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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問91「すべきからの自由」エペソ書2章1-10節

2017-10-01 21:22:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/10/1 ハ信仰問答91「すべきからの自由」エペソ書2章1-10節

 今読みましたエペソ書二章一節以下は、罪の中に死んでいた人間が、ただ神の恵みによって救われ、今ここに生かされているということを強調しています。その最後には、

10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

とありました。良い行いをしたら救われるというのでは全くないのですが、キリストは、私たちを良い行いをする「神の作品」とされた、というのですね。神の作品、神の最高傑作の一つが私たちなのです。ここに、今夕拝でも見ていますハイデルベルグ信仰問答の第三部、キリスト者の生活の意味があります。私たちが先週一週間を過ごしてきたこと、今日またここから出て行って生活するそれぞれの場所での歩みのことです。しかし、「良い行いをするために」と言われると、嬉しいよりも窮屈な、堅苦しい思いを持ってしまうことも少なくないのでしょう。今日はその「よい行い」とは何なのかを見ます。

問91 しかし、善き業とはどのようなものですか。

答 ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。

 ここでは「善き業(良い行い)」とは何かを三つの要素で述べています。

「まことの信仰から」

という動機、

「神の律法」

という基準、そして

「この方[神]の栄光のために」

という目的ですね。そして、追加説明として

「私たちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません」

と付されています。「自分でよいと思うこと」には色々なことがあるでしょう。一人一人の基準や、よかれと思ってしたからといって、それが「善い行い」ではない、ということも沢山あります。誠実であれば、心を込めてであればいい、という考えは身勝手です。イエス・キリストを十字架につけた人々も、神を冒涜するのは許されないと真面目に考えたのです。親が子どもの躾だと称して、脅したり傷つけたりすることもあります。会社や社員のためだと経営者が誤魔化したり粉飾決算をしたりすることもありますが、よかれと思ってやったからといって、神も認めるということではありませんね。善き業を決めるのは、神です。

 しかし、このハイデルベルグ信仰問答が強く意識しているのは当時の教会の背景です。教会外で、神を知らない人たちのことではなくて、教会の中、イエス・キリストを知り、聖書をよく学んでいるはずの所でのことです。そこでも、人間が「善い行い」と称して、難行苦行や、献金や、教会制度への従順を強いていた実情を意識しています。そういうときに聖書の言葉を引用して根拠だと言って「神を喜ばせなければならない」とか「そうしないと神を怒らせる」などと強制してきたのです。しかしそれは

「わたしたちがよいと思うことや人間の定め」

であって、キリスト者の「善き業」ではないと言うのです。

 「良い行い」とは

「まことの信仰から、神の律法に従って、この方の栄光のために行う」

ことです。その

「真の信仰」

とは、問21で言われていました。

ハイデルベルグ信仰問答21 まことの信仰とは何ですか。

答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。

 それはただ本当の神を信じるというだけでなく、その神ご自身が下さる神への信頼です。また、「罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられる」という「恵み」を知っている信仰です。そういう圧倒的な神の贈り物を信じる心から来るのです。決して、私たちが善い行いをしないと怒るとか、私たちの善い行いによって機嫌が直るような、そんな人間的な神ではありません。神を恵みのお方として信じ、揺るがない関係があると信頼することから、初めて私たちの生き方が、よいもの、喜びや感謝に溢れるものとなります。

 「神の律法に従って」

もそうです。

 「神の律法」つまり聖書には、私たちの信仰と生活の基準が書かれています。けれども、聖書を読めば分かりますが、決して聖書には規則や戒めや道徳が延々と書かれているわけではありません。また聖書には、神様に従順に従って生きた立派な人たちの「偉人伝」が書かれているわけでもありません。また、旧約聖書と新約聖書という大きな展開でも、教会はユダヤ民族の様々な律法を、ユダヤ人以外の異邦人に強制しない道を選びました。ですから

「神の律法に従う」

というのは、聖書に書かれているいくつかの規則を鉄則にして、そのままに行う、というようなことではないのです。聖書自体が、そうした表面的な律法主義を戒めて、警告しています。聖書は神の戒めを書きつつも、そこに生きる事が出来ない人間の現実も書いています。人間の失敗、自己中心、弱さや失敗を書いています。そういう人間に寄り添って、赦しと回復を与えてくださる神の物語が聖書です。その中心にあるのは、神の子イエス・キリストのお姿です。私たちはイエスのお姿、言葉、行動を、聖書からいつも教えらて、神の律法を知ることが出来るのです。規則や義務ではなくて、イエスに目を留めていくことが

