聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問1「唯一の慰め」ローマ書8章38~39節

2016-03-13 17:51:44 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/03/13 ハイデルベルク信仰問答1「唯一の慰め」ローマ書8章38~39節

 

 今日から「ハイデルベルク信仰問答」という本を使って、お話ししていきます。ここには全部で129の問がありますが、その第一をともかく読んでみましょう。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

 この第一問はとても大切なものです。答の長さも気になりますが、それ以上に問がいいですね。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」こういう言葉から、教会の信仰問答を始めようとした、そのセンスが素晴らしいと思うのです。

 ハイデルベルク信仰問答は、ウェストミンスター信仰規準よりも一世紀前、十六世紀に書かれました。ドイツにあった小さなファルツという国の首都ハイデルベルクで書かれたのです。そのハイデルベルクの町には、プロテスタントでも、ルター派と改革派と二つの教派がぶつかっていました。折角宗教改革は受け入れて、中世の間違った教えは捨てたのに、その先の考え方の違いで対立が起きていたのです。そこで、その分裂を悲しんで、解決するためにと、聖書に通じて信頼された二人の神学者が起草したのです。言い換えれば、意見が対立して、分裂しそうになっているハイデルベルクの町が、どこから一致できるのだろうか。どうやったら、元気を取り戻していけるのだろうか。争い、排除し、頑なになって生きるのではなく、ともに歩んでいくために、聖書から何を聞き取っていこうか。そういう願いがあったのです。更に、宗教改革からヨーロッパは混沌とした状況に陥っていきました。周りの国や町では、ルター派だ改革派だ、いや、カトリックだ、再洗礼派だ、と収拾がつかなくなっていたわけです。そして、それに加えて、個人のレベルでは、生活の大変さがあります。子育てや夫婦の悩み、病気や死、生きる上での問題もいつもあったはずです。そういう中、市民たちの心が暗く沈み、荒んでいく中、どうしたらいいのか。それをこの「唯一の慰め」という切り口にすることにしたのだと思えてなりません。決して、キリスト教とはなんぞやとか、聖書だけを読んで教えようと考えたのではなく、もっと争いや荒んだ生活の真っ只中にある信徒たちがあって、このハイデルベルク信仰問答は生まれたのです。それが「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」という問でした。そして、その答は、

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

 こう言い切ったのです。慰めも希望も、夢も喜びも儚く崩れ去るような状況で、私たちの慰めがあると言いました。それは、私が私自身のものではなくて、身も魂も、イエス・キリストのものである。この事実が、生きるにも死ぬにも、失われることのない慰めであると言ったのです。この「慰め」とは、ただの気休めとか安心、というよりも強い言葉です。「私たちの心を置くべき拠り所や確信」(吉田隆)だそうです。そこを拠り所として、確信を持って立ち上がり、踏み出していける。それは、私がイエス・キリストのものであること。そこに、根拠を置いて生きていくことが出来るし、信じることが違う人とも、ともに生活することが出来るし、死に瀕する時、他の全ての掴んでいたことが役に立たない時にも、私がイエス・キリストのものであることを根拠として、恐れずに死んでいくことも出来るのだ、そう言ったのです。

 気づいているでしょうが、私の慰め、と言いながら、大事なのは私が慰めを持つことではなくて、私をイエスが捕らえて、御自身のものとしてくださっていること、と言っています。私たちは自分が健康とか人より豊かだとか幸せだとか、色々なものを持っていることで安心しようとします。信仰でさえ、自分が神様を信じるなら神様が見捨てないでいてくださる、とまず自分が多くを握っていようとします。そうでないと不安だからです。でも同時に、今の時代は、多くのものを持てば持つほどますます不安になっている時代ではないでしょうか。現実自体が頼りなくて、全てのものが儚くて、信じられないような、漠然とした虚しさを覚えています。それで、せめて宗教に安らぎを見出そうとする気持ちもあるでしょう。確かなものに縋って安心したいのです。

 けれども、ここで言っている「慰め」はその考えを丸きりひっくり返します。自分が失うまいと握りしめているものを守ってくれる、そういう慰めではなく、その全ては私の手の中にはない。私自身さえ、私のものではなく、イエス・キリストのもの。もう既に、イエスが私を御自身のものとしてくださっている。それも、イエスは、

…御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 もう今晩ここに多くを付け加えることは出来ません。ここで言われている事を、これからも少しずつ味わっていきます。今、覚えたいのは、イエス・キリストが御自分の尊い血(十字架の死)をもってまで、私を御自身のものとして救い、罪を償い、解き放ってくださった、ということです。髪の毛を初めとして、私の体も生きる事も、全てが、虚しくはない、ということです。また、そうなろうと頑張るというのでもなく、すでに主イエスが、私を御自分のものとして尊く結びつけてくださった、という約束です。

