聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問3-4「愛の律法と私の悲惨」

2016-03-27 18:04:35 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/03/27 ハイデルベルク信仰問答3-4「愛の律法と私の悲惨」

マタイ22章34-40節

 

 今日で三回目になりますハイデルベルク信仰問答は、この第三問から「第一部 人間の悲惨さについて」という内容に入ります。

問3 何によってあなたは自分の悲惨に気づきますか。

答 神の律法によってです。

問4 神の律法は私たちに何を求めていますか。

答 それについてキリストは、マタイの福音書22章で次のように要約して教えておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 こう始まるのです。いきなり

「悲惨さについて」

と始まるのはまた大胆な切り口ですが、三部構成と言っても、第一部は問3から11までの九問だけで、第二部が74問、第三部が44問、圧倒的に救いの第二部が中心です。第一部が一番短いのです。その上、ここでは私たちの「罪」と言わず、「悲惨」と言っていることも素晴らしいなぁと思うのです。よく、キリスト教では「罪」と言います。「罪」を言い過ぎてしまうことさえあります。確かに罪の問題はいい加減に出来ませんし、とても大事な問題です。第二問でも、私たちは第一に、自分の罪と悲惨がどれほど大きいかを知らなければならない、と言いました。しかし、そこでこの第一部で、「罪について」とか「何によって自分の罪に気づきますか」と言われたら、かなりこれは凹むのではないでしょうか。断罪されて、否定されて、ますます惨めな気分になって、こんな本は閉じてしまいたくなります。ですから、福音を伝える時、あまり「罪」を強調しすぎるのは賢くないでしょうね。

 このハイデルベルク信仰問答が取るのは、「悲惨」から入って行くアプローチです。それも、その悲惨さは

「神の律法によって」

気づくのです、と言い、その律法が求めているのは、すべてを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛すること、と言うのです。自分の悲惨さには、私たちは何も言われなくても十分気づけていると言いたくなるかも知れません。惨めったらしい思い、なかったことにしたい失敗、思い出したくもない恥ずかしい経験。それぞれにあるはずです。しかし、このハイデルベルグ信仰問答は、神の律法によって、初めて自分の悲惨さに気づける、と言いますね。そして、その神の律法の求めるのは、神を愛し、人を愛する、という基準です。

 この基準に照らして、私たちは自分が悲惨であることに気づくのです。そうでなくて、私たちが「自分は惨めだ」と思う時は、人と比べてそう思っているのかもしれません。ゲームで一番になりたかったのに人に負けてしまって、惨めだ、と考えたりすることもあるでしょう。恥をかかされて惨めだったけど、その仕返しをしてやろうと思ったら、それも出来なくて、なんて自分の人生は惨めなんだ、と考えることもあるでしょう。でも、神の律法が私たちに「神を愛し、隣人を愛しなさい」と求めていることに照らすなら、どうでしょうか。負けたから惨めだとか、仕返しが出来なきゃ惨めだ、としか考えられない事自体が、私の悲惨だと気づくでしょう。自分のことしか考えられない人生だなんて、もしも世界一の大富豪になって、長生きして、健康のまま死んだとしても、それは惨めそのものです。神が私たちを愛されて、私たちにも愛する生き方を求めて下さっているのに、私たちがそれに背を向けて、いつかは無くなるようなものを追いかけて生きるなら、それは惨めそのものです。でも、そこにこそ、人間の惨めさがあります。神が私たちに愛する生き方を求めてくださっているのに、遥かに価値のない生き方をしていること自体が惨めなのです。

 でも、聖書はそれを

「悲惨」

と見てくれているのですね。愛を求めていない状態が、惨めなのだから、そこから抜け出さないともったいないじゃないか、と見てくれているのですね。これは有り難いなぁと思います。神の律法が求める愛する生き方に戻るように、と招いてくれています。それこそ、聖書が愛を基準にしているからです。「惨めに自分勝手に生きているから、もうダメだ、救われようがない。」そう冷たく言い放つなら、そこに愛はありません。「愛がないお前は、罪深くてダメだ」と責め立てるのではないのです。「あなたの惨めさは、愛を命じる神の律法から離れていることにある。だから、神の愛に立ち戻ろう」。そう、愛をもって示しているのです。

 もしこの神の律法を知らなければ、私たちは自分勝手な基準で、惨めだとか悲壮感を持ったりするだけです。自分は可哀想だ、と自己憐憫に陥ることは最も危険な誘惑の1つです。被害者意識というのは厄介なものです。そして、その解決として、ますます自暴自棄になったり、現実から目を背けたり、どうせダメだと分かりながら同じ事を繰り返す生き方を続けたりするぐらいでしょう。神の律法のおかげで、私たちは、自分が神の愛から離れているという悲惨を知るだけでなく、神は私たちを愛されていて、愛する生き方へと変えて戴く時に初めて、惨めさから救い出されることが分かります。惨めだ惨めだと思い込むことを止めて、神に愛されている者として生き始めるのです。いいえ、実際に、イエス・キリストは、私たちの所に来てくださって、私たちへの愛をご自身のいのちを十字架に捧げることで最大限に表してくださいました。そして、私たちにこの神を愛し、隣人を愛しなさい、という命令を告げてくださったのですね。

