2014/05/18 出エジプト記三章13-15「わたしは『わたしはある』という者である」
ウェストミンスター小教理問答4
今日から「人が神について何を信じなければならないか」という内容に入って行きます。
問4 神(かみ)とは、どんなかたですか。
答 神(かみ)は霊(れい)であられ、その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)です。
神は霊であられる、というのは、神様は見えるカラダをお持ちではない、ということです。神様が目には見えないから信じない、という人には、神は霊だから見えないのがアタリマエなんだよ、と答えたらいいのです。見えるもの全てをお造りになったのが神様です。やがて必ずこの見える世界は終わりを迎えます。そして、新しい永遠の世界が始まります。その時、私たちは、永遠のカラダを戴きます。そうしたら、私たちも新しい目で、神様を見ることになります。でも、今のこのカラダは弱すぎて、神様を見るだけの力がないのです。ですから、私たちは、神様を、今、目には見えないけれども、見える世界の全てをお造りになったお方として、恐れ、礼拝し、お従いしましょう。
そして、この見える世界は、神様の作品として、神様がどんなお方であるか、を映し出しています。特に、私たち人間は、世界を造られた神様が、その最後に、神様ご自身に似た者として造られた、「神のかたち」ですから、神様を映し出して生きるのですね。今日の答では、「存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)」とありますが、私たちが存在していること、他の動物よりも知恵や理性、そして力があることなどは、神様の形に作られている証拠なのです。また、「聖」ということでは、神様はレビ記19章2節でこう仰っています。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」。ペテロもこの言葉を第一の手紙1章15-16節で引用しています。これは言い換えると、本当に純粋な愛を持ちなさい、自分の損得とか、見返りとか、評判とかそんなことは全く気にしないで、惜しみなく生きることです。神様はそういうお方です。だから私たちを愛して下さるし、また、私たちから嫌われても文句言われても、気にせずに、私たちもまた自己中心を捨てて生きるようになるよう、一歩一歩導くことでよしとされるのですね。
義、善、真実、も同じようなことです。正しさ、善さ、そして真実であられる。でも、その後の言葉がすごいですね。
その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)
無限(限りがない、限界がない)。永遠(時間よりも大きなお方である)。不変(変わったり、止めたりは決してしない)。これが、この七つの言葉につくのです。つまり、その存在において無限・永遠・不変、その知恵において無限・永遠・不変、その力において無限・永遠・不変、その聖において無限・永遠・不変、その義において無限・永遠・不変、その善において無限・永遠・不変、その真実において無限・永遠・不変、ということです。私たちはどうでしょうか? 有限ですし、時間の中で生きていますし、変わってしまいますね。どれ一つとっても、神様とは違います。神様の栄光を現すとは言っても、私たちは造られた小さなものに過ぎません。ほんのちっぽけな鏡のようです。それだけでなく、自分たちに限界があるから、神様のことも小さく考えてしまいます。いくら神様でも、こんなことは分からないんではないか。神様もそろそろ飽きたり変わったり匙を投げたいんじゃないだろうか。神様も忙しくて、私のことは忘れてないだろうか。今起きているこれは、神様が善なるお方だったら、絶対に起きるはずがない。そんなふうに考えてしまいやすいのです。だからここで「無限、永遠、不変」と言い切っているのはとても大切なことです。
さて、今日の出エジプト記の箇所は、モーセが八〇歳の時、初めて、神様の声を聴いた時の箇所です。燃えやすい、大きくもない柴の木に炎が燃えていて、いつまでも燃え尽きない、不思議な光景を見ながら、モーセは主の語りかけを聞きました。そして、モーセは神様の名前を尋ねたのです。神様とはいろいろあるけれど、何という名前の神様かと聞かれたら、何と答えたらよいですか、と聞いたのです。そして、神様は言われました。
