聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問6 「三位一体の神」Ⅱコリント十三11~13

2014-05-31 21:49:58 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/06/01 「三位一体の神」Ⅱコリント十三章11~13節
ウェストミンスター小教理問答6

 先週は、神様はただおひとりだけだ、という事をお話ししました。

 問5 ひとりより多(おお)くの神々(かみがみ)がいますか。
 答 ただひとりしかおられません。生(い)きた、まことの神(かみ)です。

 それに続く、今日の問6は、その神様が、父・子・聖霊、という三つのお方でもあられる、ということを教えてくれます。

 問6 神性の内には、いくつの位格がありますか。
 答 神性の内には、三つの位格、すなわち、父と子と聖霊があります。そしてこれら三つの位格は、実体において同一、力と栄光において同等の、ひとりの神です。

 これを、「三位一体」と言います。でも、これは人間の理解を超えた事なので、全部分かるのは無理な話なので、大事なことだけを覚えることにしましょう。

 神のひとり子イエス様は、父なる神様とは別のお方です。でも、イエス様もまた、神と呼ばれています。

 「神よ。あなたの王座は世々限りなく(詩篇四五6)」「力ある神(イザヤ九6)」
 「ことばは神であった。(ヨハネ一1)」
 「私の主。私の神(同二〇28)」

 そして、神だけの属性である永遠もイエス様に帰されますし、

 すべてのものは、この方によって造られた。(ヨハネ一3)

とも言われています。そして、神様以外の者が受けることは許されない、礼拝をも捧げられたのです。ですから、イエス様もまた、神様だと聖書はハッキリ教えています。

 同じように、聖霊もまた、神と呼ばれます。そして、

 御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる(Ⅰコリント二10)

と言われるように神の属性をお持ちです。そして、聖霊に対する冒涜は許されないとイエス様が仰ったのも、聖霊が神様でなければ考えられません。ですから、聖霊もまた神であられて、「聖霊様」とか「御聖霊」、せめて「聖霊なる神様」とお呼びすべき方なのです。
 このように、父なる神様は言うまでもないとして、子なるイエス様も神、聖霊様も神、でもそれがお互いに変身するとか入れ替わるとかでもない。また、段階があるわけでもない。だけれども、神はおひとり。この不思議な聖書の教えを考えていく時、教会は何百年も掛けて考えながら、行き着いたところが、「三位一体」という言葉です。つまり、神は唯一であり、かつ、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三者がおられて、それはそれぞれに等しく、また完全に神であられる。そのように表現するしかないのだ、という結論に至ったわけです。

 これは難しく考えても分からないのですが、でも、神様は、父と子と聖霊との交わりを永遠に持っておられる、ということは、胸が躍るような真理でもあるのです。

 神は愛です。(Ⅰヨハネ四16)

と聖書は言います。永遠の神様は永遠に愛です。世界や私たち人間をお造りになる前から愛です。中には、愛なる神様は、愛する相手が欲しくて人間をお造りになったのだ、と考える人もいますが、それは違います。それなら、神様は世界をお造りになる前は不完全であったことになってしまいます。そんな「寂しがり屋の神」は神ではありません。では、世界をお造りになる前から、神が愛であったというなら、誰を愛しておられたのでしょうか。愛は、違う人格を愛することです。ですから、それは、神が三位一体であられて、父と子と御聖霊とが、互いに愛し合われていた、愛において一つであられた、そこに神の本質があられた、と考えて初めて、神は愛です、という言葉が意味をなすのですね。神は永遠に愛し合い、喜び合っておられました。そして、世界をお造りになるにも、その互いの愛、喜びが溢れて、その聖なる愛を現す作品としてお造りになりました。そこにもまた、父なる神が計画を立てて主導し、子なるイエス様がその言葉によって創造を実行なさり、聖霊なる神様が被造物に届かれた、という役割分担があったと聖書から分かります。そういう、神様の三位一体の交わり、協力によって、世界は生みだされたのです。

