聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問5 「ただひとりの神」出エジプト記二〇1-7

2014-05-24 21:10:00 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/05/25 「ただひとりの神」出エジプト記二〇章1-7節
ウェストミンスター小教理問答5

 先週は、神様とはどんな方ですか、という学びをしました。

 問4 神(かみ)とは、どんなかたですか。
 答 神(かみ)は霊(れい)であられ、その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)です。

 それに続いて、今日の箇所は、その神様は、ただおひとりですか、と問うています。

 問5 ひとりより多(おお)くの神々(かみがみ)がいますか。
 答 ただひとりしかおられません。生(い)きた、まことの神(かみ)です。

 神はただおひとりである。これは、聖書が教えている根本的な教理です。

  主こそ神であり、ほかに神はない。(Ⅰ列王八60)

  なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけです。(Ⅰコリント八5-6)

  わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ四四6)

 そして、今開いた、出エジプト記二〇章1節以下でも、

 2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
 3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

と言われています。このとき、神である主が、イスラエルの民を、奴隷とされていたエジプトの国から力強く導き出してくださったのです。その真の生ける神の力強い御業に与って、彼らは、神の民として歩み出した所でした。今この時は、シナイ山の周りに集まっていたのですが、山は煙って、雷と稲妻と光り続け、大きな角笛の音が鳴り響いていました。そうした光景を舞台とされて、神である主が語られた契約の言葉が、この二〇章です。そしてその最初に、主は、ご自身の救いのみわざを宣言された上で、

  あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

と仰ったのです。それを考えると、改めてこんな事を言われなくても良かったのではないでしょうか。他に神々はいない。神である主だけが禍(わざわい)をエジプトに下し、葦の海を分けたり、様々な奇蹟をなさったりして、今も山を震わせておられるのです。その神以外に、神はいないなんて、もう言われるまでもないことではないでしょうか。

 確かに彼らが出て来たエジプトには、神々と呼ばれる沢山の偶像がありました。太陽を神としたり、月も女神として崇めたりしていました。でも、そんなものは偶像で、何にも出来なかったのです。真の神は、エジプトの神々などものともしない、圧倒的な方でした。

 けれども、そこから救い出されたイスラエルの民もまた、この後すぐに、真の神様ならぬものを拝みだしてしまうのです。金の子牛を造ってお祭りをしだします。約束のカナンの地に入ってからは、それまでそこに住んでいた住民たちの宗教を取り入れて、礼拝をし始めてしまうのですね。何度も何度も、神様ならぬものを勝手に神として祭り上げてしまう。それが、今の私たち人間の姿なのだ、と思います。別の言い方をすると、真の神様を本当に大いなるお方として恐れ、この方だけを礼拝し、信頼するよりも、神様を小さく考え、信じ切れずに疑って、引き下ろしてしまうのです。だから偶像を造るのです。

 世界をお造りになったのは、この唯一真の神様だけです。私たちを生かして、守ってくださるのも、聖書を通して、本当に私たちに必要なことを教え、導いてくださるのも、この神様だけです。そして、私たちを救い、すべての罪を赦して、神の子としてくださるのも、このお方だけです。私たちを限りなくお恵みくださって、幸いを与えてくださるのもこの方以外にありません。けれども、私たちがその神様を信頼するよりも、お金を信頼しているとしたら、お金が神様になっていることになります。神様の言葉よりも、人が言うことや、人から笑われたり褒められたりすることの方が大事になっているとしたら、人を神にしているのです。占いとか迷信とか幽霊とかお祓い、魔除けみたいなことを気にしてしまうのも、神様以外のものを神として恐れていることになるでしょう。学校の成績や、仕事の成功と出世、ステキな恋愛や結婚や子どもが人生の中心や一番の幸せになっているとしたら、真の神よりもそちらを神にしていることになります。

 だから、神様は聖書の中で繰り返して、ご自分だけが神であることを教えられます。他に神はいないと仰います。いくら人間が、神や宗教を考え出そうとした所で、神を作り出したり、天国が増えたり、真理がいくつもあるわけではありません。真の神はただおひとりです。それが永遠の真理です。世界中の人が否定したり違うことを言ったりしても、ただひとり真の神様だけがおられる事実は変わりません。人が偽りの神様を礼拝して、拝んで、いいことがあったとしても、それは、いもしない偽物の神様がしてくれたのではなく、真の神様に感謝すべきことです。全ての人にいのちを与え、雨を降らせ、太陽を上らせているのは、世界をお造りになった神様です。そして、神様は私たちにいのちを下さるだけでなく、偽物の神様や、お金でも名誉でも喜びでも、神様ではないものから、私たちを自由にしてくださる方です。私たちを本当に幸せにすることが出来ないものに、心を奪われて、縋ってしまって、折角の人生を無駄にすることを悲しまれ、私たちがご自身だけを神として恐れるようにと、力強く人生に働きかけてくださるのです。

