使命と約束を与えられます。しかし、アブラハムは決して立派な人ではありませんでした。神を信頼しきった人でもないし、夫婦関係でもいくつもの間違いを犯した人です[4]。その影響は当然、その子どものイサクにも影を落としますし、孫のヤコブはもっと掴み所のない、いつも問題から逃げてばかりいる未熟な人でした。ヤコブの十二人の息子は、父親に依怙贔屓(えこひいき)され、溺愛されたヨセフを嫉妬し、憎んで、兄たちがヨセフを奴隷として売り飛ばす、という酷い展開になるのです。その二〇年後、不思議な神の計らいによって、ヨセフと兄たちはエジプトで再会し、和解を果たしました。本当に不思議な、神の御摂理でした。今日の五〇章の20節ではそのことをもう一度確認するのです。兄たちはヨセフに悪を計りました。しかし、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。兄たちがヨセフを憎み捕らえ売り飛ばしたのは確かに悪です。しかし、その悪をさえ、神は良い事になるようにしてくださいました。世界を良い物、美しいもの、素晴らしい世界としてお造りになった神は、その世界に悪が入り、人間が滅茶滅茶にしてしまったような中にも、人知を超えて働きかけてくださり、善いことへと変えることが出来るお方。神は世界の創造主であり、今も善いことを創造しておられる。それが、聖書を貫く信仰です[5]

3.予測不可能な世界に生きる

 創世記はその最初と最後で「良い」という言葉が共鳴していますが、途中にあるのは決して良いことばかりではありません。今日のテーマは、私たちに「素晴らしい人生」「神が問題を解決して奇跡を起こしてくださる」ドラマチックにハッピーエンドを約束はしていません。この五十章の言葉も、最初のヨセフの拉致事件から40年近くかかりました[6]。憎しみや裏切り、父を悲しませた罪の意識は、ある意味では最後まで癒やされません。

 もっと言えば、アブラハムが選ばれてからずっと、そこには家族の問題がいつもありましたけれども、家族が向き合い、自分の非を認めて和解するというのは、ここまで一度もないのですね。アブラハムもイサクもヤコブも、三世代は、問題があるのに黙ったり逃げたり間違った反応をしたりし続けたのです。決して創世記や聖書のエピソードの一つ一つが、問題が起きたけれど信仰持って祈ったら神様が最善に変えて下さった、なんていうドラマではないのです[7]。そういう表面的なハッピーなど約束しません。むしろ、神は人間の心に深く関わられます。時間を掛けて、じっくりと、何十年もかけて、深く歩みを導かれます[8]。自分を見つめさせられ、悲しみをも通らされます[9]。人生には、予測の付かないような出来事が次々と翻弄されて、思いもしなかった展開をしていくのであって、人間の思うまま、期待通りにはならない、と語るのが創世記なのです[10]

 神は最善をしてくださいます。善いことを創造しておられます。でも、それは神であって、私たちが思いやすい自分中心の善でもないし、もっと大きな善、神の愛です[11]。ここでヨセフが言うのも、自分たちの幸せではなく、多くの人々を生かしておくための仕事に自分が当たらせてもらったことを言っています。言わば、世界を祝福する使命を果たすために、ヨセフはそれまでのヌクヌクとした人生を一旦捨てた。それを神の善い計らいと呼んでいるのですね[12]

 こういう創世記を土台として聖書は展開していきます。天地万物の造り主であり、ただおひとり本当の神であられる主が、私たちを善い者となさるのです。やがてイエス・キリストがおいでになります。キリストの十字架と復活は、まさに人が計らった悪を善い事へと変えられた証しでした。そして神は今も善いことを創造なさっています。それは何よりも、私たち自身が、心から神に従い、神を喜び、神の祝福を人に分け与えるように造り変えられていくことです。

「世界の造り主なる神様。創世記を通して、あなたが世界を創造されたばかりか、今も御力をもって善をなさり、やがて素晴らしいご計画を完成なさると教えられ、感謝します。私たちはそのあなたの民です。どうぞ私たちがいつもあなたの最善を信じ、あなたを喜び、世界の罪と美しさとを見つめながら、あなたの祝福を運ぶよう、創世記の約束の通りに導いてください」



[1] 契約関係が与えられることも大事。救いの約束、人間の応答。こうしたことを無視した、漠然とした善なる神への信仰ではない。エデンの背信や、アブラハムの応答は神への応答を示している。しかし、ヤコブやヨセフにはその面は薄い。倫理的な正しさよりも、良き神への信頼に根差して生きることそのものである。「正しく生きれば祝福する」ではなく、「祝福の神への信頼をもって、それに応える生き方をする」。ここでも、始めに神、なのだ。