 愛なる神様は、私たち人間を、そのような栄光を現す者としてお造りになりました。私たちが、神様を愛し、互いに愛し合いなさい、と言われているのは、神様ご自身が三位一体の愛で結ばれているお方であって、その愛の栄光を現すために、私たちが造られているからです。先ほど読んだ、Ⅱコリント十三章でも、こう言われていました。

 11…平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
 12聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。…

 平和、口づけ、互いの挨拶、他にも沢山の言葉で、私たちが愛し合い、助け合い、交わりを育てるようにと聖書は勧めています。そして、それに続いて、

 13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

という、大切な祝福が告げられます。

 仲良くしたくても、なかなかそうは出来ないこともあります。神様から離れてしまった私たちには罪があって、自己中心ですから、愛から遠く離れています。自分さえよければいいとか、仲良く出来る友達とだけ過ごしていれば良いとか思ってしまいます。そういう勝手な私たちのために、神様は救いの御計画を立てて下さいました。イエス様がそれに従ってこの世に来られ、十字架に死んで、よみがえってくださいました。その救いの御業を聖霊が私たちに届けて下さいました。その救いは、私たちの罪が赦されるだけでなく、私たちが本来の神様からの使命、互いに愛し合う者として生きるようにしてくださる救いです。本当にお互いを大事にして、違いも受け入れて行く事は、とても難しいこと、無理なことです。でも、三位一体の神様は、私たちをそのような愛に生きることを教え、一歩一歩教えて下さるのです。三位一体の神様は、永遠に愛し合っておられて、その素晴らしさを現すために、私たちを作って下さったのです。何と素晴らしいことでしょうか!

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申命記一章19~33節「あなたがたに先立って行かれる神」

2014-05-31 21:43:22 | 申命記
2014/06/01 申命記一章19~33節「あなたがたに先立って行かれる神」 (#385)

 モーセの遺言説教である、申命記の一章を、続けて聞きました。奴隷として過ごしていたエジプトを、神様の力強い奇蹟によって脱出させて戴いた後、シナイ山で契約の言葉を与えられました。その中身を、モーセは申命記の五章から、もう一度なぞっていくのですが、今はそれよりも先に、シナイ山を出発してからのことを思い出させています。カナンの地の手前、カデシュ・バルネアまで来た時でした。20節21節で、モーセは、主が約束され、もう渡してくださったこの地を、上っていって占領するよう命じます。

 21…恐れてはならない。おののいてはならない。

と、励まします。けれども、民は、その前にスパイを送ろうと持ちかけます。これはこれで妙案でした。モーセもこれは良いと思って、十二部族から一人ずつの代表を選ばせて、カナンの地に送り込みます。そして、彼らは果物を担(かつ)いで、帰って来て言うのです。

 25…「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です」

 ここまでは良かったのです。ナゼか、ここからオカシくなります。

 26しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。

 その土地はいいんだが、そこにいる敵が悪い、と並べ立てていきます。それも、言うに事欠いて、言い出しで何を口走っているのでしょうか。

 27…「主は私たちを憎んでおられるので、…」

 そこまで言うか、と唖然とします。モーセもそうだったのでしょうか。言い返します。

 29…「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。
 30あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。

 主はエジプトで、十の災いを下されて、葦の海では海の中に道を造られて、人が到底及ばない御力をイスラエルのために振るわれることを示して下さいました。また、

 31また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。

 その後の荒野での歩みでも、水や食糧を下さって、敵からも守ってくださって、ここまで導いてくださいました。それは、実に、親心に満ちたものでした。なのに、です。

 32このようなことによっても、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。
 33主は、あなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。

 今この時も、夜は火の柱、昼は雲の柱が民の先頭に立って、主が先立って行かれることをまざまざと示していました。そして、目の前に良い地を見ていたのです。なのに、この地を与えると約束して、ここまで導いてくださった主に祈ることもせず、あろうことか、

