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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問82「弱さと不信仰は違う」イザヤ書一章11-20節

2017-08-13 18:23:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/13 ハ信仰問答82「弱さと不信仰は違う」イザヤ書一章11-20節

 

 教会の案内に「どなたでもお入りください」と書いてある事があります。それを見て、本当に誰でも勝手に入ってくると、やっぱり対応に困ってしまうことになります。違う宗教を持ち込んだり、商売を始めたい人、ただ逃避したい人が来たりしたら、お帰りいただいたほうがお互いのためかもしれません。勿論、そういう人が、教会でイエス・キリストと出会い、違う宗教からキリストに興味を持つかも知れませんし、自分の人生を新しく見つめ直すこともあるでしょう。ですから、「教会はイエス・キリストを信じる場所です。神を礼拝し、聖書の話を聴きたい方ならどなたでも」と言った方が誤解はありません。ただ「どなたでも」ではない、というのは閉め出すためではなく、聖書を通して、本当に招いてくださっているイエスを大事にするのが教会ですよ、と踏まえた上で「どなたでも」だ、という事です。それは、この福音を表す主の聖晩餐にも言える事です。聖餐は、誰もが与れるわけではありません。そしてそれ自体が福音です。

問82 それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。

答 いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリスト教会はキリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで鍵の務めによって閉め出す責任があります。

 信仰告白が他の神々でもいいとか、聖書の教えに反した事を信じているとか、生活において不信仰や背信、ハッキリした不道徳や犯罪や不正を行っている人も、聖晩餐に与れるのですか。いいえ、そういう人はダメです。主の聖晩餐、即ち、主イエス・キリストが私たちをご自分の食卓に招いて、御自身のいのちに与らせてくださる儀式は、だれもが招かれています。全ての人が、イエスの救いに与って、罪の赦しを戴き、新しい人生を歩み出す事が約束されています。でも、その事を信じようともせず、イエスに背いた生き方をしたいと思っている確信犯まで、パンを食べ、杯を頂けるのではない、という事です。なぜならそれは、イエスがご自分の十字架の死によって立てて下さった

「神の契約」

を侮辱することだからです。罪が赦されて、新しい歩みを下さるという約束を踏みにじる人にまで、イエスは大目に見て下さると考えるのは、根本的な勘違いです。

 ただ前回の問81でも見たように、罪が少しでもあればダメだとか、信仰に誤解や疑いが混じっていれば不適切だ、ということではありません。私たちは自己を嫌悪するような罪を持っています。未だに

「残る弱さ」

があります。間違いや愛のなさ、自分の中に悲しいほど闇や弱さがあるのです。その弱さもイエスは覆って下さるという慰めがあります。そうした

「残る弱さ」

を通して、私たちはますますイエスにすがりつかずにはおれません。罪や弱さがあるからこそ、赦しと憐れみを求めて、私たちはイエスに依り頼み、主の聖晩餐に来て、恵みに与るのです。

 ここで言う

「不信仰」

とは、

「残る弱さ」

そのものではありません。イエスの元に行こうとしない頑なな態度です。赦されたくない、変わりたくないと、頑固に心を閉ざし、神の契約を侮辱する態度です。それは赦されたいとさえ思っていないのですから、神は赦す事が出来ないのです。それでも傲慢にもいいとこ取りだけの祝福をもらうために、主の聖晩餐に来続けるなら、それは自らに裁きを招く事です。

「悔い改めない者や偽善者は「自分自身に対するさばきを飲み食いしている」」

のです。誰も見ていないところで罪を握りしめたまま主の聖晩餐にあずかってさえそうです。そして、それが公に生活や信仰告白に現れている場合はもっと有害です。それは本人だけでなく、周りにも悪影響を及ぼします。周りも誘惑に負けて、神の契約を軽視するようになり、やがては神の御怒りを招くでしょう。ですから、教会はそのような人を聖晩餐から閉め出します。

 ここに、

「キリスト教会は、キリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで鍵の務めによって閉め出す」

とあります。人々を招かれたキリスト御自身が、不信仰者や背信者に対する定めを命じておられました。決して、キリストは愛のお方なのに、教会が後から敷居を高くして、排除するようになったのが陪餐の制限ではないのです。先に読んだイザヤ書一章の言葉を思い出しましょう。

16洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。

17善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」■

18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

19もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

20しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。

 悪を除け、悪事を止め、善をなすために、来なさい、と仰いました。罪がどんなに真っ赤でも、雪のように白くする、羊の毛のようにする。善い物を食べることが出来る。それが主の招きでした。しかし、そのような主の招きに背いて、自分の道を進むなら、それは自滅しかありません。主が怒って罰するというよりも、主は救いと新しい歩みを約束して下さっているのに、それを拒む以上、救いそのものを拒絶するのです。

 私たちの中には、どんなに愛され救いを差し出されても、その恵みにさえ便乗して、神の契約を侮辱する歪んだ傾向がある。それは厳粛に弁えるべき罪の事実です。そのような場合に聖餐が取り上げられるのは冷たい仕打ちや愛のなさではありません。それは気づくためです。

「生活を正す」

ための愛です。聖餐を禁じられることで私たちはハッとさせられます。見える形で、自分の選んでいる愚かな過ち、でも致命的な危うさに気づかされるのです。そして、そこで私たちが悔い改めて、自分の生活を変えることを願うなら、主の食卓に迎え入れられるのです。


問80-81「残る弱さも」Ⅰコリント11:26-32節

2017-08-06 20:17:28 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/6 ハ信仰問答80-81「残る弱さも」Ⅰコリント11:26-32節

 

 順番から言いますと、今日はハイデルベルグ信仰問答80です。しかし実は、問80は、ハイデルベルグ信仰問答が造られた真っ最中に、当時のカトリック教会との論争を色濃く反映しています。プロテスタントもカトリックも、お互いのミサ理解を否定します。ハイデルベルグ信仰問答問80では、ミサを

「呪われるべき偶像崇拝」

と口汚く非難します。本文の主旨は賛同しますが、それは既に他でも十分学んできた内容です。そして問題は、聖餐理解が正しいとしても、そこに来る人間の心が間違っていることがあります。その肝心な点を、今までも確認してきましたし次の問81で確認することにします。

問81 どのような人が主の食卓に来るべきですか。

答 自分の罪のゆえに自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死によってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは「自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 「どのような人が主の食卓に来るべきですか。」この言葉は、明らかに先のⅠコリント11章にあった

「ふさわしくないままで」

「自分を吟味」

「みからだをわきまえないで」

といった言葉を意識しています。つまり、誰が聖餐に来る事が出来るか、という問題です。多くの方はこういう言葉を読むと、「自分は先月も大きな間違いをしてしまった。神の前に罪だと分かってやってしまった。そして自分の心には今も、そういう罪を求めている汚れがある。憎しみや残酷な思いが心にある。だから、自分は、聖餐に来るには相応しくないに違いない。そう考えてしまうことがよくあります。こんな自分が来ても、主は嫌悪されるんではないだろうか。本当は、主は天で、渋い顔をしておられるんではないだろうか。しかし、この81ではこう答えるのです。

答 自分の罪のゆえに自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死によってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは「自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 自分の罪のゆえに自己を嫌悪する。つまり、私たち自身は罪があります。自己を嫌悪せずにおれない罪が行動や心にあります。自分で自分に愛想を尽かしたくなる。しかし、その私が

「キリストの苦難と死によってそれら(罪)が赦され」

ることを信じる。キリストは、私に愛想を尽かさず、私のために十字架の苦難を引き受け、死んでくださいました。それゆえに、私は受け入れられると信じて、主の食卓に行くのです。キリストは私たちを招いて、パンと杯に託して、私たちにご自分の命を受け取るよう、救いを受け入れるよう、強く命じます。それを私たちが、「自分のようなものは、ふさわしくないだろう」「もっとふさわしくなるよう、努力してから行こう」などと考えるのは、キリストの思いとは全く違うのです。病人が、もっと健康になったら医者に行こう、という勘違いです。自分ではどうしようもない罪のために、キリストは来られました。自己嫌悪するしかない私を、キリストは受け入れ、愛してくださいました。その最大級の表現が十字架であり、それを現す聖餐です。更にそれは「ここまでの罪は勘弁してやろう」でもありません。

「残る弱さも覆われることをなおも信じ」。

 私たちの中に、弱さは残っています。まだこれからも、失敗をするでしょう。自分が嫌になるでしょう。あるいは、赦された恵みの感謝を忘れたり、失敗して痛い思いをしたことに懲りたりせず、調子に乗って過ちを繰り返す。そういう弱さも残っているのです。しかし、そうした「残る弱さ」も覆って下さる。これからも色々な弱さを見せるとしても、イエスはずっと私から離れず、その弱さにも働いて下さる。そう信じるのです。

