2016/03/13 ハイデルベルク信仰問答1「唯一の慰め」ローマ書8章38~39節
今日から「ハイデルベルク信仰問答」という本を使って、お話ししていきます。ここには全部で129の問がありますが、その第一をともかく読んでみましょう。
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
この第一問はとても大切なものです。答の長さも気になりますが、それ以上に問がいいですね。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」こういう言葉から、教会の信仰問答を始めようとした、そのセンスが素晴らしいと思うのです。
ハイデルベルク信仰問答は、ウェストミンスター信仰規準よりも一世紀前、十六世紀に書かれました。ドイツにあった小さなファルツという国の首都ハイデルベルクで書かれたのです。そのハイデルベルクの町には、プロテスタントでも、ルター派と改革派と二つの教派がぶつかっていました。折角宗教改革は受け入れて、中世の間違った教えは捨てたのに、その先の考え方の違いで対立が起きていたのです。そこで、その分裂を悲しんで、解決するためにと、聖書に通じて信頼された二人の神学者が起草したのです。言い換えれば、意見が対立して、分裂しそうになっているハイデルベルクの町が、どこから一致できるのだろうか。どうやったら、元気を取り戻していけるのだろうか。争い、排除し、頑なになって生きるのではなく、ともに歩んでいくために、聖書から何を聞き取っていこうか。そういう願いがあったのです。更に、宗教改革からヨーロッパは混沌とした状況に陥っていきました。周りの国や町では、ルター派だ改革派だ、いや、カトリックだ、再洗礼派だ、と収拾がつかなくなっていたわけです。そして、それに加えて、個人のレベルでは、生活の大変さがあります。子育てや夫婦の悩み、病気や死、生きる上での問題もいつもあったはずです。そういう中、市民たちの心が暗く沈み、荒んでいく中、どうしたらいいのか。それをこの「唯一の慰め」という切り口にすることにしたのだと思えてなりません。決して、キリスト教とはなんぞやとか、聖書だけを読んで教えようと考えたのではなく、もっと争いや荒んだ生活の真っ只中にある信徒たちがあって、このハイデルベルク信仰問答は生まれたのです。それが「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」という問でした。そして、その答は、
答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
こう言い切ったのです。慰めも希望も、夢も喜びも儚く崩れ去るような状況で、私たちの慰めがあると言いました。それは、私が私自身のものではなくて、身も魂も、イエス・キリストのものである。この事実が、生きるにも死ぬにも、失われることのない慰めであると言ったのです。この「慰め」とは、ただの気休めとか安心、というよりも強い言葉です。「私たちの心を置くべき拠り所や確信」(吉田隆)だそうです。そこを拠り所として、確信を持って立ち上がり、踏み出していける。それは、私がイエス・キリストのものであること。そこに、根拠を置いて生きていくことが出来るし、信じることが違う人とも、ともに生活することが出来るし、死に瀕する時、他の全ての掴んでいたことが役に立たない時にも、私がイエス・キリストのものであることを根拠として、恐れずに死んでいくことも出来るのだ、そう言ったのです。
気づいているでしょうが、私の慰め、と言いながら、大事なのは私が慰めを持つことではなくて、私をイエスが捕らえて、御自身のものとしてくださっていること、と言っています。私たちは自分が健康とか人より豊かだとか幸せだとか、色々なものを持っていることで安心しようとします。信仰でさえ、自分が神様を信じるなら神様が見捨てないでいてくださる、とまず自分が多くを握っていようとします。そうでないと不安だからです。でも同時に、今の時代は、多くのものを持てば持つほどますます不安になっている時代ではないでしょうか。現実自体が頼りなくて、全てのものが儚くて、信じられないような、漠然とした虚しさを覚えています。それで、せめて宗教に安らぎを見出そうとする気持ちもあるでしょう。確かなものに縋って安心したいのです。
けれども、ここで言っている「慰め」はその考えを丸きりひっくり返します。自分が失うまいと握りしめているものを守ってくれる、そういう慰めではなく、その全ては私の手の中にはない。私自身さえ、私のものではなく、イエス・キリストのもの。もう既に、イエスが私を御自身のものとしてくださっている。それも、イエスは、
…御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。
もう今晩ここに多くを付け加えることは出来ません。ここで言われている事を、これからも少しずつ味わっていきます。今、覚えたいのは、イエス・キリストが御自分の尊い血(十字架の死)をもってまで、私を御自身のものとして救い、罪を償い、解き放ってくださった、ということです。髪の毛を初めとして、私の体も生きる事も、全てが、虚しくはない、ということです。また、そうなろうと頑張るというのでもなく、すでに主イエスが、私を御自分のものとして尊く結びつけてくださった、という約束です。
ローマ八38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今ある者も、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
まだ実感はないかもしれません。信じられない思いも強いかもしれません。それでも、そういう私たちの側の揺れ動きに関わらず、私たちはもうすでにイエスのものです。主イエスが十字架に死に、よみがえられた以上、私たちはすでに主のもの。この体も、地上の人生の全てにおいても、主イエスのものとして生き、食べ、眠り、笑い、汗を流し、歩んでいる。万事が益となり、主のために心から喜んで生きるようになる。遅かれ早かれすべてを失っても、なお失わない慰めを与えられている。それがキリスト者なのです。