 イエスは、私たちを愛してくださいました。でも、もう私たちが人を愛さなくても神が愛してくれるから大丈夫、ではないのですね。イエスに愛されても、まだ自分勝手な生き方にしがみつくなら、惨めなのです。そんな生き方をイエスが許されると思ったら、イエスの愛を見損なっていることになります。イエスは私たちを愛されるからこそ、愛から離れた惨めな生き方から、愛を第一とする生き方へと私たちを造り変えてくださいます。妬みや優越感や自己中心を手放させて、あれこれ足りなくても、それでも神を賛美しながら、最善を信じて、喜びながら歩ませてくださいます。人からは惨めな人生だと思われるようなことがあっても、それでも明るく、優しく、ユーモアをもって生きる心を下さるのです。そういう、愛に生きようとする人には、惨めさがありません。

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ヨハネ二〇章1-10節「復活しなければ」

2016-03-27 18:02:59 | ヨハネ

2016/03/27 ヨハネ二〇章1-10節「復活しなければ」

 

 イースターおめでとうございます。どうやら巷では、ハロウィーンに続いてイースターも日本の消費産業に吸収されつつあるようで、盛んにイースターが宣伝されるようになりました。「ハッピー・イースター」と言ってもあまり抵抗がなくなっていくのでしょうか。個人的には、キリストの誕生を祝うクリスマスはまだしも、その復活を祝うイースターは日本人には馴染まないと思い込んでいたのですが、あっさり広まりつつあるようです[1]

 ただ、イースターは何の日か、という説明に「キリストの復活のお祭りで、そのシンボルが卵形のチョコレート」と答えるのは無茶苦茶です。「キリストの復活のお祭り」だけでよいのです。キリスト教は、この復活を土台とします。聖書で、イエス・キリストの生涯を伝える「福音書」は四つありますが、そのどれもが最後の復活記事をゴールとして、注意深く書いているのです。復活こそが、キリスト教会の存在の根拠です。

 とはいえ、今聞きましたヨハネの箇所では、復活されたイエス本人は登場しません。十字架から取り下ろされたイエスの所に女弟子が行ってみたら、墓の蓋をしてある大きな石が取り除けてあった。だから報告を聞いたペテロともう一人の弟子も、墓には布ぎれしかないのが分かった、というのです。この後14節でイエスが登場します。けれども最初からイエスが現れてくださってもよかったのにと思いたくなるのですが、そうはなさいませんでした。まずは、空のお墓を見せて、首をかしげる弟子たちを帰してから、その後、マリヤに会われ、他の弟子たちにも会う。そういうとてもまどろっこしい登場をなさったのですね。イエスの復活は、いきなり墓から「おめでとう!」と現れて、人々を圧倒する、まさにお祭りを始めるような出来事ではなかったのです。弟子たちが興奮して騒ぎ立てた出来事ではなかったのです。

 8そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

とあります。実は同じ言い回しが二〇章の後半で出て来ます。イエスは、疑う弟子トマスに、

29…「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

と仰るのですね。今日の所でも、弟子たちが「見て、信じた」というのは、まだ聖書を理解していなかったからだ、とあります。見て信じる、ではなく、聖書の言葉を、真っ暗な現実の中でも信じるのが教会の信仰です。それでも、彼らはひと息に「見ないで信じる信仰」に達したのではなく、まずは見て、信じるあり方から進んだのですね。イエスはそれをよしとなさいました。キリスト者であっても、復活が本当かどうか分からない、神がいると断言する自信さえない方もいますので、もし皆さんの中にそんな疑問があったら、よく聞いて欲しいのです。

 今日の6節7節に、イエスを包んでいた筈の亜麻布が置いてあり、頭の布も離れた所に巻かれてあったとあります[2]。墓泥棒が布をわざわざほどいていくはずはありません。イエス本人が仮死状態で、この時息を吹き返した、という説明には、この布を自分でほどくことは出来なかったでしょう[3]。二人の弟子が布を見たというのは、作り話にしてはお粗末すぎますし、本当であるなら、復活以外に説明しようがないのです。もし復活が弟子たちによる作り話だったら、もっと尤もらしい話を作ったでしょう。彼らはイエスの復活を捏(でっ)ち上げて、自分たちの活動を続けよう、などという野望などありませんでした。むしろ、19節で「ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた」、臆病な集団でした。その怯えた弟子たちが、この後、イエスの復活を大胆に証言し始めます。彼らが語ったのは、ただ「愛しなさい赦しなさい、希望を持ちなさい」という教えではありませんでした。イエスが死んでよみがえったことと、このイエスこそ神が使わした王である、というメッセージでした。そのために殺されることも恐れなかったのです。

