聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問3 「聖書の二本柱」Ⅱテモテ三15~17

2014-05-11 16:08:48 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/05/11 Ⅱテモテ三15-17「聖書の二本柱」ウェストミンスター小教理問答3

 人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。どうすれば、神の栄光を現し神を喜んで生きることが出来るのか、その道を知るには、聖書に与えられた基準を学ばなければなりません。では、聖書には何が書かれているんだろうか。その答が、今日の第三の問です。聖書の教えをここでは二つにまとめています。

問3 聖書(せいしょ)は、おもに何(なに)を教(おし)えていますか。
答 聖書(せいしょ)がおもに教(おし)えている事(こと)は、人(ひと)が神(かみ)について何(なに)を信(しん)じなければならないか、また神(かみ)は人(ひと)にどんな義務(ぎむ)を求(もと)めておられるか、ということです。

 改めて、聖書に書かれているのは神様について、だと言います。けれども、聖書は、神様ご自身が私たちに下さった本です。誰かが神様について書いたと言うのではなく、神様がご自分のことで私たちに知らせたいこと、知るべき事を書き残して下さったのです。そういう意味でも、聖書は神について書いてあると言っても、他の本とは全く違う、ユニークな本です。神様の自己紹介であり、神様からのラブレター、などとも言われます。もう一つ、神様から与えられた「物語」と言ってもよいでしょう。天地創造から人間の堕落、洪水やバベルの塔、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデ、とイスラエルの歴史を読みながら、神様がどんな方かが分かってくるのです。何より、イエス・キリストにおいて、私たちは神様の栄光を見ます。神様が人間とどう関わって下さるのか、がノン・フィクションとして伝えられるのですね。

 実は、この第三問は、この後のウェストミンスター小教理問答全体の構造になっています。全部で一〇七問あるのがウェストミンスター小教理問答ですが、第一から第三問が導入。第四問から第三八問が、神について信じるべきことを述べていきます。その後、第三九問から最後の一〇七問までが、人の義務について述べていくのですね。そういう構造を話しています。

 そこで忘れてはならないのは、二つの別々の話をしているのではない、ということです。神様について知ることと、自分の義務。これは、実は結びついています。カルヴァンという人がこれをハッキリと言いました。神について知ることと自分について知ることは、一つのことなんだ。勿論、自分が神様だ、と言う意味ではありません。神様は世界を造られたお方であって、私たちはそのお方の小さな作品に過ぎません。でも、造り主なる神様を知らなければ、自分が造られた者であるということ自体が分かりません。神様が大いなるお方で、聖なるお方で、何でも知っておられて、何でも出来るお方だ、と分かるとき、私たちはその神様に造られて、目的をもって生かされていること、今もその神様が私たちに関わっていて下さって、これからも神様とともにあるのが自分なんだ、と分かって、私たちの生き方も変わるのですね。ですから、ここで言っているのは、神様について何を信じて、私たちが何をしなければならないか、という二つだけが聖書に書かれている、というのではなくて、結局、この世界や私たちの生活、人生の全部についての見方も教えられるし、聖書を読むことによって変わっていく、ということなのです。

 神様についてよく知らなかった人が、聖書を読んで、本当の神様ってこういう方なのか、とビックリしながら知って、その人自身が生まれ変わったように明るくなった、優しくなった、という話も沢山あります。もしも、聖書に、人間の義務だけが書いてあったとしたら、そうはならなかったでしょう。「愛し合いなさい。赦しなさい」とばっかり、いくら言われても、人間は変われません。それよりも、神様の愛を知る時に、私たちも人を愛することに踏み出せます。聖書の初めの「初めに神が天と地を創造した」という言葉で、人生の目的が分かった、という人もいます。物凄く悪いことをしてしまって、刑務所に入り、死刑になるのを待っていた人たちの中にも、聖書を読んで変わった人たちが沢山いるそうです。それまでは、自分がしたことは悪くないと思っていた人が、差し入れられた聖書を読んで、自分の罪に気付いたとか、自分など救われることは出来ないと思っていた死刑囚が聖書によって、イエス様を信じ、救われた喜びに溢れるようになった人もいます。浦河正三という人もその一人で、死刑になるまで多くの人を救いに導いたそうです。島秋人という人は沢山の短歌を詠む詩人となって、処刑されました。好地由太郎という人は、後に釈放されて、牧師になりました。そういう人たちが他にも沢山いるのです。イエス様に出会って変えられたり、恵みをいただいたりした話のことを「証し」ということがありますが、そこにはやはり聖書の言葉が多く出て来ます。聖書を通して、神様が私たちに語りかけて下さるのです。

