聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記十七章14~20節「学び手であること」

2016-03-06 20:05:26 | 申命記

2016/03/06 申命記十七章14~20節「学び手であること」

 

 アメリカでは大統領選挙のニュースが真っ盛りです。日本でも、国会や選挙の駆け引きが報道されて、政治家たちは有権者にアピールをして、自分たちへの支持を失わないようにしようと躍起になっています。今日の申命記十七章後半では、王を立てたいと思う場合のことが書かれています[1]。どんな人を選ぶべきで、その王にどんな義務が求められるのか、を端的に書いていますね。ここで言う「王」とは絶対君主とか、神に成り代わって好き勝手に振る舞う存在ではありません。しかし周辺の国では、王は神のように振る舞っていました[2]。そこで、

14あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、

15あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。…

と言われて、以下に、いくつかの大切な決まり事が書かれているわけです。主が選ぶ者であること、同胞イスラエル人から選ばなければならないこと。そして、16節では、多くの馬を増やしてはならないこと、17節では、多くの妻を持ってはならないこと、金銀を非常に増やしてはならないこと、が言われています。

「馬」

を増やすのは、財産だけでなく、軍馬の増強、即ち兵力そのものです。ですから、馬を増やすとは、軍事力の増強です。馬や兵力が禁じられるのではありません。しかし、軍隊を持つとそれに過剰に信頼して、誇って、脅威となろうとするのは権力者の常です。神を信頼して謙るよりも、力を持ち、人を威圧しようとするのです。その時、神の民が、本来あるべき、平和と自由の国ではなくなっていくのですね。

16王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだと言って民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない」と主はあなたがたに言われた。

 今までの申命記を思い出してください。繰り返して、エジプトでの奴隷生活から救い出されたことを忘れずに、これから始まる新しい生活で、隣人や弱者を虐げたり、財産の奴隷になったりしないように注意しなさい、と言われていました。ここでの「エジプトに帰る」も[3]、馬を増やそう、軍備を強大にしようとするなら、必ず民をまた虐げる。王のプライドや願望のために、民に税金や労働を強いることになる。エジプトの奴隷生活から救い出されたはずなのに、新しい生活がまた実質的に元の木阿弥になってしまう、と注意するのです。場所は変わり、王を立てるほど国家として成熟した時の話です。一見全く違うようで、しかし結局見ていることは、神でも人でもなく富や名声。エジプトと同じ。その事を強く警告しているのです。

 そう考えると、現代にもどれほどこれは当てはまるでしょうか。馬を増やそうとは思わないでしょう。また、多くの妻を持とうとも思わないかも知れません。金銀という経済感覚もありません。けれども、国の指導者たちは最新鋭の軍事技術を誇りたがるし、GNPを競おうとします。私たちも、TVや広告に煽られて、これがあれば安心できる、という生き方に流されやすいし、通帳の預金額を必要以上に気にするものです。教会さえ、立派な建物や最新の設備や沢山の献金があればいいなぁと思いやすい。でもそれは「エジプトに戻る道」なのです[4]

 18節以下では、王が、一生、主の御教えを書き写し、読み続けなければならない、と言われます。王は神の律法の下にある、という「立憲君主制」ですね。[5]

19…それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。

20それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

 心が民の上に高ぶらないために、神の命令から逸れないために、そしてそれが最終的には長い統治に繋がるために、主の掟を守り行うことを学び続けるのです。主の教えを守ることを学び続けないと、高ぶって、自分だけは特別だ、自分には自由にする権利がある。そういう風に考えやすいのが私たちですね[6]。高ぶりはいけない、富や力に頼ったら滅びる、というのは基本中の基本です。でもそれを「もう知っているから大丈夫、自分は高ぶりません、神様だけに頼ります、自分はもう学ばなくても大丈夫」などと言える人はひとりもいません。だから学び続けること、学び手であることが、私たちを守るのです。神の掟を守ることを私たちが学び続ける時、律法が私たちを守り、祝福を与えるのです。[7]