わたしは、『わたしはある』という者である。
そんなことを言える人間はいません。今はいるけれども、気がついたら生きていたのであって、いないときもありました。また、ずっとここにいたいと思っても、いつかは死ななければなりません。そして、自分の顔かたちや性格、人生を好きなように決めることも出来ません。でも神様は、永遠に存在しておられ、誰からも消されたり変えられたりすることはないのです。でも、その大きな神様はこうも仰いました。
…わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた、…あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
私たち人間とは全く違う大いなるこの神様は、モーセに近づいてくださいました。消えそうだけれど消えない、小さな柴の中の炎を通して語りかけられました。そして、モーセをお遣わしになり、イスラエルの民に、「わたしは、あなたがたの父祖の神となった神だ」と名乗られたのです。
神様は、私たちの言葉で表現しきれるお方ではないし、私たちの頭で理解し尽くせる程、スケールの小さな方でもありません。ここでも不十分ながらも精一杯こう言い表しているに過ぎません。でもその神が、私たちに深く深く関わって、私たちのことを知っておられ、私たちに最善をなされ、私たちを聖なる正しい者としようと語りかけ、導いていてくださいます。その最たる証しが、御子イエス様でした。人となって、私たちと同じようになり、十字架の死までも引き受けてくださった。そして、よみがえって、私たちに、ご自分を信じて従うよう招いてくださっています。
イエス様が下さる人生は、この無限・永遠・不変の神様に支えられながら、この神様の素晴らしさを繰り返して思い知らされる人生です。どんなことがあっても、変わらない真実な神様に立ち帰って、ますます神様を賛美するようになる、本当に素晴らしい人生です。
2014/05/18 ルカ十六19~31「死人が生き返っても」(#344)
「金持ちとラザロの譬え」として知られている箇所です。お金持ちと貧乏人がいて、死後、金持ちは苦しみ、貧乏人だったラザロは慰められている。大変分かりやすい図式です。勿論、金持ちは全員が来世では苦しみ、貧乏人は救われる、などと言うのではありません。イエス様がこの譬えで仰りたいのは、今まで話して来られたように、お金に惑わされてこの地上の財産が全てになってしまわぬよう、むしろ、お金の管理を通して、神様の前にある生き方を整えられなさい、ということでした。
この譬えに出て来る「金持ち」は、何か悪いことをしていた訳ではありません。ただ、豪華な服を楽しみ、贅沢をし、遊んでいただけです。でも、それだけで、その門前にいたラザロを助けようとかラザロの所に行こうともしなかった。そうして一生を終え、おそらくは大々的に葬られて、けれども、彼の行った先は、炎の中で苦しみ続ける場所だったのです。今までの財産もお金も何の役にも立たない。人も羨む人生だったと自分を慰めることも虚しくて出来ない。そんな人生をイエス様は描かれます。
そこに焦点があるのですから、細かい所は余り気にしなくていいのだと思います。本当に、死んだら地獄から天国が見えるのか、とか、アブラハムと会話が出来るのか、そういうことが言いたいのではないのです。ただ、私たちが誰しもこの地上でどう過ごすかが、永遠を決める、ということ。今の楽しみを自分のために追いかけるだけ、神様の御心は何かを考えないなら、それは本当に虚しく、神の怒りにしか値しない生き方になるのだ、ということ。そして、その選択は、死後の変更は効かない、ということ。そうした要点をチャンと踏まえるに留めておきましょう。
けれども、何よりもここで印象づけられるのは、やはり人間の心の頑なさ、ということではないでしょうか。27節以下、金持ちは言います。
「…『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者[旧約聖書]があります。その言うことを聞くべきです。
30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