「神の律法に従うこと」

です。そして、そのようにイエスに信頼し、恵みに驚きながら、イエスがされたように、この世界の破れ、人の傷や喜びや存在に関わっていくことが、

「神の栄光のため」

という目的になっていくのです。

 こう考える時、エペソ書の2章10節の言葉は改めて素晴らしいなぁと思うのです。

10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

 これは「善い行いをしなければ」というプレッシャーはどんな意味でもありません。神が私たちを一方的な恵みで救ってくださいました。神に愛された者として、神を恐れることなく信頼して、生きるのです。そして

「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」。

 自分が立派なことをしようと背伸びする必要はありません。何をすべきかと恐れる必要もありません。そういう立派な行いや人間的な基準での「善い業」という考えとは全く違う

「善い業」

がキリスト・イエスにあって与えられました。キリストを通していただいた信仰、聖書の生き生きとした教え、そして自分のためではなく神の栄光のために生きていくのがキリスト者です。そして、そのように神への信頼をもって生きる時、神はその良い行いをも予め備えてくださっている、という約束もあるのです。

 キリストは私たちを愛して、意味や目的や使命を持つ人生を備えてくださいました。それを果たす力も心配しなくて良い。そう信頼して生きる事自体が、キリストが備えてくださった良い行いであり、神の栄光なのです。


問87「もったいない生き方」1コリント6章9-11節

2017-09-10 15:02:00 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/9/10 ハ信仰問答87「もったいない生き方」1コリント6章9-11節

 この夕拝では私たちの教会の伝統にある「ハイデルベルグ信仰問答」から信仰の基本をお話ししています。前回からキリスト者の生活についてお話ししています。

問87 それでは、感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち帰らない人々は、祝福されることができないのですか。

答 決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」 

 この問はとても率直だとも言えます。善い行いが要らないなら、神に悔い改めなくても祝福を下さってもいいではないか、そういう疑問やケチをつける思いは人間の中にあるのだと思います。神が愛の神だというなら、どんな人間をも裁いたりせずに救ってくれればいいじゃないか。人を罰したり、良い人しか天国に入れない神なんて、ひどい神だ。そういう言いがかりをつけてくる人は多いのです。けれども、

「感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち帰らない」

人が祝福だけ願うなんて、矛盾していますね。

 「感謝も悔い改めもない歩み」

から

「神へと立ち帰る」。

 実はこれが、キリスト教のいう「救い」であり「祝福」であり「ゴール」なのです。ただ自分にとって幸せなものや楽しいこと、したいように生きることが「祝福」なのではありません。神に背を向けたまま、自分に欲しいものだけを神がくれればいいのだ、と思い上がっている。それ自体が本当に惨めな生き方なのではないでしょうか。この世界をお造りになったのは神である主です。イエス・キリストの父なる神です。この神が世界をお造りになり、私たちを造られ、いのちも個性もすべての必要も与え、特別な使命やご計画をそれぞれに与えておられます。その大きな神様のご計画の中に人間がいるのです。そこで人間に与えられたのは、神の栄光を現す、素晴らしい御命令です。本来、善い行いは、神が人間に託してくださった、かけがえのない使命なのです。

 けれども人間は神に背いて、神から離れてしまいました。神に感謝もせず、自分の非を認めることも出来ない、惨めな生き方になってしまいました。そして、神に帰る代わりに神ではない色々なものによって自分を満たそうとしています。それが、

Ⅰコリント六9…だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

と上げられている例のリストですね。不品行や姦淫は、夫婦ではない相手と、夫婦のような体の関係を持つことです。偶像(神ではないもの)を礼拝するのが偶像礼拝です。男色は、男同士で体と体の関係になること、またそれを商売にするのが男娼です。盗む者、泥棒する者ですし、略奪はもっと強引な奪い取り方です。貪欲は、欲張りで強い欲しがりの思いです。酒に酔う者は、お酒でベロンベロンになって、回りに迷惑をかけるのも顧みない人。偶像は直接神に対する罪ですが、あとはどれも、人を騙したり、人との関係を壊したり、家族を大事にしない事ですね。