 けれどもこの後の歴史は、何を教えているでしょうか。イスラエルにやがて王が起こされていった時、彼らはみな馬を増やし、多くの妻を娶り、金銀を増やしてしまいました。主の掟を学ぶことを疎かにして、高ぶって、最後にはダビデ王朝も絶やされたのです。そればかりではありません。その反省の上に立って、イスラエル民族は律法を熱心に学び、暗記するようになりました。しかし、主イエスが来られた時、神の掟の専門家であり実践者を自他共に認める、律法学者やパリサイ人たちこそは、心をそらせ、イエスに抵抗したのですね。律法を学んでさえいれば大丈夫、ではない。それぐらい人間の心は深く病んでいることが分かったのです。

 ではどこに私たちの望みがあるのでしょうか。それは、この掟を完全に成就された王、イエスご自身です。イエスはユダヤの同胞から建てられた王であり、馬や力を増やそうとせず、心をそらせることなく、貧しい生涯を歩まれた王でした。イエスはこう仰いました。

マルコ十42…「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

43しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。…

45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 このイエスのお姿を、絶えず学ぶのです。イエスは、私たちのために身を低くし、私たちに仕えてくださった王であられます。それは二千年前だけの話ではありません。今も私たちに仕えておられます。今日も日ごとの糧もいのちも与え、私たちの足も心をも洗い、私たちの心を探り、涙を拭い、ともに歩んでいてくださるのです。私たちを奴隷のように見做さず、本当に私たちを愛し、尊び、喜んでくださっています。そして、私たちの立場だけでなく生き方をも回復するために、ご自分のいのちさえも惜しまれない王なのです。このイエスが私たちの王であられます。馬も多くの妻も金銀も、他の何も私たちを救えません。イエスだけが私たちを生かし、滅びからも、傲慢からも救い出してくださるのだと、生涯、学び続けていきましょう。

 

「力に憧れ、自分だけは特別でいたいと思い上がって滅びて行く人間の中に、あなたは御言葉をもって語り掛け、行くべき道を示してくださいます。主ご自身の模範と十字架の死は、私たちが傲慢や奴隷化の道から救われる保証です。世界を支配しているのは、強者でも富でもなく、恵みと真実の主、永遠の王であるあなたに他ならないことを私たちを通して証ししてください」



[1] 王を立てること自体が罪だったわけではありません。創世記十七6で「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」と既に言われていたのです。ここでも、王を立てることに伴う注意をしつつ、王を立てること自体を否定してはいません。申命記の文脈では、それが大罪であれば断固として非難されていたはずです。しかし、そこに伴う問題として、主の選びよりも自分たちの好みで選び、異国人(異教徒)から好もしい人材を連れて来たり、その所有欲に負け、妻を多く娶ったりする危険が注意される。

[2] 私たちにとって、本当の王は、主なる神であります。(出十五18、申命三三5。)神こそが本当の王であります。しかし、神は決して、暴君でも恐ろしい絶対君主でもありません。恵み深く、また、人間の自由と意志を尊重され、世界を育んで成長させ、完成に至らせるお方なのですね。神は善き王です。神の支配とは、政治家や権力者たちが得ようとするものとは違うのです。ところがそのような生ける本当の神とは違い、多くの宗教の神は生きていません。ですから、神を崇めてはいても、実際は、祭司や神官が絶対君主となったり、王が神のように振る舞ったりしてしまうのですね。神に説明責任を持つわけではないからです。

[3] このエジプトに帰るとは、馬を買うためにエジプトに行くとか、エジプトに民を連れて行って奴隷として売りさばくとか、そういう意味だと考える人もいます。

[4] 後のソロモンはこの律法を破ります。しかし、よく言われるように多くの妻を娶った(Ⅰ列王十一4-8)だけではありませんでした。彼は、馬を増やし(Ⅰ列王四26)、最高の財産を誇った(Ⅰ列王十14-22)ことも見逃してはなりません。この後半は、是認していないでしょうか。憧れていないでしょうか。教会が、道徳的なスキャンダルを犯すことは嫌悪しても、立派な会堂を持ち、豊かな財政を持つことに憧れがないでしょうか。そこに既に、落とし穴があるのです。