 しかし、かといってそれが甘えや現状容認になるかというと違うのです。

 …さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める…

 罪は赦されるし、これからも弱さは覆われるのだからいいや、ではありません。やっぱり、罪に縛られた生き方より、自由になり、信仰も生活も成長する生き方こそ、切に求めるに値します。そして、イエスの恵みは、私たちをただ罪の罰から救い、神の子どもという身分を与えるだけのものなんかではありません。イエスは私たちを養い、私たちを恵みの中で生かして、イエスの命を与えてくださいます。ここが微妙ですね。

 私たちはただ、イエス・キリストの恵みによって罪を赦され、救われます。そして、私たちは恵みの中で、神の律法に従って歩んでいきます。ところが、私たちはそれを両極端に誤解しがちです。片方の極端は

「律法主義」

です。自分で律法に従う事で救われるし、頑張り続ける、と考えます。その反対は

「無律法主義」

です。恵みによって救われるのだから、律法なんかいらない、自由にして良い、という生き方です。それを見越して、「律法主義」には、救われるのは恵みだけれど、後は神の恵みもありつつ、自分で努力しないと行けない、と教えるタイプもあります。無律法主義になって怠けないよう、頑張って聖書を読みましょう、献金しましょう、奉仕をしましょう、そうでないと成長せず、誘惑に負けますよ。そういうプレッシャーをかけるのです。

 しかしそれは恵みを低く見過ぎています。キリストは私たちを愛しておられます。どんなに罪を犯そうと、どんな罪の可能性を秘める心の闇を持っていようと、私たちを愛され、御自身の命という犠牲さえ惜しまれませんでした。しかし、愛すればこそ、私たちを成長させ、罪に縛られていた生き方から、自由な生き方へ、そして、互いに愛し合い、神の愛に生きる共同体に入れてくださるのです。そして、律法的にではなく、恵みに押し出されて、成長させて、新しい生き方を与えてくださるのです。そしてこれを現すのが聖餐です。

 聖餐は、主イエスが私たちのために御自身の肉を裂かれ、血を流され、罪が赦されたことだけを覚えるのではありません。その主の恵みによって生かされ、変えられ、互いに分かち合い、ともに生かされることのエッセンスがあるのです。そのように私たちが成長すること自体がイエス・キリストの恵みなのです。

 聖餐は私たちが自分を吟味する機会です。パンを裂き、杯を分け合う聖餐に照らして、私たちはキリストの測り知れない恵みを覚えます。その恵みを本当に豊かに味わう事から、私たちが新しくされます。お互いに、

「残る弱さ」

がありながらも、律法主義の脅しやプレッシャーではなく、恵みによってともに歩みます。弱さを通して恵みを戴き、ますます感謝し、聖書の恵みの言葉によって養われ、祈る恵みを味わい、仕えて生きる喜びを知るようになります。

 主イエスが下さるのは罪の赦しだけでなく、キリスト御自身です。私たちを、ますます神の恵みに頼る生き方に成長させてくださる主イエスです。


問78-9「確かに私たちのもの」ヨハネ6章53~58節

2017-07-23 16:59:56 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/7/23 ハ信仰問答78-9「確かに私たちのもの」ヨハネ6章53~58節

 今日も、主イエス・キリストが私たちのために、定めてくださった「主の聖晩餐」を学びましょう。これこそ、イエス・キリストの十字架によって与えられる「福音」を、私たちが最もハッキリと知るための方法なのです。長いですが、二問を見ます。

問78 それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。

答 いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるのでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証に過ぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の様式と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。

 何度もお話しして来たように、中世の教会では、パンとブドウ酒が、本当にキリストの肉やキリストの血になる、という考え方をしていました。それが迷信になり、また、逆にパンやブドウ酒そのものを有り難がったり、拝んだり、恭しく扱ったりするような脱線にもなっていました。これを否定したプロテスタントの中でも、マルチン・ルターは「パンはパンのままだけれど、その中に、上に、キリストが本当におられるのだ」というこだわりをしました。それに対して、「パンもブドウ酒もただのしるしだ。聖餐式そのものが、ただの記念の儀式で、特別な恵みなどない」と割り切るプロテスタントの教会もありました。でも、ハイデルベルグ信仰問答はそうも言いません。今まで見てきたように、この食事の恵みを繰り返して強調して、ここでパンとブドウ酒がキリストの体と血に変わるのか、と誤解されることを想定するくらい、大切にその意味を歌い上げてきたのでした。そして、ここで改めて確認します。