死人の中からラザロが言付けを持って行ったとしても、聖書に耳を傾けようとしない人は決して自分の生き方を変えようとはしない。私たちは、奇蹟だとかショッキングな出来事を見させられたら、人生が変わる、と思っている節(ふし)があるでしょう。そうではないのです。聖書において、ハッキリと語られていることを信じようとしない人は、死人が生き返っても、聞き入れはしない、とアブラハムの口を借りて言われているのです。
その頑なさが現れているのは、何より、この金持ちの姿そのものでしょう。私はこっちの方がゾッとするのです。彼は、この苦しみの中でも、ラザロを顎(あご)で使おうとしています。水を一滴とか、兄弟の所にやって、と言うのは控えめそうで、実は、彼の支配欲の現れです。また、五人の兄弟のところへ行かせて、というのも兄弟想いの親切心で言っているのでしょうか。いいえ、自分だって誰かが死人の中から来てくれるとか、もっとインパクトのある伝え方で、こんな苦しい来世を教えられていたら、違う人生を送ったのにと、無茶苦茶な屁理屈で言い訳して、まだ責任逃れをしているだけではないでしょうか。
結局彼は「アブラハムやラザロの方に行きたい」とはひと言も口にしていませんね 。勿論、自分が間違っていた、とお詫びすることもありません。ひょっとして、ラザロが水を持って来てくれたら、すかさず捕まえて、苦しみに引き釣り込もうって腹だったんじゃないかと勘ぐりたくなる。苦しいと訴えるだけで、自分は被害者なんだと言わんばかり。過ちを認めもしないし、ラザロへの無慈悲さを「申し訳なかった」とも思いやれない。それこそ、死人の中から誰かが使いに来るどころか、自分自身が地獄の苦しみを味わってさえ、悪かったと言えない 。もはや、赦してほしいと願うことはなく、まだ人を振り回したり、非難したり、し続けているだけです。「神様に背いて生きるなら、死んでから今更救われたいと悔やんでももう遅い」のではありません。神様に背き続けることは救われないことを願うこと。そして、最後はそのように願った通りになるのです。光の方に絶対来たがらない。悔い改めるなんて真(ま)っ平(ぴら)。プライドや自己中心の塊となって、永遠に文句や自己弁護をし、他者やアブラハムにさえ楯突いて恥じることがない。自分の中にある罪の醜さ、人間の頑なさの行く末はこういうことかと気付かされて、ゾッとするのです 。
こんな私たちの頑なさを砕くために、主は私たちに御言葉を下さっています。それは、死者がよみがえったり、地獄を味わったりするよりも、もっと現実的で説得力のあるメッセージです。そして、その御言葉によって生きることは、どんなに煌(きら)びやかに着飾って、毎日贅沢(ぜいたく)に遊び暮らした人生よりも、遙かに幸せな、張り合いのある、輝いた人生です。むしろ、そうした自分の城を崩されてでも、御言葉に聴ける方が長い目で見て幸いです。
最初に申し上げたように、ここに出て来るラザロについて、あまり深読みしすぎると譬えそのものを読み誤ることになります。でも、イエス様が譬えで登場人物に名前をつけているのはここだけなのですね。ラザロとは、「神は助け」という意味の名前「エリエゼル」のギリシャ化したものです 。本当に彼にとっては、神以外の助けはありませんでした。犬が彼のおできを舐めに来た以外、誰も彼を助けず、葬式も出してもらえなかった 。
25…ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
と言われるような人生です。でも、その彼には慰めが用意されていました。御使いが彼を待っていました。神様は、ラザロを助け、永遠の憐れみを備えて、迎え入れて下さいました。ラザロという名前があるのに、ひと言も喋っていない、その彼をも、イエス様は見落とさず、忘れず、その悲しみを聞き、名前を覚えておられました 。それはここまで語られてきた、放蕩息子や不正な管理人、そして、16節や18節で触れられている人々にも、そして私たちにも通じることではないでしょうか 。放蕩して一文無しになりひもじい思いをするとか、使い込みがバレてクビになるとか、家庭が破綻するとか、そんな出来事があって無理矢理自分の生き方を変えざるを得ないことが起きるかも知れない。でもそうでなければ、死人が生き返っても、いや自分自身が死んでも、神の助けをいただくことは出来なかったでしょう。人生は永遠への予選です。お金とか贅沢がどんなに魅力的でも、人生を永遠にすることは出来ません。それを心得て、神様の尊い助けを求め、御言葉の豊かな世界に根差しましょう。自分さえ良ければいいと思う心は醜いです。その恥ずべき頑なな心から救い出されるためにも、御言葉に聴き、また他の人と関わらせていただくのです。