[5] 王やお殿様は、自分自身が法律になって、人に命じる立場になりやすいのですが、ここでは逆です。王こそは、誰よりも神の教えを心に刻むべきです。

[6] 自分も民の一人である、という自覚は非常に大事です。孤独感や特別意識は、非常に危険なのです。自分もみんなと同じ一人、と思うことが人を守る面もあるのです。

[7] 「学び」とは何か難しい事や新しい知識の学びではありません。聖書を学ぶのは、高度な知識を身に着けることではありません。知るべき事はもう知っているけど、それに加えて聖書についての知識を増やしていく、ということではないのです。学ばなくてもいい、というのは謙遜のようですが、実は高ぶりへの確実な道です。「自分は知るべき事を知っている、自分の判断は正しく、大きな間違いはしない」という自信でもあるのですから。「学び」とは、新しく高度なことを学ぶのではなく、基本的なこと、当然の態度を学び続けることです。なぜなら、私たちの中にある堕落の影響は、根本的な所で根を下ろし、生き方を歪めていくのですから。偶像を拝み、人を支配しようとするのですから。自分の欲を求めたり高ぶったりしては神の御心に添わないと教えられながら、それを生きることの出来る人など一人もいないのですから。

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問107「すべては神からのもの」Ⅰ歴代29章11~14節

2016-03-06 20:02:00 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/03/06 ウ小教理問答107「すべては神からのもの」Ⅰ歴代29章11~14節

 

 今日で「主の祈り」の解説は終わります。そして、「ウェストミンスター小教理問答」もこれが最後の質問になります。分かりますね。

問107 主の祈りの結びの言葉は、私たちに何を教えていますか。

答 主の祈りの結びの言葉、すなわち「国と力と栄えは、永久にあなたのものだからです」は、私たちに、祈りにおける励ましを神からのみ受けるように、また、私たちの祈りにおいて、国と力と栄光を神に帰して神を賛美するように、教えています。そして、祈りが聞かれるようにという私たちの願いと、確かに聞かれるという確信の証しとして、私たちは「アーメン」と言います。

 主の祈りには六つの願いが含まれていますが、その最後にこのような言葉で結ぶ習慣が、ごく最初の頃から出来たようなのですね。「だからです」と言うように、六つの願いを祈ってきた最後に、どうしてこのような願いを祈るのか、という理由を確認するのがこの結びです。

「国と力と栄えは、永久にあなたのものだからです」。

 ここには、二つのことが言えます。一つは

「祈りにおける励ましを神からのみ受けるように」

とあるように、私たちを励まし、この祈りが必ず答えられる、という確信を与える面ですね。「国」言い換えれば、天の父は王であって、全てを支配しておられ、すべてのものはあなたのものだからです。「力」もあなたのものです。神より強いものはないし、天の父にはどんなことでも成し得る全能の力があります。「主の祈り」の六つの願いは、途方もない願いのようにも思えます。

「私たちを試みに会わせないで悪からお救い下さい」

という祈り一つ取っても、本当に私たちが悪から守られるか、大丈夫か、不安にも思えます。しかし、

「国と力と栄えは永久にあなたのもの」

だから、神には私たちの思いや限界を遥かに越えて、私たちを守り救ってくださると信じて、お祈りさせていただけるのです。そういう意味ですね。

 先に読んだ、Ⅰ歴代誌29章の言葉を思い出してください。Ⅰ歴代誌の最後の章です。ここでは、ダビデ王が死ぬ間際に祈った祈りが書かれています。自分が死んだ後、息子ソロモンに、神殿建設という大事業を委ねることになっていました。これは今まで誰もしたことのない、壮大な事業です。上手くいくんだろうか、また、神の御心に叶う事業に出来るのか、不安もあったでしょう。そこでダビデが祈ったのが、この祈りです。