ローマ八38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今ある者も、後に来るものも、力ある者も、

39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 まだ実感はないかもしれません。信じられない思いも強いかもしれません。それでも、そういう私たちの側の揺れ動きに関わらず、私たちはもうすでにイエスのものです。主イエスが十字架に死に、よみがえられた以上、私たちはすでに主のもの。この体も、地上の人生の全てにおいても、主イエスのものとして生き、食べ、眠り、笑い、汗を流し、歩んでいる。万事が益となり、主のために心から喜んで生きるようになる。遅かれ早かれすべてを失っても、なお失わない慰めを与えられている。それがキリスト者なのです。

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申命記十八章14~22節「聞き従うに値するみことば」

2016-03-13 17:50:09 | 申命記

2016/03/13 申命記十八章14~22節「聞き従うに値するみことば」

 

 お笑いのネタにされる、典型的なクリスチャンのイメージと言えば、何かと「神様が、イエス様が」と連発する、あるグループの姿があるでしょう。実際、「神様の御心」だと沢山言った方が安心できるという心理はあるのです。しかし聖書では「主の御名をみだりに唱えてはならない」と言っています。直ぐに神の名を持ち出すことは、むしろ戒められているのです。

 今日の申命記一八章後半では、預言者について教えられています。申命記は、エジプトの奴隷生活から救い出されたイスラエルの民が、四十年の放浪生活の末に、遂に約束の地に入ろうとしている時に語られたものです。これを語るモーセは、この説教が自分の最後の務めだと知っていました。文字通り遺言説教として、モーセはイスラエルの民に、新しく始まる生活のために大切なことを教えています。ここで彼が語るのは、主が立てられる、自分のような預言者が与えられるから、彼に聞き従いなさい、ということです。けれども、

20ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」

と厳しい言葉もあります。こういう言葉を読むと、聖書は人間社会というものを分かっているなぁ、現実的だなぁと感じます。モーセは申命記という説教を語っています。新しい生活の基本となる大事な原則が十分丁寧に語られます。ならば、それを教えておけば大丈夫、とは考えないのです。前回の一七章からこの一八章には、「さばきつかさ」「王」「祭司」、そして「預言者」が出て来ます。指導者が立てられるのです。それも一人ではなく、王、祭司、預言者の「三権分立」です。更に、立てられた王が暴君にならないよう、御言葉を学び続けなさい。祭司も、私腹を肥やしてはなりません。そして預言者もまた、神の名を騙(かた)り、偽りを預言するかも知れないと、間違う可能性が予告されているのですね。人の弱さを徹底して見据えています。

 今日の箇所に先立つのは、占い師やまじないに聞き従うことへの禁止です。占いや呪いは、将来のことを知ろうとか、不幸を避けたり幸せを手に入れたりする特別な方法を求めることですね。普通に生きるだけでは得られない、近道や秘訣への憧れです。物足りなさや不安の裏返しです。でも、主は私たちに十分に恵みを与え、将来にも良い備えをしておられるのです。人として出来ることを教えてくださっています。主は本来、16節で言われるように、ホレブの山で力強く現された通り、大きな火にも勝るお方です。その御臨在に真面(まとも)に触れたら死んでしまうような、恐ろしい御声をお持ちです。人間がそれに耐えられないから、神は預言者を間に立ててくださるのです。神は大いなる、恐るべきお方です。「それでは足りない、不安だ」と占いや呪いを持ち込むのは、拒まなければならない冒涜です[1]。けれども実際には、この後イスラエルの歴史には、偽預言者が沢山現れます。調子よいことを言って民を惹き付けたり、無責任な将来の希望を語ったりする偽預言者の方に、人気が集まる[2]。それが旧約の歴史です。

 そうした末に、神の独り子、イエス・キリストが「預言者」として来てくださいました。ペテロは「使徒の働き」三章で、今日の申命記十八18を引用し、イエス・キリストこそ「ひとりの預言者」だと言っています[3]。主イエスは、私たちを思い煩い(不安、心配)から救い出して、私たちに神の子どもとして生きるべき道を教えてくださいました。でも、そのイエスも、偽預言者への警告を強く仰いました[4]。彼らは力ある奇蹟を行ったり、病気を癒やしたり、悪霊を追い出す。でもその「実」、即ち、教えが父の御心と違っていないかを見分けなさいと仰ったのです[5]。今日の21節以下で、見分ける基準がこう言われています。

21あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、

22預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られた言葉ではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

 「そのことが起こらず」は「そのことがそうではなく」、つまり、「主の名によって語っても、主の名によってではない」つまり他の主の教えと矛盾している(例えば、偶像を拝むとか、占いもしていいとか、貧者や弱者を虐げても良いとか、悪者は殺して良いとか)教えである場合です。もう一つの「実現しないならば」は、そのまま、将来のことを予告したのに、それが実現しない場合です。その二つの基準から、その預言者が偽者かどうか分かるのです。この原則は、一見当たり前のようですが、非常に深く心に留めて、大切にするべき基準です。

 教会の歴史を見ても、異端や過激な牧師が現れたこともありますし、教会そのものが道を外して、狂信的になることもありました。最近でも、二千年が来る前には「世の終わりが近い」と煽り立てるグループがありましたし、私も「キリストの再臨まで恐らく二〇年ないでしょう」という説教を聴いたことがあります。エイズや震災は「神の裁きだ」と断言した人もいました。間違いが明らかになっても、屁理屈をつけて正当化したり、知らんぷりをして豹変したりするのです。占い師もカルト宗教も、予言が外れた場合の言い訳は考えているものです。ですから、その言葉に矛盾や不誠実があったら、それは神からではない、という基準は大事なのです。

 でも、私たち自身を振り返っても思い当たらないでしょうか。主の恵みは限りなく、同時に、私たちを罪や苦しみから救い出してくださる恵みです。それなのに「そんな罪は赦されない」とか、逆に「悔い改めなくても赦してくれる」とか「こんな悪が起きたのは、何か神を怒らせることをしたからに違いない」。そんな事を言ったり言われたりした経験がありませんか。主の御名を傘に着て、自分の意見を押し通したり、恐怖や罪悪感で人を操作しようとしたりすることに覚えがないでしょうか。そういう御名の乱用は、神を心から信頼させ、良い意味で恐れさせるどころか、かえって、神を誤解させ、嫌悪させ、侮らせます。そして、私たちの互いの関係も、遠ざけてしまいます。これは、インチキ占い師と変わらない、本当に不遜な誘惑です。

 イエスにはそんなごまかしもペテンもありません。イエスは私たちに、間違いなく実現する言葉、信じるに値する言葉を語られます。もう私たちは占いやハッタリに縋らなくてもよいのです。勿論、分からないことは沢山あります。でも、神は私を決して見捨てず、私たちを慰め、育ててくださいます。私たちを完全に知り、かつ愛すればこそ、困難を通して成長させ、逞しくかつ謙虚に歩む者、真実な神ご自身に似た者へと変えてくださるのです。その事を弁える時、私たちは神の名を無闇に振り回さなくてもよくなっていきます。自分の立場を守ろう、正当化しよう、間違いを認めないで優位を保とうとする不遜さや虚仮(こけ)威(おど)しからも解放されるのです。教会の間違いも正直に認めるし、自分の過ちも素直に謝るようになる。イエスの言葉は、私たちを深く慰めることで真実である事を証しします。なぜならイエスは真の預言者なのですから。

 

「真実な預言者である主よ。言葉の重みや信頼が失われているこの時代を憐れんでください。主イエスは、本当の預言者としてこの世に来てくださり、信じるに足る言葉となってくださいました。どうぞその愛と真実を現すよう、私たちの心と言葉を聖めてください。あなたの愛がもたらした赦しと希望を、喜びの将来を、お互いの尊さを、語り、現し、創らせてください」



[1] これが、「13あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない」ということの意味です。「全きもの(別訳:傷のないもの)」とは、人間として欠けのない完璧な信者となれ、ということではありません。私たちは間違いやすく王や祭司や預言者であっても誘惑に負けやすい、不完全な者です。しかし、主は完全であり、信頼すべきお方です。その完全さを疑って、貶めることは、禁じられているのです。

[2] Ⅰ列王二二章、エレミヤ書二七章、二八章など。

[3] ヨハネ五46「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」、使徒三22「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。23その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」

[4] しかし、皮肉なことに、真実を語った真の預言者たちが殺された。真実を語ったのに、偽預言など語らなかったのに、偽預言者として憎まれて殺されたのです。それは、真の預言者であるイエスも、弟子たちも同じでした。

[5] マタイ七15-23。ここでの「実」は、その働きの成功、ではありません。それは、彼らの思惑通り、完全に上手くいっているのですから。しかし、その教えと姿勢が、神から離れています。それが彼らを識別する「実」です。

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