「助け主なる神様。頑なな私たちが自分の間違いを認めることは、どんなに強烈な体験によっても出来ません。ただ、主の十字架の贖いにより、ご聖霊が私たちの心を新しくしてくださるだけです。どうぞこれからも、私たちが御言葉に聞き続けて、虚しい物に囚われないよう強いてでも導き、自分だけのためでなく、共に生きる者へと変えてください」
文末脚注
1. これは、同じルカが後に記す、イエス様の隣で十字架につけられていた犯罪人の告白「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(二三42)とは、根本的に異なります。彼は「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と非を認め、それゆえに、救いを願うに値しないと思っています。しかし、今日の金持ちにはそうした反省は見当たりません。
2. この彼の自己中心ぶり、ラザロを迎え入れるアブラハムへの共感のなさは、放蕩息子の帰郷を喜ぶ父と共感出来なかった兄息子の姿とも重なります。しかし、その共感への招きという面よりも、共感の不可能性へと、強調点はシフトしています。
3. 彼はアブラハムを「父」と三度も呼んでいます(24、27、30節)。しかし、ただ血縁的にアブラハムが父だと呼ぶことの無意味さは、三8で指摘されています。アブラハムの信仰は、富にもまして大事なひとり子イサクをさえ、神に心からささげたことに表れていました。そういう意味でも、金銭を愛して生きたこの金持ち(および、ここで語りかけられているパリサイ人)は、アブラハムを「父」と呼ぶ資格がありません(彼ら自身が拒否・廃棄している、という意味で)。しかし、ラザロは、父アブラハムから、ひとり子イサクであるかのように、懐に迎え入れられ慰められているのです。そしてこれは、放蕩息子が父に迎え入れられていることと重なります(十五22以下、32節)。
4. 創世記十五2、出エジプト記十八4、Ⅰ歴代誌七8、エズラ八16などに「エリエゼル」という人名が散見されます。
5. 犬が来てラザロのおできをなめていた、という言葉は、「犬は行ったが金持ちや人はいかなかった」とも読めますし、「金持ちにも犬にも見下されていた」とも読めます。いずれにせよ、ラザロは人としての扱いさえなかった、ということです。
6. 逆に、ここで一番ベラベラとお喋りしている金持ちは「あの金持ち」と呼ばれるだけで、名前がありません。まさしく、ただの「金持ち」であり、死んでからも「あの金持ち」と呼ばれる以外に何もない人生を選んだのです。
7. 15章以来語られてきた教えが、ここでも同じモチーフを繰り返して強調されています。拝金主義(十五12-13、29、十六1、13、14、19)、ひもじさ(十五14-16、十六3、20-21)、呟き(十五2、28-30、十六24、27-28、30)など。
「金持ちとラザロの譬え」として知られている箇所です。お金持ちと貧乏人がいて、死後、金持ちは苦しみ、貧乏人だったラザロは慰められている。大変分かりやすい図式です。勿論、金持ちは全員が来世では苦しみ、貧乏人は救われる、などと言うのではありません。イエス様がこの譬えで仰りたいのは、今まで話して来られたように、お金に惑わされてこの地上の財産が全てになってしまわぬよう、むしろ、お金の管理を通して、神様の前にある生き方を整えられなさい、ということでした。
この譬えに出て来る「金持ち」は、何か悪いことをしていた訳ではありません。ただ、豪華な服を楽しみ、贅沢をし、遊んでいただけです。でも、それだけで、その門前にいたラザロを助けようとかラザロの所に行こうともしなかった。そうして一生を終え、おそらくは大々的に葬られて、けれども、彼の行った先は、炎の中で苦しみ続ける場所だったのです。今までの財産もお金も何の役にも立たない。人も羨む人生だったと自分を慰めることも虚しくて出来ない。そんな人生をイエス様は描かれます。