問79 それではなぜ、キリストはパンを御自分の体、杯を御自分の血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロはイエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。

答 キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のためにわたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちがこれらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、わたしたちが聖霊のお働きによってこの方のまことの体と血とにあずかっていること、そして、あたかもわたしたち自身が自分の身において一切を苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされていることを、この方は、この目に見えるしるしと担保を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです。

 最後に「この目に見えるしるしと担保」とあります。聖餐はしるしであり、担保です。

…十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のためにわたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるという…

 「しるし」である。もうこれは今まで何度もお話しして来た通りです。これからも何度も繰り返して私たちは、このキリストの十字架の御業を聴き、ここに立ち続けるでしょう。キリストの十字架の死が、本当に私たちの魂を養い、潤して永遠のいのちにまで確実に至らせてくれる。そのしるしとして、パンと杯を、キリストの体と血としていただくのだ、というのです。

 そして、もう一面として「担保」と言われます。担保とは保証という事です。何かの約束を保証するために、別のものをあてがうのです。ここでは、

…わたしたちが聖霊のお働きによってこの方のまことの体と血とにあずかっていること、そして、あたかもわたしたち自身が自分の身において一切を苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされていること…

 その担保として、主の聖晩餐という儀式で、確約して下さっているのだ、ということです。言葉だけで信じろ、というのではなく、本当にそうだ、嘘偽りなく確かな約束だと示すのが、パンとブドウ酒をいただくことなのです。

ヨハネ六53イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

 イエスはこの言葉を、五つのパンと二匹の魚の奇蹟の後に仰いました。イエスはパンと魚で人々をもてなされつつ、そこにはイエス御自身に深く繋がりなさい、というメッセージがあったのです。決して、御自身の肉や血を与えられたのではありません。イエスからパンや魚を頂くという行為そのものが、イエスとの関係を表しました。聖餐もそうです。パンが本当にイエスの肉で杯がイエスの血かどうか、という考えではなく、イエスがこのパンを食べ、杯から飲みなさいと仰った事を恵みとして戴くのです。イエスが私たちと、切っても切り離せない関係を下さる。本当にキリストが私たちのために苦しんでくださった。そればかりか、そのキリストの苦しみや従順を、私たちのものだとさえ言える。その事を、このパンとブドウ酒を頂く聖晩餐が確約してくれているのです。

 この事を無視して、ただ聖餐だけで御利益があるとか、パンやブドウ酒に特別な力があると考える迷信を、改革派教会は断固として退けてきました。迷信的に敬う余り、パンを礼拝し、信徒に杯は飲ませない、といった本末転倒が起きたからです。でも、そんな誤解をも覚悟の上で、主イエスはパンや杯に託して福音を味わわせてくださいました。パンや杯を迷信化するのは間違いでも、イエスの肉や血に与るなんて、それこそはまさしく恐れ多いことです。とんでもない話です。でも、イエスは

「わたしを食べ、飲みなさい」

と仰るのです。そういう聖餐を大事にし、福音の恵みをますます感謝して、恭しい思いを持ちたいと思います。限りない喜びを、溢れる感謝をいただきたいと思います。


問77「パン裂きが終わる日」Ⅰコリント十章16~17節

2017-07-16 15:49:55 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/7/16 ハ信仰問答77「パン裂きが終わる日」Ⅰコリント十章16~17節

 夕拝でテキストにしていますハイデルベルグ信仰問答では、聖餐式の事を続けて取り上げています。何度もお話ししますように、この夕拝では実際に聖餐をして、パンを裂き、杯を飲むことは致しませんけれど、それでもここで私たちは、一つのパンを裂き、ひとつの杯を回し飲むような、そのようなイメージを心に描いてほしいと思います。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、血を流された。その事が私たちに最もハッキリと分かるようにと定められたのが、聖餐だからです。

問77 信徒がこの裂かれたパンを食し、この杯から飲むのと同様に確実に、ご自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。

答 聖晩餐の制定の箇所に次のように記されています。
「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
この約束はまた聖パウロによって繰り返されており、そこで彼はこう述べています。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの体にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。