11主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

12富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。

 ここに、主の祈りの結びと同じ言葉が出て来ますね。■力と栄え、王国もあなたのもの。面白い事に、そっくりそのままです。そして■偉大さと栄光と尊厳、天にあるもの、地にあるもの、すべてのもの、富と誉れ、勢いと力、すべてが神のもので、神から出て、神によって大いにされると歌っていますね。だから、ダビデはソロモンが神殿建設をすることも、神様が導き祝福し、聖めてくださるようにと祈っているのですね。神は、王であって、力も栄光もお持ちである。そう信じる事は私たちにとって希望と励ましです。

 同時に、それだけではありません。それはまた、私たち自身の自惚れや勘違いにも気づかせてくれます。

「国と力と栄えとは、永久にあなたのものです」

、言い換えれば、「私のもの」ではありません。私たちは自分が王様のように思い通りにしたい気持ちがあります。神にも自分の願いを叶えてもらいたいと思って、熱心に祈るのです。また、自分の栄光(名誉や賞賛)を求めたがりますね。また、自分が馬鹿にされたり、恥をかいたりしたくない、それよりスポットライトを浴びたい、有名になりたい。そういう思いに動かされていることが多くあるのです。でも「国と力と栄えとは(私のものではなく)あなたのものです」。そういうのですね。ダビデも続いて言いました。■

14まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

 私たちの持っているものはすべて神から出たものです。「これは自分のものだ」なんて言えるものは何一つないのです。その事に気づかされるのですね。ここでも、■

…また、私たちの祈りにおいて、国と力と栄光を神に帰して神を賛美するように、…

とあります。自分のものに握りしめかけていたものを全部神にお返しして、神の御心が、神の御名が崇められるために、行われますように。自分の思いが自分の名誉のために叶うようになんて思いは、お返しします、そう気づかされるのだとも思うのです。

 今日の言葉は「主の祈り」の結びの言葉についてだけの解説ではありません。お祈りが終わって、立ち上がったら、関係なくなるのではありません。いいえ、むしろ、私たちの全生活が、どこを取っても神様のもの、どこを切っても神の栄光や愛が思われるはずですね。私たちの生きているすべてが、神の国であり、神の力によって支えられて、神の栄光を現すためのものなのです。主の祈りは、私たちをそのような神の絶大な栄光に引き戻してくれます。私たちの祈りの根拠が、神の力への確信と希望であるとともに、自分の小ささや思い上がりにハッとさせられて、謙虚にさせられ、天の父を心から賛美させられるのですね。祈りは、私たちが神に自分の願いを聞いてもらうためにするのではありません。祈りは、私たちが神ではなく、神に栄光をお返しし、神に焦点を合わせた生き方をさせてくれるのです。祈りの素晴らしさとは、自分の願いを叶えることではなくて、私たちがますます神を信頼するように変えられ、喜びや謙虚、信頼と平安をもって生きるようにしてくれることにあります。

 ウェストミンスター小教理問答で学んできた通り、聖書の教理を学ぶ時、私たちの生き方が、神への信頼を軸として、天の父との親しい交わりに生かされるようになります。

 祈りましょう。祈りましょう。神から喜びと励ましと賛美を戴きましょう。神はそれを下さるお方です。天の父である神は私たちの祈りを喜び、豊かに祝福してくださいます。

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問106「人生に勇気を」ヤコブ書1章12~16節

2016-03-06 19:59:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/28 ウ小教理問答106「人生に勇気を」ヤコブ書1章12~16節

 

 主の祈りの六つある願いの最後です。私たちは、「試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈る時、どんな「試み」や「悪」を考えているでしょうか。

問106 第六の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第六の祈願、すなわち「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」で私たちは、罪を犯す誘惑から神が私たちを守ってくださるように、また、もし誘惑された場合には、私たちを支え、助け出してくださるように、と祈ります。