[2] ただし、創世記は、悪の起源についての説明はしていません。他にも途中で起きたこと一つ一つに、善し悪しを判断することは難しいし、出来ないのです。

[3] エルマー・マーティンズは、創世記1-2章に記されている「創造神学」を次のポイントでまとめています。「神を意味するエロヒーム(Elohim)という言葉は、多神教への挑戦となっている。」「7日という枠組みは、礼拝に由来している。」「体系的な記述は、秩序を表現している。」「創造物語には、理解不能な雰囲気がある。」「創造の頂点として人類が重要視されている一方で、創造物語は無生物にも生物にも注意を払っている。」『神のデザイン 旧約聖書神学の試み』(南野浩則訳、いのちのことば社、2015年)、352頁。

[4] そもそもアブラハムが選ばれたのが、彼が七十五歳の時。妻との間には子どもがなく、老い先も短い、枯れたような人でした。神の選びは、全く思いがけない人材を好みます。これもまた、聖書を一貫する視点です。

[5] 「神は世界を創造されたけれど、人間がそれを壊してしまい、ノアの洪水でわずかな人を残して、世界を滅ぼされた。その子孫も堕落して、世界はもう一度神の怒りで滅ぼされる」というネガティブでホラーな物語、だと思い込んでいないか。そうではない、ここにあるのは、世界を「よし」と見直し、この世界に生きる人間の傷、家族の問題、悲惨、理不尽などをすべて知り尽くした上での、「神はよいことの計らいとなさる」と確信する物語なのです。

[6] 再会までは20年もかかりました。その後更に17年経って、この言葉をもう一度ヨセフは兄にかけるのです。

[7] それは人間が好むような成功物語、英雄物語ではありません。そんな物語に隠した人間の万能感、支配欲、憎しみや破綻をも曝かれます。その典型が「バベルの塔の建設」の行き詰まりです。そういう心の襞、人間の繊細さも、創世記も聖書も十分に描いています。そういう人間の心の奥深くに、何十年もかけて、何世代もかけて、関わり、導き、「善いことの計らいとしてくださる」神を指し示すのが創世記です。

[8] 創造は(一瞬でも出来るのに)時間的なものでした。世界は時間的な世界です。神は時間をかけて作られた世界に、神の再生のご計画も時間がかかります。私たちは今をそのような目で見ることが出来ます。

[9] 創世記には多くの味わい深い達観が出て来ます。「事の善悪を論じないように気をつけよ」(神の台詞。三一24、29)、「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださったからです。」(ヤコブが自分が裏切った兄との和解を果たしたときに)、「私も失うときには、失うのだ」(四三14)、「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」(四五28)、「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(四七9)などです。創世記は、人間の喪失の物語であり、人間が人間であって神ではなく、限界を弁えなければならないことを語り続けます。しかし、そうして人間が神の前に心砕かれるときに、神がともにおられることに気づくのです。わが子を失うまいと握りしめ、その喪失を嘆き続けていたヤコブが、「私も失うときには失うのだ」と自分の物語を手放したとき、彼は失ったはずのヨセフをさえ取り戻します。

[10] 「一つの物語であれ、一つの節であれ、全体から切り離された部分は、そのもともとあった大きな物語の中で占めていた位置よりも高めて強調してはいけません。聖書におけるよい大きな物語、すなわち最も中核となる物語とは、無償で与えられる一方的な恵みの物語であり、人間の罪深さをもってしても妨害されることのない愛をお持ちの神の物語であり、罪人のためにいのちを捧げられたキリストの物語です(ローマ5・8)。それ以外の小さな物語は、どちらの意味にも取れる〔二つ以上の解釈の可能性がある〕、あらゆる物語の一部にすぎないのです。」ジェームズ・ブライアン・スミス『エクササイズ』126頁。

[11] 世界は、善き物である。しかし、人間は「自分の願い」を基準に考え、それ以外のものには目を留めることが出来ない未熟さがある。素晴らしいプレゼントを次から次に開けているのに、自分が欲しい小さなプレゼントがないために、いつまでも満たされない子どものよう。私たちの願いよりも大きな神の「最善・最高」を信じる。そのためには、善い物を数えてみる訓練、祝福に目を留める訓練が必要。

[12] 最後は、ヤコブが目に入れても痛くないと可愛がって甘やかしていたヨセフが、失われた先で外国での奴隷生活、冤罪での投獄、無謀な大臣という責任を経て、しもべとなり、赦し、成長していた姿です。私たちも、自分の手に握りしめているものを失いつつも、すべてを握っておられる神が、私たち以上に善くしてくださると約束されているのです。

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