「そういう人は神の国を相続することが出来ない」

と言われていますが、この世の国や身近な生活も、こういう行為はお断りであることばかりです。でも、注意して下さい。一度でもそういう事をした人は、神の国に入れない、ということではありません。この直後にこう言われています。

11あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

 これはすごい言葉ですね。このコリントの教会には、以前は、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼、男色、泥棒、酔っ払い、略奪する者だった人たちが集まっていた。でも、そういう大きな罪を犯したからダメだ、ではありません。そういう人たちがイエス・キリストの救いに与って、聖霊によって洗われ、聖なる者とされた、というのです。素晴らしいですね。でも、先の言葉をもう一度読むと

「だまされてはいけません」

ともありましたね。そしてこのような注意を受ける事自体、この人たちの中に、また不品行をしようかな、男色をしてもいいんじゃないかな、泥棒や大酒も構わないじゃないか。そう考えたり、そうしてしまったりするところがあったのですね。この手紙を書いたパウロは、その人々に言います。

「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

 主イエスの恵みを思い出させます。かつては不品行や好き勝手な生き方をして、関係を壊していた生き方から、私たちの神である主が私たちをきれいにしてくれ、聖なる者としてくださいました。今ここでも、人間関係を壊したり、裏切ったり、欲しがって妬んだりする醜い生き方ではなく、神の子どもとして生活して、回りの人と関わって、家族が育っていくような、そういう歩みを下さるのです。ただ将来天国に行くとか、今何をしても最後には救われるとか、そんなつまらない恵みではなく、今ここで、神の子どもとして、神に対しても人に対しても、誠実で正直で、喜びに満ちた生き方を一歩一歩進むのです。それでもまだ、罪を犯して、騙されて神の子らしからぬ行動をしてしまうような私たちです。でも、そのような私たちをそのままに放り出すのではなく、私たちを何度でも洗い、聖なる者としてくださり、義としてくださる。そこでまた私たちは何度でも立ち上がって再出発が出来ます。そして、回りの人にも、希望や慰めとなることが出来ます。

 まだ途中ですけれども、神は私たちにそういう救いの道を、聖とされた者の旅を下さいました。それを押しのけて、「このままでいいのだ、生きたいように生きて何が悪いのだ」と言うのは、神との関係そのものを踏みにじることです。それは全く勿体ない生き方です。神の下さった大きな祝福を蹴りつける台詞です。神への感謝も悔い改めもしないとは、神との関係という救いそのものを拒むことです。神はご自身の子として新しい生き方を下さるというのに、人間の方でそれを拒み、救われたくないと言う。それが神から離れた人間の姿ですね。そういう恵みを踏みにじるような勿体ない生き方ではありません。神が今ここで下さる、感謝と賛美、人に対してもそこに神の国が始まるような、そういう大きな救いの恵みであることを確認したいと思うのです。

「私たちの主は、私たちの欲望が強すぎるどころか、むしろ弱すぎると思っておられるかのようです。私たちは万事に中途半端です。限りない歓喜が約束されているのに、酒や、性(セックス)や、野心に酔い痴れて、浮かれ回っているのですから。まるで海辺で一日を過ごさせてあげようと誘われた子どもが、それがどんなにすばらしいことか想像もつかずに、それより、このままスラム街で泥んこ遊びをしていたいと言い張るようなものです。」(C・S・ルイス、『栄光の重み』)


問86「感謝で生きるしあわせ」コロサイ1章9-14節

2017-09-03 21:21:32 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/9/3 ハ信仰問答86「感謝で生きるしあわせ」コロサイ1章9-14節

 今日から読んでいくハイデルベルグ信仰問答の86から最後の129まで、第三部になります。第一部では「人間の悲惨さ」、第二部では「人間の救い」がテーマでしたが、この第三部は「感謝について」というのです。悲惨に陥った人間が、神の恵みによって救われて、その後の生き方を「感謝」という言葉で語っていくのです。キリスト者の生活を特徴付けるのは神への感謝です。これは今までにもお話ししてきましたし、これからも何度もお話しする事です。今日もう一度この事を一緒に分かち合えるのが感謝です。

問86 わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善き業をしなければならないのですか。

 問いは実に真っ直ぐな問いかけです。なぜ私たちは善き業をしなければならないのですか。キリスト教の福音は、自分が善い行いをすることによって救われることは出来ないと教えます。ただキリストの恵みによって救われるのです。それを信じて戴くのですけれども、その信じる信仰さえ、キリストの恵みによるのです。だから、救われるために善い行いをする必要はありません。だったら、なぜ私たちは善き業をしなければならないのですか。そう改めて問い直すのです。