 聖書を通して、神様が私たちに出会って下さいます。こうしなさい、ああしなさい、と良いことをいうだけではありません。何か励まされるとか、感心したくなるような言葉だけでもありません。そういう立派な言葉ではなくて、神様との出会いがあるから、私たちは聖書によって変えられていきます。私たちの人生も、神様の物語の一部であることに気付きます。そして、私たちが何となく神様を信じるのではなくて、どうすることが大切なのか、神様の御心なのか、聖書から教えられて、私たちの生き方も変えて戴くのです。

 毎日聖書を読みましょう。そして、聖書の世界の広がりやおもしろさを学んで行きましょう。そして、神様の大きさに気付きましょう。神様は、私たちが考えつかないくらい、大きな大きなお方です。人間は、つい神様を小さく考えて、自分の思い通りにしてもらおうと考えたがりますが、聖書を読むと、真の神様はそんなちっぽけなお方ではないことがよく分かります。でも、私たちとともにいて、私たちを導いて下さって、私たちを深く深く愛しておられます。この神様をまずよく知りましょう。

 そして、その上で、自分が何をしたら良いのか、何をすることが神様の御心で、大事なのか、教えられましょう。それは結局自分にとっても一番嬉しくて、いいことで、幸せなことです。今すぐ何をしなければいいか、が分からない時も、神様を信じて、祈りながら、期待しながら、待っていればいい。そういうことが分かる時もありますね。

 また、家族や兄弟や友達と、聖書を読んでの感想を話し合うことも素晴らしい恵みです。そうすると、一緒に神様が分かって、御言葉に従うことも励まし合っていけます。

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ルカ十六14~18「しかし、神はご存じです」(#334)

2014-05-11 16:07:25 | ルカ
2014/05/04 ルカ十六14~18「しかし、神はご存じです」(#334)

 前回イエス様は13節で、
あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
と言われました。富は、それを忠実に使って、永遠への準備をするためのものであって、決して富そのものを崇めたり、愛したりするものではない。でも、それを聞いていた、

 14…、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

 言い換えれば、パリサイ人たちは、神にも仕え、また富にも仕えることは出来ると考えていたのですね。自分たちは神に仕えている。そして、お金も大好き。それで何が悪いのだ、という思いがありました 。それに応えてイエス様が、更に突っ込んだお話しをされるのが、今日の箇所です。ここで鍵になるのは、15節の言葉でしょう。

 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。…

 パリサイ人たちが笑っていられたのは、彼らが見ていたのが人前でのことであって、心を見ておられる神様ではなかったからです。善行や義理を果たしている、律法を熱心に実行していると自負していましたけれど、それだけでした。でも、イエス様は仰います。

 神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。

 「憎まれ、きらわれます」というのは、使われることの少ない、とても強い嫌悪の言葉です 。いくら人間の間で褒めそやされても、それが神の前にも尊いとは限らず、むしろ、神の前には忌み嫌われるものであることが多いのです。パリサイ人たちは自分たちの繁栄を、自分の正しさの証拠だと自惚(うぬぼ)れていました。でも、そこに甘んじてしまうなら、お金も繁栄も人の評判も、神の前には唾棄(だき)すべきものでしかなくなります。その事を見失っているとしたら、結局は、神が見えていない、と言われるしかありませんね。

 16律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでもこれに入ろうとしています。

 バプテスマのヨハネが来た時、それまで「律法と預言者」(旧約聖書)の上に胡座(あぐら)をかいていたパリサイ人たちの立場はハッキリと酷評されました 。自分たちの間違いがバッサリと指摘されたのです。ヨハネは、旧約の読み方を、「神の国の福音」という切り口で明快にしました。律法を形ばかり行わなければならないのではないと分かって、多くの庶民、罪人までもが熱心に福音を求め始めました。その例は、前回見た「不正な管理人」です。彼は主人の金を使い込んでの贅沢が破綻したと気付いた時、将来のために今を生かす生き方に一八〇度転じました。また、十五章の「放蕩息子」も、遠い国で放蕩し、落ちぶれ果てていました。兄息子の基準で言えば、律法を守らず、父の身代を食い潰したのですから、帰る資格などありませんでした。しかし弟は、息子と呼ばれる資格はないけれど、雇い人の一人としてなら迎え入れて食べさせてはもらえるかもしれない、と思い立ちました。そこで、生きてきた方向を思い切って転じて、遠い国から帰って来る旅を踏み出しました。不正な管理人も放蕩息子も、誰も彼も、何とかして神の国に受け入れてもらおうと、自分の生き方を「無理にでも」変え、恥をも厭わずに、イエス様にお縋(すが)りするようになったのです。自分を正しいとなんて出来ない。心をご存じの神の前には到底立ち仰せない。だから謙って、神の国に何とかして入ろう。その熱心、飢え渇きは、自分を正しいとして、そうした人々を笑い、批判するパリサイ人が見習わなければならない生き方でした。