 ここでは「罪を犯す誘惑」と言っています。先に第五の祈願では

「私たちの罪(負い目)をお赦しください」

と言いましたが、私たちは、赦して戴いてもまた罪を犯しかねない者です。自分が、臆病で躓きやすい者であると告白して、どうか守ってくださいと祈るのです。「試み」と言うと、何となく、苦しみとか辛いこと、というばかりを私たちは想像しやすいかもしれません。けれども、反対に、お金持ちや人気者になる、人からチヤホヤされたり、成功者の立場に立つ事も、苦しみ以上に大きな誘惑になります。

「悪への道は緩やかなカーブである」

とか

「地獄への道は善意で舗装されている」

という言葉があります。大スターになって、お金も人気も絶頂になって、そういう所で、少しずつ、悪い遊びやお金の使いすぎが始まって行って、気がついたら、人生を台無しにする、という事は、悲しいことによく聞く話です。ただ「苦しい目ではなくて、自分の願いを叶えてください、禍や自分にとって最悪な思いはさせないでください」という願いなら、そういう考え自体から、私たちは救い出される必要がありますね。勿論、私たちは、病気や失敗や災害や犯罪から守られる必要もある弱い者です。そういう自分の弱さ、守って戴く他ない危うさ、小さく、間違いやすい者である、という自覚をもって、この祈りを捧げていきたいと思うのですね。

詩篇一一九71苦しみに会ったことは、 私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。

 神は、私たちを愛しておられます。私たちが罪を犯しやすく、誘惑に会えば、すぐに間違いかねない欲望や妄想を持っているし、自分では自覚がなくて、自分は大丈夫だと自惚れて、人を見下しやすいこともご存じです。だから、私たちを苦しみに遭わせ、それによって、私たちが神に頼ることを学ぶようにと御配慮くださるのです。

 しかし、先にヤコブ書を読んだ時の言葉も忘れてはなりません。

12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

 神が誘惑されるのではない。この「試練」と「誘惑」とは、実は元のギリシャ語では同じ言葉なのですね。ですから、「試練」は絶えるならば幸いだし、耐えていのちの冠を受けるようにと与えられるのに、その誘いに逆に乗っかっちゃったら、「誘惑」となってしまう面もあるのですね。でも、それを「神がこんな誘惑をされたから」と言い訳をしてはならないのです。「試みに会わせないで」とは、「試みに会わせるのは神様だ」と、まるで神が意地悪であるかのように捕らえないようにしましょう。むしろ、苦しくなれば文句を言い、甘い囁きにはコロッと騙されてしまう、本当に間違いやすい自分の弱さを神様が憐れんで、試みに会わせないでください、悪から救ってくださいという祈りです。天の父は、私たちを試みる意地悪なお方なんかではありません。私たちを、試みに会わせず、悪から守ってくださるお方なのです。

 その天の父への信頼の中で、私たちは、勇気をもって生きることができます。私たちの弱さ、失敗しやすさを、私たちより先にご存じの神が、私たちを苦しみから守り、悪から必ず救い出してくださる、と信じて、勇気を与えられて生きてゆけるのです。そして、悪から救い出したいからこそ、私たちに試練も与えられることもあるのです。ぬるま湯や現状維持という試みは、最も大きな誘惑の一つです。「確かさ」や『「繁栄」という名の偶像』は、実に強力です。だから、必要ならば、それを壊して、そこから救い出してください。悪からお救いください、と神に祈るのです。そして、神は、私たちを何としてでも悪から救い出してくださる「天の父」です。イエス・キリストはそのために、この世に来て、すべての試みを味わった上で、悪魔に打ち勝ってくださったのです。

