聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ27章33-56節「見捨てられた救い主」受難日礼拝説教

2017-04-16 16:01:30 | 説教

2017/4/14 マタイ27章33-56節「見捨てられた救い主」受難日礼拝説教

 イエスが十字架に死なれたこと、そして、三日目によみがえられたことは、キリスト教会にとっての最も大切な信仰告白です。Ⅰコリント15章3節以下にこう書かれています。

Ⅰコリント十五3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 4また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

 5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 この「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと」、これが最も大切なことであり、福音(良い知らせ)です。そして、それこそが聖書の示しているメッセージだ、と言われています。

 キリスト者でさえ、聖書に何が書いてあるのか、つい誤解しがちです。敵を愛しなさい、右の頬をぶたれたら左の頬を差し出しなさい、そんな高尚な道徳が書かれているように思いがちです。聖書を実際に読んでも、そこにある失敗や人間ドラマを読んで、教訓を引き出そうとして終わることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、三日目によみがえられ、弟子たちに現れたという福音を中心に書かれています。そして、私たちはそれを信じています。でも「信じれば救われる」に勝って、信じる相手の神が、私たちの罪のためにご自分をお与えになった方、本当にいのちを捨てられて、三日目によみがえり、弟子達に現れた、そういう驚くべきお方である事に驚きたいのです。

 これは本当に驚くべきことです。余りに意外すぎて、誰も理解できませんでした。今読みましたマタイ27章の記事でも、イエスは十字架につけられた後、たったひと言

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と大声で叫ばれたのと、最後の最後にもう一度大声でお叫びになった以外は何もなさいません。ただ十字架の上で苦しまれて、死んだだけです。そういう全く無力な死に方をなさったのです。余りに弱々しくて、惨めであるため、周りにいる人々は、イエスを嘲笑い続けたのですね。そうです。むしろ、ここでは道行く人々や祭司長や律法学者、長老たち、両脇の強盗たちがイエスを罵り嘲る姿の方が、詳しく長々と記されています。

「もし神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」

 そう言って囃し立てて馬鹿にする人の姿のことしか書いていません。それぐらい、十字架に苦しんでいるイエスは、惨めでした。そこには神々しさとか、英雄らしさなどは一切ありませんでした。感動するような犠牲的な愛も感じられませんでした。イエスが叫ばれた、ここで記録されている唯一のお言葉、

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

でさえ、

47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。…

49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。

と見当違いな誤解をして、無神経な言葉を吐くだけでした。そういう人々の無神経さ、鈍感さ、無理解、そして冷たく嘲笑い、罵り、中傷することをマタイは記録しています。しかしその向こうに見えてくるのは、そのように誤解され、嘲られながら、黙ってご自分をそのままに差し出されたイエスのお姿です。イエスは、十字架という残酷な痛みに、私たちの想像を絶する苦しみを味わって何時間も過ごされました。手足を釘で打たれたまま、裸で日差しに晒されて、死ぬまで放って置かれるのです。多くの人は気が狂い、この時も隣の強盗も自分の反省は棚に上げてイエスを罵っていたのに、イエスは違いました。反論もせず怒ったりお説教したりもなさいませんでした。

「もし神の子なら自分を救え。十字架から降りてこい」

と罵倒されても、イエスは言い換えされませんでした。私なら「お前達の救いのために、死んでやるんだぞ」と言い返したでしょう。イエスはそんな反論を一切されず、ご自分の正しさを証明しようとされたりもせずに、十字架の苦しみも、人々からの罵声も、神から捨てられるという想像できない苦しみにも、最後まで留まって、死なれたのです。

 この冬に、「沈黙」という映画が日本でも上映されました。切支丹ご禁制の時代を舞台にした、とても重い映画です。そこでも拷問や苦しみが扱われていました。そこでのシチュエーションに、踏み絵を踏んで信仰を捨てるか、自分や誰かの命を犠牲にするか、という選択が何度もありました。主人公の司祭はそこで苦しむのですね。神を裏切るような真似はしたくないが、信徒を見殺しにするのも苦しすぎる。簡単な答は言えませんが、その事をイエスの状況と重ねてハッとさせられました。

 イエスは、ここで人間の命を選ばれました。ご自分が誤解され、神を冒涜している、偽メシヤだ、嘘つきだと笑われて、十字架に苦しめられても、その濡れ衣を晴らそうとは思われませんでした。十字架にかけられたままでも、せめて自分が神の御心を行っていることは分かって欲しいとも弁解されませんでした。自分を捨て、自分が神に対する最大の罪を犯したという汚名をもすすごうとされず、ご自分をお与えになったのです。それも、その苦しみを与える相手、ご自分を嘲笑い、否定する人々の罪が赦されるために、でした。これは、真面目な人なら全く思いつきもしないような行動です。しかもそれこそが、聖書が証ししているキリストの行動でした。

 イエスはこれをずっと予告しておられました。一番弟子のペテロはイエスを愛すればこそ、そんな滅多なことは言われるもんではありませんと窘めた事がありました。しかしイエスは、ペテロを

「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

と仰り、

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

と言われたのです[1]。人の道は、楽や名誉や賞賛を求めます。しかし、神の道は、自分を捨てる道、自分を与える道です。それは、イエスの死と復活において最大に表されました。聖書がキリストの死と復活を示している、というのは、ただイエスが死んで復活する出来事を予め記していた、というだけのことではありません。神御自身が、本当に愛のお方であり、ご自分を与えるお方であり、そういうお方として私たちに現れてくださった、ということです。

 旧約聖書にはこのような言葉もありました。

イザヤ五三11彼[キリスト]は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 イエスは本当に激しい苦しみを受けられました。それは、イエスが神の子であるにも関わらず、例外的に「一度だけなら我慢しよう」というような自己犠牲ではありませんでした。キリストも神も、そういうお方なのです。私たちの誤解や非難、どうしようもない罪に顔を背けず、苦しみ、命を与えることを選び、満足されます。その深い人間理解をもって私たちの罪を赦して義としてくださいます。私たちの咎を、嫌がることなく担ってくださるのです。そうやって、私たちが神から離れた生き方から、この神を喜び、神に従う生き方へと立ち戻らせてくださるのです。

 ここに私たちの救いがあります。キリストが私たちのために御自身を与えて死に、よみがえって、現れてくださった。人間の考える「宗教」や「神」の理解の枠には到底収まらない神です。正しいことをせよ、と命じるよりも、聖書の物語は神御自身がどんな方かを示します。それは、私たちの罪も問題も深くご承知の上で、ご自分が傷つき、その顔に泥を塗られることも厭わず、私たちの所に来て、正しい生き方へと導いてくださる神です。このイエスを十分私たち自身が味わい、驚き、これほど深い救いに与っていることを覚えましょう。苦しみや孤独や罪の重荷も、誤解も過ちもすべて知って、受け止めてくださるイエスを仰ぎましょう。

「主よ。受難日に思う十字架の苦しみも、私たちに耐えられるのはほんの僅かな断片に過ぎません。それでもあなたは、御自身の犠牲の重さより、私どもに対する愛と喜びこそ知らせたいお方であることを感謝します。主の愛の大きさをなお深く思い巡らし、一切の恐れや汚れから解放され、恵みに感謝するとともに、その主に似た心で生きる幸いへまでお導きください」



[1] マタイ十六21-28。

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