 イエス様は、真の神様です。永遠に生きておられて、私たちを今日も生かし、御言葉によって導き、慰め、語りかけ、どんなに私たちが神様を小さく考え、罪を犯し、失敗したとしても、それら全てを完全にご存じの上で、変わらず真実に、真剣に、私たちを守り、治め、育ててくださいます。こんな素晴らしい真の神様を、偶像やいつかは無くなるもの、決して私たちを守ってはくれないものと取り違えたりしないようにしましょう。大いなる神様を小さく考えて、自分が中心になってしまうのでなく、神様を中心として、神を神として、自分はこの神様に生かされて、神様のために生きることをいつも思い出しましょう。

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創世記四〇章「忘れてしまった」

2014-05-24 21:07:39 | 創世記
2014/05/25 創世記四〇章「忘れてしまった」(池戸キリスト教会講壇交換)(#508,290)

 創世記の最後四分の一は、このヨセフの生涯を辿る内容になっています。後に、エジプトの大臣になるヨセフは、兄たちの憎しみを買って奴隷として売り飛ばされ、侍従長の家で仕えていました。しかし、折角ご主人の信頼を得たのに、その妻のしつこい誘いを断った結果、無実の罪を着せられて、その家の監獄にぶち込まれていました 。けれども、そこでも主がヨセフとともにいてくださって、ヨセフは監獄の長の信任を得て、囚人たちの管理をするようになったのでした。今日の話の後、四一章1節には、

  それから二年の後、

とあります。ヨセフ30歳、ともあります 。そうすると、今日の5節の時点でヨセフは28歳ぐらい。奴隷として売られたのは17歳の話でしたから 、10年余り。故郷を離れて、言葉も文化も違うエジプトで奴隷として働かされた挙げ句、濡れ衣を着せられて監獄に入り、もう十年。でもヨセフはそこでも忠実に働き続けていました。

 ヨセフの話をご存じの方は、もうじきヨセフは監獄から出て、人生の大転換を迎えるのだ、と思って読むでしょう。また、献酌官長がヨセフの事をパロに話すのを忘れた、という23節に、じれったいような、やりきれないような思いを持ちたくなります。けれども、ヨセフにはそんな未来が待っているとは分かりませんでした。まだまだ先なのか、どんな展開があるのか、まったく分かりません。14節を見る限り、まずはこの家から出られたら、という願いが精一杯だったのでしょう。10年、主がともにいてくださって、監獄で、任された仕事をしてきました。そして、今ここに新しく二人の廷臣たちが拘留されてきて、ヨセフが世話をすることになった、それだけだったのではないでしょうか。ヨセフが彼らのことを気に掛けていた心遣いは、6節7節から窺えます。

  6朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。
  7それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と言った。

 囚人なんですから、苛ついたり不機嫌になったりなんて珍しくはなかったでしょう。苛ついて、ふて腐れてる方が普通だったはずです。でも、ヨセフのこの言葉は、彼が普段から囚人仲間の表情や心境を気遣い、少しでも明るく過ごせるようにと気を配っていたことを伺わせます 。それにはヨセフ自身が、先の見えない監獄生活でも、苛(いら)つかず、表情や心を曇らせずに過ごしていたはずです。そうしたヨセフの無心の積み重ねが、今ここで二人の廷臣からの信頼になり、夢の解き明かしに繋がっていくのでした。

 勿論、そのヨセフの思い自体、ここまで主がヨセフとともにおられて、支えてくださった思いであり、主によって鍛えられて、社会人として揉(も)まれて、成長してきた証しです。夢の解き明かしの最後に自分のことを話してくれるよう頼む時も、

 15実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。

と言うに留めています。兄たちに売られて、とか、ここの侍従長の奥様が、などと複雑な事情を洗いざらいぶちまけたら、かえって警戒されて、話が進まなくなることを考えたのでしょう。余計なことは言わず、無難な表現にした所に、ヨセフの機転が窺えます。17歳の時、兄たちの前で、恨みを買うのは目に見えている言い方で、自分の見た夢をベラベラと喋ったヨセフは、世間の裏を歩いて、賢明さを身につけていました。