 因みに、この「悪」とは先に言ったように、自分にとっての「最悪な状況」とか「嫌なこと」では勿論ありませんし、それ以上に「悪魔」と訳すべきとされます。つまり、私たちを滅ぼそう、悪い方に引き込もう、騙して間違わせようという人格的な存在が働いているのですね。悪意の塊、邪なサタンが、私たちを神から引き離そうと、あの手この手で、そこら中で待ち構えているのです。ともすると、「一寸ぐらい悪もいいじゃない」とのんきに油断してしまいがちですが、それ自体が悪魔の罠の手口です。とても太刀打ちできないような悪の企みが私たちの周りに張り巡らされている。その悪の力から、私たちを救ってくださいと祈るよう、イエスは教えてくださいました。私たちを、どうにかしてでも、悪魔から救ってくださいと祈る大切さに気づかせてくださった。私たちには何が悪で、何が悪でないか分からないとしても、天の父が、何が善で何が悪か、悪魔が考えている悪巧みの全てから、強いてでも私たちを守って救い出してくださいますように。この祈りもまた、私たちを悪から救い出されるイエスの下さった「命綱」です。

 最後の部分で

「また、もし誘惑された場合には、私たちを支え、助け出してくださるように、と祈ります。」

とあります。これも慰めですね。サタンは、私たちに誘惑をしかけて、「一寸ぐらい大丈夫、みんなやっているから平気だ」と言いながら、やってしまった後は、掌を返すように「お前はもうダメだ、こんな事をして赦されやしない」と絶望を吹き込むのです。しかし福音とは、そのような絶望や間違いからも救い出してくれるものです。私たちの天の父は、私たちが悔い改めて帰って来るのを待っておられます。何度失敗しても、私たちを支え、助け出してくださるお方です。この祈りは自信家を謙虚にするとともに、項垂れている者には希望を与えてくれる宝物です。

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ルカ二四章50~53節「祝福されて生きる」

2016-03-06 19:57:00 | ルカ

2016/02/28 ルカ二四章50~53節「祝福されて生きる」

 

 礼拝の最後の祝祷(祝福)では、両手を挙げる牧師もいれば、片手を挙げる牧師もいます。二年前に大阪のセミナーに出て、「両手じゃないといかん」と言われました。片手だと効果がないのではありませんが、何よりも、今日の50節のイエスの祝福を思い出すためです[1]

50それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

 この「手」は複数、つまり両手なのです[2]。イエスが最後に弟子たちを、両手を挙げて祝福されながら離れて行き、残された弟子たちが「非常な喜びを抱いて」エルサレムに帰り、

53いつも宮にいて神をほめたたえていた。

という姿で、この福音書は一旦結ばれるのです。この「ほめたたえていた」は、欄外注に直訳すれば「祝福していた」とあります。イエスが弟子たちを祝福したのと同じ言葉で、弟子たちも神を祝福したのです。しかし「人が神を祝福する」とはどうも恐れ多いので、誉め称えていたと訳し分けたのでしょう。いずれにしても、ここでは「祝福」という言葉が三度も使われていて、しかもイエスが弟子たちを祝福したのに応えて、弟子たちも神に祝福を返すような、そのような喜ばしい様子です。これがイエスのご生涯と十字架の死と三日目のよみがえりによってもたらされた幸いなのです。イエスが、ご自分のいのちをもって弟子たちに祝福を下さって、今はそのお姿は離れてゆかれましたが、弟子たちはその祝福によって、非常な喜びをいただき、神を誉め称えるものとされた。そういう姿をルカは最後のメッセージとするのです。