 この問77は、聖餐がキリスト御自身の命じられたこと、約束されたことであると確認しています。人間が考え出したり、教会が決めたりしたことではありません。キリスト御自身がお定めになった食事なのです。ここで使われている言葉は、さっき読みましたⅠコリント10章と、その次の11章の言葉です。そこでパウロは、コリントの教会の人々を教えるために、キリスト御自身がこう仰った事を思い出させています。

Ⅰコリント十16-17私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

 ここでも、主が命じられた杯とパンの聖餐が、キリストの体を現していて、そのキリストの体に与る私たちの交わりを現している。そこを土台にして、私たちの生き方、教会のあり方を考えて行くのだと言っています。それとともに、このハイデルベルグ信仰問答や宗教改革の伝統が大事にしてきたのは、パンと杯は、そのパンや葡萄酒そのものに力があるのではなく、キリストの死を思い起こさせることにこそ、その意味がある、という強調点です。儀式に力があると考えると、パンと葡萄酒に対する迷信的な扱いが始まります。そういう本末転倒をしないようにする、ということは大事なことです。

 しかし、私たちはいつも不完全な者です。誤解があり、理解には限界があります。聖餐に対しても、私たちは完璧な理解が出来るわけでもありません。また、ここに集まっている私たちも、このハイデルベルグ信仰問答を一緒に学びながらも、完全に一致した理解をしているわけではないかもしれません。それに、こうして学ぶまでは、そんなことは考えたこともなかった、知らなかった、という事もあるのです。しかし、そうした私たちの誤解や無理解、また意見の相違があるとしても、大事な事は変わりません。

「取って食べなさい。これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。…この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」

 キリストが私たちに仰ったのは、これですね。裂かれたパンをいただき、私たちのために十字架で体を裂かれたキリストが思い出されるのです。杯を頂いて、キリストが血を流されて、私たちのための新しい契約を立ててくださったことを覚えるのです。その理解に誤解や違いや、多少迷信めいたものがあろうとも、そこでキリストが覚えられさえすればいいのです。というよりも、それこそが、このパンを裂いて食べ、一つの杯から飲む、という形が示しているメッセージそのものだからですね。

 食事を食べる時も、私たちはその栄養や健康への効果を十分分かっているわけではありません。ジャガイモだと思っていたらカブだったり、この魚にはどんな栄養が入っていて、自分の健康にどういいのか分かっていないことが殆どではないでしょうか。それでも、普通の食事をバランス良く続けていれば、たいてい健康に過ごせます。その意味を分かっていないと消化されない、体に吸収されない、ということはありません。聖餐もそうです。大事なのは、そこに示されているメッセージそのものです。それは、キリストが私たちのために御自身を裂かれ、いのちを下さった、という確かな事実です。

Ⅰコリント十一26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 この御言葉が示すとおり、私たちはパンと杯をいただく聖餐を通して、主の死を告げ知らせます。でも、ここに

「主が来られるまで」

ともありますね。私たちは、主が十字架で死なれた過去の出来事を思い起こし、記念するだけではありません。その主が、やがてもう一度、ここに来られるのです。主は死なれただけでなく、よみがえられました。そして今も私たちに命を与え、私たちを結び合わせ、恵みの中で養い育ててくださると信じています。やがて、このイエスが来られて、すべてを新しくなさいます。聖餐はそれまでの食事です。主イエスが来られて、世界を新しくされた後はもう、神の国で聖餐を行うことはありません。その時には、主が私たちを神の国の食卓に着かせて、永遠の祝宴を味わわせてくださるのです。もう今のようなパン裂きはしません。いいえ、むしろ、今のパン裂きこそが、やがて神の国の食卓が始まることの約束であり、しるしなのです。過去の十字架だけでなく、主が来られる将来をも味わうのが聖餐なのです。


問76「永遠の命以上の」ローマ書8章1-11節

2017-07-02 15:38:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/7/2 ハ信仰問答76「永遠の命以上の」ローマ書8章1-11節

 先週から「聖餐式」「主の聖晩餐」と呼ばれる、教会の大事な儀式についてお話しをしています。今は夕拝で聖餐をしませんけれども、しかし、教会の礼拝のイメージは聖餐です。主イエスが、私たちをテーブルに招いてもてなし、元気づけ、またここから出て行き、主が私たちに下さった務めを果たしてくる。そして、またこの場所に帰って来る。その歩みの真ん中にあるのが、主の食卓です。聖晩餐です。ここでは何も難しい事、特別な事は言われていません。聖餐には、キリストの十字架と復活のエッセンスがギュッと詰まっています。今日ももう一度、その原点を確認したいと思います。