そこに焦点があるのですから、細かい所は余り気にしなくていいのだと思います。本当に、死んだら地獄から天国が見えるのか、とか、アブラハムと会話が出来るのか、そういうことが言いたいのではないのです。ただ、私たちが誰しもこの地上でどう過ごすかが、永遠を決める、ということ。今の楽しみを自分のために追いかけるだけ、神様の御心は何かを考えないなら、それは本当に虚しく、神の怒りにしか値しない生き方になるのだ、ということ。そして、その選択は、死後の変更は効かない、ということ。そうした要点をチャンと踏まえるに留めておきましょう。
けれども、何よりもここで印象づけられるのは、やはり人間の心の頑なさ、ということではないでしょうか。27節以下、金持ちは言います。
「…『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者[旧約聖書]があります。その言うことを聞くべきです。
30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
死人の中からラザロが言付けを持って行ったとしても、聖書に耳を傾けようとしない人は決して自分の生き方を変えようとはしない。私たちは、奇蹟だとかショッキングな出来事を見させられたら、人生が変わる、と思っている節(ふし)があるでしょう。そうではないのです。聖書において、ハッキリと語られていることを信じようとしない人は、死人が生き返っても、聞き入れはしない、とアブラハムの口を借りて言われているのです。
その頑なさが現れているのは、何より、この金持ちの姿そのものでしょう。私はこっちの方がゾッとするのです。彼は、この苦しみの中でも、ラザロを顎(あご)で使おうとしています。水を一滴とか、兄弟の所にやって、と言うのは控えめそうで、実は、彼の支配欲の現れです。また、五人の兄弟のところへ行かせて、というのも兄弟想いの親切心で言っているのでしょうか。いいえ、自分だって誰かが死人の中から来てくれるとか、もっとインパクトのある伝え方で、こんな苦しい来世を教えられていたら、違う人生を送ったのにと、無茶苦茶な屁理屈で言い訳して、まだ責任逃れをしているだけではないでしょうか。
結局彼は「アブラハムやラザロの方に行きたい」とはひと言も口にしていませんね 。勿論、自分が間違っていた、とお詫びすることもありません。ひょっとして、ラザロが水を持って来てくれたら、すかさず捕まえて、苦しみに引き釣り込もうって腹だったんじゃないかと勘ぐりたくなる。苦しいと訴えるだけで、自分は被害者なんだと言わんばかり。過ちを認めもしないし、ラザロへの無慈悲さを「申し訳なかった」とも思いやれない。それこそ、死人の中から誰かが使いに来るどころか、自分自身が地獄の苦しみを味わってさえ、悪かったと言えない 。もはや、赦してほしいと願うことはなく、まだ人を振り回したり、非難したり、し続けているだけです。「神様に背いて生きるなら、死んでから今更救われたいと悔やんでももう遅い」のではありません。神様に背き続けることは救われないことを願うこと。そして、最後はそのように願った通りになるのです。光の方に絶対来たがらない。悔い改めるなんて真(ま)っ平(ぴら)。プライドや自己中心の塊となって、永遠に文句や自己弁護をし、他者やアブラハムにさえ楯突いて恥じることがない。自分の中にある罪の醜さ、人間の頑なさの行く末はこういうことかと気付かされて、ゾッとするのです 。
こんな私たちの頑なさを砕くために、主は私たちに御言葉を下さっています。それは、死者がよみがえったり、地獄を味わったりするよりも、もっと現実的で説得力のあるメッセージです。そして、その御言葉によって生きることは、どんなに煌(きら)びやかに着飾って、毎日贅沢(ぜいたく)に遊び暮らした人生よりも、遙かに幸せな、張り合いのある、輝いた人生です。むしろ、そうした自分の城を崩されてでも、御言葉に聴ける方が長い目で見て幸いです。
最初に申し上げたように、ここに出て来るラザロについて、あまり深読みしすぎると譬えそのものを読み誤ることになります。でも、イエス様が譬えで登場人物に名前をつけているのはここだけなのですね。ラザロとは、「神は助け」という意味の名前「エリエゼル」のギリシャ化したものです 。本当に彼にとっては、神以外の助けはありませんでした。犬が彼のおできを舐めに来た以外、誰も彼を助けず、葬式も出してもらえなかった 。