 ですから、もう一人の廷臣、調理官長が自分の夢を話した時、その残酷な解き明かしをも率直に告げています。媚(こ)びたり、顔色をうかがったりせず、ストレートです。パロに罪を犯した結果が簡単に恩赦になるものではありません。まして、神がその夢を調理官長に見させられた以上は、率直にその意味を告げなければならない、と心得ていたのでしょう。そして、実際、三日目に、献酌官長はヨセフが解き明かした通りに復職してパロの手に酌を献げ、調理官長もヨセフが解き明かした通りに木に吊されたのでした。

  23ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

 この最後の言葉は、思い出さず、忘れてしまった、と諄(くど)く強調しています。いかにも意外、という風に印象づけます。献酌官長としては、パロの恩赦を、「実は夢で見て、ヘブル人の若者が解き明かしてくれた」などと言おうものなら逆鱗(げきりん)に触れかねない、と言い出しかねたのかも知れません。でも、確かに二年後、パロは自分が夢を見たからこそ、ヨセフの話に耳を貸せるのです。だとすると、この23節が「思い出さず忘れてしまった」と繰り返すのは、献酌官長を責める以上に、そこにも神が働いておられたと言うことです。献酌官長が思い出さないでくれて良かった。忘れてくれたこともまた、主の摂理だった。その時は分からなくても、御計画の中にあった。そう言いたいのだと思います 。

 人は忘れたり、罪を犯したり、薄情だったりします。糠喜びしてガッカリすることは尽きません。でもそれは、主までも私たちを忘れてしまわれた、という証拠ではありません。人が忘れても、主は私たちを覚えておられる。人は思い出さない、いや思い出したとしても余計な先回りをして却って足を引っ張ることだってある。でも、主は私たちを覚えていてくださり、私たちの最善をなしておられる 。遠回りのようでも、忘れたように思えても、実はもっと大きな最善を用意しておられる、との約束を信じさせられます。

 いいえ、主は私たちを覚えておられるだけではなく、人の夢にまで御心をお示しになるほど私たちの思いの奥深く、深層心理にまで関わられるお方で す 。ただ私たちの名誉挽回やドラマティックな人生の筋書きを用意される、なんてことではなく、私たちを深く深く取り扱われ、十年、二十年、一生を掛けて、私たちを鍛えられるお方です。甘えた坊ちゃんだったヨセフが無実を確信しながらも牢獄で、よい顔色を保ちながら仕え、他者を世話し、気遣って、でも決してご機嫌をうかがって真理を曲げることはせず、誠実に、賢明に、そして神に栄光を帰しながら語っている姿に、自分を重ねたいと思うのです。

 神に罪を犯していた私たちは、いつか必ず神の前に呼び出されて木に吊(つる)されるしかなかった者でした。でも私の代わりに、主イエスはご自身が十字架に吊(つる)されてくださいました。その尊い尊い慈しみによって、主は私たちの全生涯に、心の底にまで関わり、私たちを取り扱い、厳しいようでも最善の人生を過ごさせ、人と関わらせておられます。その意味が今は見えなくても、これから先、いつどうなるかが分からず、待たされても忘れられても、置かれたその場で、目の前の人に誠実に関わりたい。自分や他人の足りなさも主の御手の中にあることに平安を戴いて、よい顔色をいただいて歩む者でありたい、と願います。

「私たちを決して忘れたまわぬ主よ。あなた様の奇しい御計画の中、この人生を与えられています。ヨセフに託した約束を自分のものとさせていただき、私共の心の奥深くまでも取り扱われる主の御声に聞かせて戴きたく願います。失望や挫折を通しても、恵みを施してくださるあなた様を一層見上げて、待ち望み、心も顔も輝かせていただけますように」?


文末脚注

1. 4節「侍従長」とは、三七36で「パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った」とあったとおり、ポティファルのことです。
2. 創世記四一46、参照。
3. 創世記三七2、参照。
4. F・B・マイヤー、小畑進『きょうの力』(いのちのことば社、32ページ)より。
5. この時忘れていたならなおさら、二年後にはもうサッパリ忘れている可能性だってあったのに、二年後に思い出したことが奇蹟です!
6. 14節のヨセフの言葉「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください」は、新改訳欄外注にもあるように、ルカ二三42にある、主イエスの隣で十字架にかけられていた強盗の一人の台詞とかぶります。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。小畑進『創世記講録』(いのちのことば社、2003年)706ページ参照。
7. 勿論、今は、夢による啓示ではなく、聖書が私たちに与えられた啓示です。夢を神様からのメッセージかもしれない、と深読みする必要はありません。しかし、昔も今も、夢が人間の心の奥深く、無意識のレベルにまで関わっていることは変わらないのです。しかも現在の心理学では、夢を思い出すこと自体が難しく、そこにもまた心理的な(無意識の)操作が入って、正確に思い出す事自体まれであることが分かっています。

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