 ハイデルベルグ信仰問答が書かれた16世紀まで、教会には善い行いをしなければ救われない、という考え方が入り込んでいました。それに対して、宗教改革者は善い行いをするから救われるのではない。でも、だから善い行いが要らないのではなくて、感謝をもって善い行いをしていくのがキリスト者の歩みなのだ、と言ったのです。ハイデルベルグ信仰問答はその路線で、しかもとても美しく、私たちの生き方を説明しています。神様の恵みによって救われたことへの感謝。これが、私たちの新しい生き方です。

答 なぜなら、キリストはその血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自分のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。

という言葉は、救いというのが私たち自身の変化であることを教えています。ただ、救われて滅びない、ではなく、新しい生き方が始まるのです。その特徴が「感謝」だと言えます。しかし、注意して欲しいのは感謝とは「恩返し」という意味ではないということです。神様に恵みを頂いたのだから、その恩に報いて、善いことをする。そういうことではありません。そうでないと、善いことをしなければ「恩知らず」という事になる。神様の恵みに恩返しをするべきだから善いことを励みましょう、という意味ではないのです。この違いは微妙ですが、決定的なことでしょう。その違いを表すのは、ここにある、キリストが

「ご自身のかたちへと生まれ変わらせてくださる」

という言葉と

「敬虔な」

という言葉です。この二つの言葉を手がかりに、考えてみましょう。この

「敬虔な」

はインテグレートという言葉で、全体が調和している健全さという意味です。本当にその人が調和して、自分の願い、喜び、必要が満たされる状態です。統合していること、バラバラだったものが一つにまとまっていくこと、そういう状態です。それと私たちがキリストの形へと生まれ変わっていくことは繋がっています。私たちは神のかたちに造られた存在です。その本来の人間らしい生き方、神に似るようにと造られた人間の調和を取り戻してくださるのです。それがキリストの救いです。

 私たちには色々な必要があります。安心したい、認められたい、愛されたい、役に立ちたい…。それは神様が人間に下さった大事な願いです。どれも大切な人間の必要です。しかし、神から離れて人間は自分が分からなくなり、バラバラになり、必要が満たされない生き方になりました。

「自分で何をしているか分からない」

 これはイエスもパウロも口にした人間の現実です。愛されたくて偉そうにしたり、役に立ちたくて張り切りすぎたり、認められたくて「良い子」「良いクリスチャン」のふりをして、でもそれで疲れて、こっそりと欲望を満たしたり、バラバラな生き方、結局自分が何をしたいのか分からない生き方をしてしまうのです。イエスの救いはそういうバラバラだった私たちが調和し、満たされ、健全になるという救いでもあります。私たちを愛し、理解し、成長させ、楽しみを下さいます。心配しなくてもよく、神の家族という居場所を下さいました。こうして本当に深く神の恵みに満たされる時、本当に私たちは調和していきます。神の恵みに感謝するほかありません。神が私たちを新しくし、私たちのすべてを受け入れてくださる時、私たちは神に感謝しつつ、喜んで生きるようになります。心から善い生き方をするように変えられます。神を喜ばせるため、恩返しをするため、ではなく、神に愛されている者として、善いことを喜んでするようになっていくのです。

 第一、キリストが私たちに下さった恵みは余りにも沢山で、決してお返しをすることは無理です。私たちの善い行いに価値がないということではなく、神の恵みが大きすぎて、豊か過ぎるのです。だからこそ、そんなにも愛されて、恵みを頂いていることを知る毎に、私たちは感謝が溢れ、その感謝の心から、善い行いをするようになる。

コロサイ一9こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。10また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。11また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、12また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。13神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 感謝に生きるようになる、その恵みの力を信じて、祈り合う教会でありたいのです。教会の歩みでも、「聖書を読むべき」「奉仕すべき」という言い方をしてしまうことがあります。しかし、そういう「べき」では、それ以上はしたくなくなるでしょう。そうではなく、神の恵みに深く根差し、自分自身の願いや必要と、お互いの必要とを一緒に大切にしていきたいと思います。その時、本当の恵みと喜びで成長していくと信じています。


問85「刈り取りの法則」マタイ18章15-20節

2017-08-27 21:02:55 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/27 ハ信仰問答85「刈り取りの法則」マタイ18章15-20節