25…ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
と言われるような人生です。でも、その彼には慰めが用意されていました。御使いが彼を待っていました。神様は、ラザロを助け、永遠の憐れみを備えて、迎え入れて下さいました。ラザロという名前があるのに、ひと言も喋っていない、その彼をも、イエス様は見落とさず、忘れず、その悲しみを聞き、名前を覚えておられました 。それはここまで語られてきた、放蕩息子や不正な管理人、そして、16節や18節で触れられている人々にも、そして私たちにも通じることではないでしょうか 。放蕩して一文無しになりひもじい思いをするとか、使い込みがバレてクビになるとか、家庭が破綻するとか、そんな出来事があって無理矢理自分の生き方を変えざるを得ないことが起きるかも知れない。でもそうでなければ、死人が生き返っても、いや自分自身が死んでも、神の助けをいただくことは出来なかったでしょう。人生は永遠への予選です。お金とか贅沢がどんなに魅力的でも、人生を永遠にすることは出来ません。それを心得て、神様の尊い助けを求め、御言葉の豊かな世界に根差しましょう。自分さえ良ければいいと思う心は醜いです。その恥ずべき頑なな心から救い出されるためにも、御言葉に聴き、また他の人と関わらせていただくのです。
「助け主なる神様。頑なな私たちが自分の間違いを認めることは、どんなに強烈な体験によっても出来ません。ただ、主の十字架の贖いにより、ご聖霊が私たちの心を新しくしてくださるだけです。どうぞこれからも、私たちが御言葉に聞き続けて、虚しい物に囚われないよう強いてでも導き、自分だけのためでなく、共に生きる者へと変えてください」
文末脚注
1. これは、同じルカが後に記す、イエス様の隣で十字架につけられていた犯罪人の告白「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(二三42)とは、根本的に異なります。彼は「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と非を認め、それゆえに、救いを願うに値しないと思っています。しかし、今日の金持ちにはそうした反省は見当たりません。
2. この彼の自己中心ぶり、ラザロを迎え入れるアブラハムへの共感のなさは、放蕩息子の帰郷を喜ぶ父と共感出来なかった兄息子の姿とも重なります。しかし、その共感への招きという面よりも、共感の不可能性へと、強調点はシフトしています。
3. 彼はアブラハムを「父」と三度も呼んでいます(24、27、30節)。しかし、ただ血縁的にアブラハムが父だと呼ぶことの無意味さは、三8で指摘されています。アブラハムの信仰は、富にもまして大事なひとり子イサクをさえ、神に心からささげたことに表れていました。そういう意味でも、金銭を愛して生きたこの金持ち(および、ここで語りかけられているパリサイ人)は、アブラハムを「父」と呼ぶ資格がありません(彼ら自身が拒否・廃棄している、という意味で)。しかし、ラザロは、父アブラハムから、ひとり子イサクであるかのように、懐に迎え入れられ慰められているのです。そしてこれは、放蕩息子が父に迎え入れられていることと重なります(十五22以下、32節)。
4. 創世記十五2、出エジプト記十八4、Ⅰ歴代誌七8、エズラ八16などに「エリエゼル」という人名が散見されます。
5. 犬が来てラザロのおできをなめていた、という言葉は、「犬は行ったが金持ちや人はいかなかった」とも読めますし、「金持ちにも犬にも見下されていた」とも読めます。いずれにせよ、ラザロは人としての扱いさえなかった、ということです。
6. 逆に、ここで一番ベラベラとお喋りしている金持ちは「あの金持ち」と呼ばれるだけで、名前がありません。まさしく、ただの「金持ち」であり、死んでからも「あの金持ち」と呼ばれる以外に何もない人生を選んだのです。
7. 15章以来語られてきた教えが、ここでも同じモチーフを繰り返して強調されています。拝金主義(十五12-13、29、十六1、13、14、19)、ひもじさ(十五14-16、十六3、20-21)、呟き(十五2、28-30、十六24、27-28、30)など。