問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。

答 それは、信仰の心をもってキリストのすべての苦難と死を受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ、それ以上にまた、キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊を通して、その祝福された御体といよいよ一つにされて行く、ということです。それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。

 聖餐において、パンを食べ、葡萄の杯を頂きます。それは、パンや杯を頂く以上に、

十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲む

という意味がある、と問75で言いました。ではそれは、どういうことですか、と改めて問うのです。まず、

 …信仰の心をもってキリストのすべての苦難と死を受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ…

 基本的なキリスト教信仰です。キリストが本当に苦しみ、十字架に死んでくださったこと、そして、それを信じて受け入れる時に、私たちは罪の赦しと永遠の命を頂きます。主の体を食べ、流された血を飲む、グロテスクにも思える表現で言いたいのは、キリストが本当に私たちのために苦しみ、死んでくださったことを受け入れます。私たちは、そのキリストの苦難と死に与らせていただくのです。しかし、それだけではありません。

…それ以上にまた、キリストのうちにも私たちのうちにも住んでおられる聖霊を通して、その祝福された〔キリストの〕御体といよいよ一つにされていく…

 パンを食べ、杯から飲む時に、罪の赦しと永遠のいのちがいただけるというだけではないのです。私たちの今のこの体が、聖霊によって、キリストの御体と一つにされていくのです。「血となり肉となる」という言い方があります。何を食べるかが体を作るのです。野菜をよく食べると健康で、お肉や脂こいものばかり食べると体臭もキツくなる。カルシウムが足りないとイライラする、牛乳を飲むと背が高くなる、レバーを食べないと貧血になる。そう言われて、私も小魚やレバーや牛乳を良く摂ってこんな体です。

 それと同じように、キリストの体と血を食べると、私たちの体もキリストと一つとされていく、と言います。聖霊が、私たちのうちに住んでくださる、と言います。

ローマ八10もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 聖霊が私たちのうちに住み、私たちを生かしてくださると言っていますね。更に、

…それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。

とさえ言われます。この

「肉の肉、骨の骨」

という言い方は、聖書の最初に出て来ます。

創世記二23人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

 神が最初の人に、妻エバを作られて連れてこられた時、アダムは最愛の言葉を贈ったのです。この屈託のない喜びの言葉をそのままここに持ってきます。私たちが、キリストの

「肉の肉、骨の骨」

となる。それぐらい、キリストは私たちを愛し、愛おしみ、喜び、大切にしてくださるのです。聖霊が、私たちを結び合わせて、永遠に生かし、治めてくださるのです。勿論、私たちの体が病気もしない、年も取らない体になるわけではありません。イエス御自身の体も、傷つき、人としての弱さを持った体であったのと同じです。アダムがエバを

「肉の肉、骨の骨」

と呼んだのも、一心同体となったのではなく、アダムは自分とは違う人格のエバと歩むからこそ、愛の関係を育めたのです。私たちがキリストの花嫁になるとか、御霊が私たちを一つの教会として結び合わせてくださるのも、互いの個性がなくなって一体になるのではありません。お互いの個性が、最高に尊重され、生かされ合いつつ、キリストの

「肉の肉、骨の骨」

言わば、キリストの花嫁となるのです。キリストが天におられ、私たちは地にいる。その距離がなくなるのではありません。でも、その距離や限界やもどかしさはありつつも、キリストに愛されている者として生きていくのです。その事をも、聖餐は私たちに確証するのです。

 聖餐でパンと杯を頂く時、そこに約束されているのは、罪の赦しと永遠の命以上の、豊かな歩みです。主が私たちの体をも大切な、かけがえのないものとして見て、愛してくださっている。私たちのこの体での生活を通して、神様の愛を現して、良いことをしてくださる。そういう祝福も、聖書は約束しています。その約束が聖餐を通してハッキリと証しされるのです。私たちがそれを理解して、聖餐の意味を信じていれば、ではなく、事実ここから出て行く私たちの生活が、神の恵みの中にある。聖餐はそれを思い出させてくれます。その御業を信じましょう。この私たちのために、キリストが十字架で死なれ、罪ではなく、いのちの業に取り戻してくださった、その御業を期待しましょう。