 とはいえ、律法や預言者が要らないのではありません。むしろ、その逆でした。

  17しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。

 ヨハネは律法を終わらせたのではなく、律法の真の意味を明らかにしました。言い換えると、律法は最初から、形式的に守れば良いのではなく、私たちの心をご覧になっている神の前に生きることを語っていたのですね。パリサイ人は、神と同じぐらい富を愛する強欲を握りしめたまま、形だけ律法を守っていればいい、と慢心していたのですが、根本的に間違っていたのです。そして、律法を守ると言いながら、目障(めざわ)りな「一画」、都合の悪い「一画」は適当に読み流していたのです。しかし、天地が滅びる方が、律法の一画が落ちるよりも簡単です。まして、天地よりも小さいパリサイ人が律法を骨抜きにしていたら、呆気(あっけ)なく滅びるだけでしょう。それが、次の「金持ちとラザロの話」となるのです 。

 ですが、その前の18節が、急に別の話になります。

  だれでも妻を離別して他の女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

 どうしてここで、急にこんな話題になるんでしょうか。物凄く唐突な気がします。ただ、実際に、律法を軽んじ、歪めて解釈する典型的な例は、彼らの結婚理解でした。当時のユダヤ教では、一般的に、離婚は男性の権利だと考えられていました。イエス様の弟子たちでさえ同じ言葉を聞いた時に、

  もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。

と反論したくらいなのですね。妻が食事を焦がしたとか、顔が気にくわなくても離婚していい、とまで言う律法学者さえいたのです。

 でも、それは律法が示す結婚観とは違います。むしろ神様は聖書の預言のあちこちで、民の罪を非難する時に、姦淫の罪を大きく取り上げておられます 。罪は、結婚を踏みにじる所に表れます。預言者たちは、神に対する罪を「姦淫」と呼びました。それぐらい、人間の結婚は神様との関係と結びついています。聖書の最初の創世記一章と二章では、神様が天地創造において、人間を男女としてお造りになったことが丁寧に強調されています。造り主なる神との関係が崩れる時、その創造の土台である男女の関係も崩れるのです 。

 今日の箇所から言えば、結婚の中で、その人の「心」が表れてくる、とも言えるでしょう。他人なら隠して胡麻化しておれたものが、バレてしまうのです。あるいは、もっと積極的に、家庭を支配し、相手を自分のエゴを振り回そうとすることもあるでしょう。相手に、自分の言いなりになってくれる「愛」を要求するのです。また、結婚で見えてきた自分の問題を認めて、自分が変わる事によって乗り越える事こそ結婚の祝福ですのに、ここにある、「妻を離別してほかの女と結婚する者」は、問題を相手のせいにして、相手を変えること、相手を追い出してしまう、身勝手な姿です。また、夫のいる女性を離別させて、自分の妻にするというのも、神が定めた結婚の大切さを破っているわけですね。

 神様との関係が表れてくる夫婦の間でこそ、人の心は現れます。エゴがむき出しになったり、支配したり、心は隠せません。逆に、アナニヤとサッピラのように、夫婦が結託して悪事を働くこともありますが、その場合も、彼らは自分たちの欲に心が奪われ、見栄っ張りに隠そうとした。そこに彼らの本心が現れたのでしたね 。それほど人間の心が頑ななために、律法は(頑なでない方の人を守るため)離婚を認めているのだと(逆説的ですが)イエス様は仰います 。だからといって離婚も自由、というのではないのです。むしろ、自分の心にも頑なさを深く認めて、謙って、立ち上がらせて戴く他ないのです 。