 この「非常な喜び」は、ルカの福音書の最初、あのイエスの誕生が、御使いによって羊飼いたちに知らされた時に使われた「すばらしい喜び」と同じ言葉です。

二10…「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」

 その御使いの言葉が、いま弟子たちの現実となって、彼らは

「非常な喜びを抱いて」

歩み始めている。また、彼らは、宮にいて神を誉め称えていましたが、ルカの福音書の最初も、エルサレムの神殿が舞台でした。祭司ザカリヤが神殿の聖所に入って香を焚こうとしたのです。しかし、そこに主の使いが現れたとき、ザカリヤは御使いの言葉を信じませんでした。そこで御使いの言葉が成就する時まで、ザカリヤは話すことが出来なくされました。そうして聖所から出て来たザカリヤは口が聞けなかった。つまり、本来なら香を焚いた祭司が待っていた人々を祝福するはずでしたのに、その祝福をすることが出来ませんでした。待っていた民たちは祝福を受けられず、ざわついたまま解散するしかなかったのですね。それは、ザカリヤ一人の間違いのせいではありません。民を覆う空気そのものが、不信仰になり、希望も喜びも抱けなくなって、神を待ち望む人はひと握りしかいなかったのです[3]。神の宮に集まり、神を礼拝しているようでありながら、神の言葉を信じることが出来ない。そういう民の行き詰まった現実から始まったルカの福音書が、最後にまた宮に戻り、イエスの祝福によって喜びに溢れ、神を誉め称える姿で結ばれます。この祝福と喜びこそ、イエスがもたらして下さる恵みなのです[4]

 しかし、それはイエスが私たち人間の願いを叶えてくださるとか、幸福感を満たして、不幸や挫折や悲しみから守ってくださる、ということでは決してありませんでした。生きているからには避けられない壁や喪失や死を、自分たちだけは特別に免れさせてくださる、という祝福ではありません。むしろ、持ち物は失われますし自分を守っているものははぎ取られなければなりませんが、神は私たちとの間に、変わることのない確かな関係を造ってくださるのです。前回47節でお話しした「罪の赦しを得させる悔い改め」です。罪を悔いる、という以上に、神に立ち帰るというメッセージですね。私たちを祝福してくださる神、喜びを与えるために十字架の死をも厭わなかったイエスとの出会いが、素晴らしい喜びとなり、神を信じるだけでなく、神にも祝福を返さずにはおれないような思いをくれるのです。

 この

「祝福する」「ほめたたえる」

という言葉は、「良いことを言う」意味があります。その「良い」は「善」とか「上手」というだけでなく「美しい」というニュアンスもあるのだそうです[5]。神の言葉は真実ですから、言葉だけの美辞麗句ではなく、神が私たちを、美しい言葉が相応しい者と見てくださり、その祝福の言葉によって私たちをますます麗しくしてくださる。それが「祝福」です。そして、私たちもまた、神の麗しさを知らされて、神の美しさを心から告白するのが、神を誉め称える、ということなのです[6]。そもそも、聖書の最初、創世記の一章の天地創造では、繰り返して

「神は見て良しとされた」

と言われます。この「良し」がやはり、「上出来」以上に「尊い」「美しい」「喜ばしい」とも訳される「良し」なのです[7]。神は世界を創造しながら、その一つ一つを愛おしまれたと、聖書は最初に宣言するのです。この世界は神の祝福の中で始まり、そして神の御手の中で育てられ、祝福の完成へと至るべき美しい世界なのだ、と初めに言うのです。しかし、その神の祝福から離れて、人間は神に背いて生きる事を選んでしまいました。世界の美しさも見失ってしまいました。何かがあると、虚しくなったり絶望したり、投げやりになってしまう。神の祝福に耳を傾けられなくなった。そういう私たちを、本来の祝福の中で、喜びをもって生かすために、イエスはこの世に来てくださいました。教えと十字架の死と復活という御業とをもって、キリストとしての務めを果たし終えられたのです。その時、そこには喜び、神を誉め称える弟子たちが生まれていたのです。

 ルカはイエスが天に昇られたことをアッサリと書いています。第二巻の「使徒の働き」では昇天が四十日目であったことやそれまでの様子を詳しく書き、その後の聖霊降臨や、新約の教会の宣教が始まったことも書きます。そういった細々としたことをここでは棚上げして、ただ、祝福に満ち溢れ、喜び、主を誉め称えている弟子たちの姿だけに絞って結ぶのですね。こういう書き方のおかげで私たちは、イエスが下さった祝福の喜びに思いを集中させてもらえます。そして、私たちが今ここで喜び集まることが、決して小さな事ではない、この世界に対する神の祝福が完成する証しだということです。世界を良いもの、美しいものとして造られた神が、イエスのいのちによって、この世界を、すばらしい世界、麗しい世界として回復してくださる。その希望を、礼拝の最後で両手を挙げた祝福を見ながら思い起こし、出て行くのです。