 イエスの復活は、確かに常識や科学では説明できない出来事です。しかし、復活が本当にあったのだと考えなければ、聖書の記録も、教会の発展も、説明が付かないのです。「あったかもしれないし、なかったかも知れない」ではないのです。聖書は、イエスが死人の中からよみがえらなければならないと言っており、パウロは「復活がなければ私たちの信仰は虚しい」と言い切ります[4]。この復活を信じた人たちは、ただの歴史的事実としてだけ信じたのではありません。よみがえられたキリストは、今も文字通り生きておられて、私たちを生かし、私たちにも豊かないのちを吹き込んでくださり、心を新しくしてくださる。そういう恵みに、実際に与ってきたのです。そうして、殉教も恐れず、沢山の犠牲も惜しまず、大胆に新しい歩みをした人たちがいました。あるいは、忍耐と謙遜をもって人に仕える歩みをした方たちがいました。そのような復活の力なくして、教会の歩みとその影響を受けた世界の歴史はないのです。

 私も時々、色々な事が疑わしくなり、漠然と不安になる時があります。そういう時、この、「キリストの復活は間違いなく事実だ」という点は有り難い手がかりの一つです。自分の生活やこれから先、あらゆる事が不確かで、どうなるか分からないとしても、キリストが間違いなく十字架の死からよみがえられて、それ以来、世界を新しくしてこられた以上、今も大丈夫だ。そう思い出して、ホッと出来るのです。だから、復活が本当かどうか分からないままでの信仰生活ではなく、この事実と、これこそ私たちの中心だと知って欲しいのです。

 復活の証拠は、それが十分あったから事実だったに違いない、といって終わるものではありません。見ないで信じる信仰へ、と進ませてくれます。キリストのお約束も聖書の言葉も、全部真実であったと信じることに繋がらなければ意味がありません。ここで墓に残されていた「亜麻布」「布きれ」が後にキリストの亡骸を包んでいた「聖骸布」として珍重され、やがては特別な奇蹟の力を秘めた「聖遺物」として崇められるようになりました。それは逆ですね。空っぽの墓や、そこに残されていた布は、キリストの復活を指し示しているのであって、そこに特別な力や御利益があるとありがたがる様なものではありません。イエスが私たちのために死んで、その墓も布も後に残して、よみがえってくださったことは、私たちがイエスを信じて、イエスのいのちを戴いて、今ここで生きるようになさるためでした[5]。それは、この世界の歴史に否定しよう無く証しされている事実です。聖書の言葉は、そのイエスの復活を力強く証ししています。それは、私たちが今ここで、死からよみがえられたイエスに愛されている者として生きるためです。いつどこにあっても、見える現実がどうあろうとも、です。

 私たちはこのマリヤやペテロたちのようです。早合点し、焦り、疑い、嘆くのです。見えるものに振り回され、一喜一憂します。でも、主はそういう私たちのため、確かによみがえったのです。イースターの朝に起きた復活は、人が思い描くような派手で華々しい復活ではありませんでした。弟子たちが駆け回り首を捻り疑い、出直してしまう、そんな時間も主はよしとされたのです。しかし、そうして回り道をしながらでも、主は彼らとともにおられ、出会いを備えておられました。主は私たちにも最善の時に出会ってくださいます。生涯かけて、主を信じる幸いを、愛されている者として生きる喜びを、じっくりと教え導いてくださるのです。

 

「主は本当によみがえられて、今も私たちを治めておられます。そのことを信じることが出来ますように。それこそが聖書のメッセージであり、それが私自身のためであったと、信じることが出来ますように。私たちの生涯が、私たちの理解や不信仰を越えて、確かな主の導きの中にあり、私たちの体も苦しみも、淡々と主のいのちに溢れるものとなっていきますように」



[1] 欧米のイースターも、商業化して、キリスト教から離れて、ただの「春のお祭り」や年中行事となっていたのでしょう。

[2] これが、キレイに巻かれてたたんであった、なのか、頭を巻いていた布が中身だけスッポリ抜けたように巻かれたままになっていた、という意味なのか(新改訳はこちらの解釈の訳文になっています)、は不明です。

[3] そもそも、「仮死状態」はあり得ません。死を確認して、更に槍で心臓を突き刺していましたし(ヨハネ十九33、34)、十字架の極度の拷問で、体力は衰弱、手足の関節はバラバラに外れて、釘を打たれた跡は酷く裂けていました。十字架にかけられた人間が途中で下ろされて、生き延びたとしても、一生真っ直ぐにはあるけない、障害ある体となったのです。また、その体は、30kgの香料と一緒に亜麻布で巻かれていました。十字架で重篤な障害を負った身で、そこから脱出し、大きな石を動かして出て来ることは不可能です。まして、その後、栄光あるキリストとして弟子たちの前に現れるなど、現実にあり得ません。

[4] Ⅰコリント十五章全体。特に、12節から19節参照。「14そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰は実質のないものになるのです。15それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。16もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。18そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

[5] ヨハネ二〇31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

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