 夫婦関係を初めとして、あらゆる人間関係、また商売や生活の具体的な所に、私たちの心は現れてきます。ぶつかったり、あざ笑ったり、失敗したり、行き詰まったり、怒ったり、相手を変えたくなったり。そういう具体的な生活の現場で、私たちが自分を正しいとするのでなく、心をご存じの神の前にハッとさせられ、そういう心を砕かれて、神様を信じる心、何とかして神の国の約束に従おうとする熱心を持つようにとイエス様は仰います。

 キリスト教が「心の宗教」だ、というのは、心だけが大事で、生活や商売や家族のことと切り離した世界を扱うという意味ではありません。むしろ、そうした生活の細々とした全体の根っことなるのが「心」です。神様は、心と全生活をご存じです。そこまで踏み込むメッセージを語られたからこそ、パリサイ人たちはイエス様を嘲笑い、やがては憎み、十字架につけたのです。私たちの中にも、そういう抵抗があるのではないでしょうか。愛や心の平安を下さる神様は歓迎したいけれど、自分の生活まで指図されたくない。誇りとか、怒りとか、少しぐらいの我が儘とか、そういうのは見逃してよ、と言いたかったりします。でも、そんな心は、やがて私たちの生活を振り回し、家庭も人生も壊してしまいます。人が崇めるモノや人の声に心を奪われていたら、やがてそれは必ず滅びるのです。

 むしろ、主は、生活やプライベートな中でこそ、私たちが自分の心で何を崇めているかを気付かせてくださいます。見られたら恥ずかしくて居たたまれないほどの本心を、神はご存じであられると言われます。そこで自分を正しいとせず、御言葉に従うこと、どうすることが御心であるかを教えて下さるよう祈りましょう。イエス様は、私たちの魂を救うためだけでなく、私たちの心を新しくして、私たちの人生に神の国が現そうと願われて、十字架にかかり、よみがえって、贖いの業を果たして下さったのです。

「私たちの心を、底の底まで知っておられるあなた様が、なお私共を愛されて、語りかけて、導いていて下さいます。それぞれの生活で、家庭で、心が様々な形で表れる時、その心をご存じであるあなた様を見上げさせてください。謙って、希望に心を燃やされて、襟を正して歩み出させてください。私たちの生活・人生が、御国を現す聖地となりますよう」


文末脚注

1. 当時の社会では、裕福さは本人の敬虔に対する神の祝福だ、と言う考えがありました。参照、ルカ十八24-26。
2. マタイ24:15、マルコ13:14の「荒らす憎むべきもの」そのものです。
3. バプテスマのヨハネが来て、イスラエルの民に、神の国の核心を宣べ伝えたことは、三章7節以下を参照。それは、もっと厳しい基準でした。だれも自分を正しいなどと言っておられないものでした。今や、それを知って、誰もが無理にでもという熱心を見せているのに、パリサイ人たちは、いつの間にか「自分たちは大丈夫」と高をくくって笑っていたのです。
4. 「金持ちとラザロ」の話の主題は、「モーセと預言者に聞くべき」です(29、31節)。
5. マタイ十九2-12参照。
6. ここで離婚を積極的に権利として容認したパリサイ人に対して、イエス様が突きつけた言葉は、「わたしは離婚を憎む」(マラキ2:16)の御言葉と重なっているとも言えます。マラキ書の文脈でも突然であった。
7. アダムとエバが堕落した時、最初にしたことは、自分たちを隠し、罪の責任を擦り付けることでした。
8. 使徒五1-11参照。
9. 結婚において、人間の罪、内心はもっとも暴露されます。そこでの振る舞いに、人間の隠してきた本性もバレてしまうのです。そこで、相手を批判し、相手を取り替えることで解決を図ろうとすることがありますが。しかし、それ自体が、罪の上塗りとです。離婚に至らざるを得ない頑なさが人間にはあるとも聖書は知っています。しかし、それは離婚の意図を容認されたと考えるよりも、いよいよ主の前に心を探られるため、です。そうした謙りから、破綻してしまった結婚の終焉として、離婚も許され、その場合は将来の再婚も許されるでしょうが、再婚のために離婚する、では姦淫なのです。
10. 「福音は、モーセが人の「心がかたくななので」許した離婚を打ち消すほどに、かたくなな心を造り変えて「初め」の心に帰らせる力があります(マタイ一九・八)。主の赦しの福音こそ、神を恐れる正しい心を生みだす力です(詩篇一三〇・四)。あがないの福音こそ、律法の要求を全うする力を与えてくれます(ローマ八・四)。」榊原『聖書講解 ルカの福音書』、306頁。

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