 勿論イエスの祝福は、この時だけでそれを思い出すというのではありません。イエスは天で私たちの大祭司として、私たちのために耐えず執り成しておられます[8]。今もイエスは私たちが、何が起ころうとも、祝福された者として生きるようにと働いておられます。その祝福の中で、見せかけの美しさとか醜い生き方を離れるよう、私たちの生涯の間、働き続けてくださいます。この旅の途中では、悲しみや禍と取り組んだり飲み込まれたりします。それでも私たちが、この不完全な世界で、神の祝福をいただきながら、神を誉め称えて生きるように、イエスは今も私たちに、ご自分を与えて、麗しい恵みを注いでくださっているのです。

 

「主よ。あなたの祝福を今日も新たに戴いて、私たちも非常な喜びと神を誉め称える歩みに与らせてください。あなたが、神の麗しい民を地上に造り、やがては全世界を回復することを御心とされた故に、私たちも今ここでその御業に与れますように。あなたの祝福の中で、私たちが互いに祝福し合うことが出来ますように。その慰めと、幸いに生かしてくださいますように」



[1] 片手を挙げる理由には「自分はイエスではないから片手で」と謙遜する心理もあるでしょうが、イエスではない者は、片手であっても祝福をする権威などないのです。私たちの「権威」はすべて主イエスを指し示すものですから、余計な「ご謙遜」でかえってイエスを見えなくすることは止めた方がいいのでしょう。自分自身、片手から両手に替えたのはそう気づかされたからです。

[2] 「両手を上げて」は、旧約や中間時代の背景からすると、大祭司の祝福の姿でもあります。レビ九22、ベンシラ五〇11-21。

[3] その代表が、二25の「シメオン」や36の「アンナ」、そして、38の「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々」です。しかし、ザカリヤの失語は、さばきで終わらず、ザカリヤを「神をほめたたえた」(一64)ばかりか、讃歌を歌う(67~79節)者としたことに、このルカのエンディングに繋がっていくメッセージが示されてもいるのです。

[4] 52節にも「イエスを拝し」という異本の読みが欄外にありますが、これは今日、原文の読みとして採用されつつあるようです。そこからいうならば、「礼拝」は、ルカでは四7、8で、サタンへの礼拝で出て来る他はここでイエスに捧げられるのが初めての行為です。それ程、サタンを礼拝しようとする力は強いとも言えましょう。神を礼拝するよりも、サタンを礼拝した方が賢く強かであるかのようなこの世界で、イエスが死によみがえられ、私たちを祝福してくださって、私たちを離れ、祭司として務められた故に、私たちはイエスを、イエスだけを礼拝するようになったのです。

[5] 榊原康夫『ルカ福音書講解 6』409頁。

[6] 最近、教文館から『神が美しくなられるために』(R・ボーレン)という説教学の本が出ました。

[7] ヘブル語「トーブ טוֹב」は、Strongによれば、「good (as an adjective) in the widest sense; used likewise as a noun, both in the masculine and the feminine, the singular and the plural (good, a good or good thing, a good man or woman; the good, goods or good things, good men or women), also as an adverb (well):—beautiful, best, better, bountiful, cheerful, at ease, (be in) favour, fine, glad, good (deed, -lier, -liest, -ly, -ness, -s), graciously, joyful, kindly, kindness, liketh (best), loving, merry, pleasant, pleaseth, pleasure, precious, prosperity, ready, sweet, wealth, welfare, (be) well(-favoured).」と解説されています。

[8] ヘブル七24-25「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

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