 主は私たちを憎んでおられる

と言い出している始末です。

 けれども、ここにこそ、モーセがこのエピソードを最初に語っている理由があるのではないでしょうか。シナイ山での契約の言葉こそが本題なのに、それを五章から思い出させるのが、申命記の本論なのですが、今はそれを後回しにして、わざわざシナイ山の出来事の後から始めるのです。いくら主の言葉、御心を教えられても、恵みを体験して素晴らしい御業を目にしてきても、それが信仰を裏付けるのではありませんでした。これほどまでの経験の真っ最中にありながら、民はまだあーだこーだと言って恥じません。足りないのは主の御業でもその数でもそれまでの年数でもなくて、ただ、受け手の人間の問題です。では何が問題なのでしょう。モーセはここで、

 30あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主…
 33主は、…道中あなたがたの先に立って行かれ…。

と繰り返しています 。そして、それゆえに、私たちもまた、恐れたりおののいたりしない。勇気を出して、主の御心に従って、困難に見えるけれども、なさねばならないことに、踏み出していく。それが、この時のイスラエルの民に欠けていたことだったのです。

 主はいつでも民の先に立っておられます。後ろから大声で応援しているだけとか、「勇気を出さない失敗するぞ」とイライラされるのでもありません。私たちの歩みを先立って、力強く切り開いてくださる。一日一日、宿営する場所を探し、やがては約束の地に入れてくださるのです。そして、それは私たちもまた、他のものを恐れたりおののいたり、あれこれと否定的な理由を並べたりするのを止めて、勇敢に歩み出して、戦いに踏み出すよう、成長させる告白なのですね。主が先立ってくださるから、私たちは任せて、何もしなくていいんだ、ではない。主は、私たちが恐れや怠惰から解放されて、主の御心に従うことを願っておられます。それもまた、人が愛するわが子に当然教えるような励ましです。

 主が私たちの先に立って進んでくださっている。だから、私たちも、何も恐れたりせず、踏み出すよう招かれている。このことが踏まえられていなければ、いくら沢山の奇蹟を体験してきても、また、目の前に豊かに広がる恵みを見ていても、今ここで御言葉に従うことは「別問題」になってしまいます。御言葉の素晴らしい約束を褒めたり感心しながらも、そこに立ちはだかる存在があれば、そちらの方が強く大きく見えてしまいます。主が先立ってくださるのだから大丈夫、というどころか、難しいのに恐れずに立ち上がれだなんて言われる主は、私たちを憎んでおられるに違いない、とまで思ってしまうのです。

 勇気というもう一つの武器を、自分には重すぎる荷物を持て、と言われているのではありません。恐れや不安、疑いや孤独といった重荷を主のもとにまず下ろさせていただくのです。主の偉大さ、力強さ、親としての慈愛。私たちに対する測り知れない御計画と栄光。この真理を知って、それ以外の何ものも恐れるに足らず、と気付くのです。

 闇雲な無茶をせよというのではありません。私たちがそれぞれの所で導かれている歩みにおいて、その時々に必要なこと、家族を愛するとか人間関係で悩まされるとか、デボーションを続けるとか礼拝に行く。そういう主の招きに、私たちが逃げ腰にならず、勇気をいただいて小さな一歩を踏み出すかどうか。実はそれが私たちの人生を大きく決定づけるのです。私たちのために十字架にかかりよみがえられた主が、今も私たちの先に立っておられるとの信仰を、いつも励まされたい。喜んで一歩を踏み出す者でありたいと願います。

「臆病の霊ではなく力と愛と慎みとの霊を下さった主よ 。主イエス・キリストが私共を、あなた様を信じない罪を赦してくださるだけでなく、希望と大胆なほどの勇気をもって、御言葉に生きる者としてくださいますように。お約束通りに導いて、私共を新しくしてくださると、信じて、一歩を踏み出すこと。それぞれの日常においてそうあらせてください」


文末脚注

1 このフレーズは、 先に進まれる 先に進まれる 一章 30 、33 節だけでなく 、九 章3節、三一 章3節、8節でも繰り返され る、申命記のテーマでもあります。 る、申命記のテーマでもあります。
2 Ⅱテモ一 8

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