 先週「鍵の務め」という事をお話ししました。今読んだマタイ18章18節にも

「つなぐ・解く」

という言葉が出て来ましたが、神は教会に天国の鍵を繋いだり解いたりする働きを与えられました。これを「鍵の務め」と言います。しかし前回お話ししたように、それは教会に特別な権威があるかのように誤解されやすいことです。ハイデルベルグ信仰問答ではそうは教えません。教会が、聖書からイエス・キリストの福音を伝える事、それが言わば鍵の務めなのだ、というのです。そしてもう一つ「キリスト教的戒規」というものが神の国の鍵の役目を果たす、ということが、今日の問85です。

問85 キリスト教的戒規によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。

答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら、非キリスト教的教えまたは行いをなし、幾度かの兄弟としての忠告の後にもその過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは閉め出されます。しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一員として受け入れられるのです。

 「戒規」とは耳慣れない語です。戒める規則と書きます。ここに書かれているように、

「非キリスト教的教えまたは行いをなし」

という人を戒める規則です。キリスト者と言われながら、イエス・キリストの教えや聖書の大切な教理を否定する。あるいは、その生活での行いで犯罪に手を染めるとか不道徳な生き方をする。そういうハッキリした罪をする人を戒めるための手続きが「戒規」です。そこには三段階あることも分かります。分かりやすくしてみましょう。

 まず、兄弟として、つまり二人だけで話をします。それでダメなら、もう一人と一緒に注意します。その前に噂話を広めたり、見て見ぬふりをしたりはしません。ちゃんと忠告しましょう、と言う事です。しかし、それでもその人が

「その過ちまたは不道徳を離れない」

なら教会に(役員・小会に)通告します。自分では解決できなかったのですから、教会にお任せして手離すのです。そして、小会が何とかしてその人と話して説得しても従わないかもしれません。その場合は

「聖礼典の停止」

をもってキリストの会衆から閉め出されます。それでもまだ悔い改めようとしないなら、最後には

「除籍」

という措置を取ります。そういう手続きがあるのです。

 けれども、戒規というより私たちの日本長老教会は「矯正的訓練」という言い方をするようにしています。確かに、教理や生活での間違いは戒める必要があります。けれども大事なのは戒めて、最後には除籍する、ということではないのです。間違いを正しつつ、それを通して人が回復することですね。元々の言葉は「訓練discipline」なのです。弟子にすることであって、排除ではないのです。今日読んだマタイの18章も、15節から20節の「矯正的訓練」の手続きの前後に、回復や大切な言葉が沢山ちりばめられています。この後にも赦しについての例え話が語られています。一つだけ紹介しましょう。

14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

 どんな小さな人も滅びないことが天の父の御心です。過ちや不道徳の中で滅びてはならないから真剣に注意をするのです。そして、その注意の仕方でも頭ごなしに責めたり脅したり対決の姿勢は取らないのです。その人を、滅んではならない大切な人と思うからこそ注意するのであって、もしも帰ってくるなら受け入れられるのですね。

 …しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一員として受け入れられるのです。

 どの段階でも「真実な悔い改め」を約束し、示すなら、再びキリストに結ばれ、教会の一員として受け入れられる。その赦しと回復があるのです。勿論、それは口先だけの反省かもしれません。深い問題がある場合、本当の回復のためにはケアや時間が必要でしょう。何でもすぐに赦して、なかったようなふりをする、ということではありません。その人が本当に間違いを間違いとして理解して、変わっていくようサポートするのです。でもその根っこには、赦しの恵みがあります。その事を現す事として、再び聖晩餐に受け入れて、一緒にパンと杯を頂く食卓を囲むのです。

 同じパンを食べ、杯を一緒に飲む事で、交わりの回復を示すのです。この食卓を囲む私たちは、だれも間違いなく生きる事が出来る人などいません。ひょっとすると、堂々と間違った教えを持ち込んだり、責められなければならないような生活を始めたりするかもしれない、弱い者です。だからこそ、友人同士、信徒同士で注意したりされたりすることも必要です。教会の役員によって譴責を受ける事も必要です。それでものらりくらりと逃げ、頑なに心を閉ざすかもしれません。その時に、主の聖晩餐に与れない、という罰でやっと目が覚めてほしい。そうしてやっと恥じ入って、非を認める時、交わりに受け入れられるのです。

「本当に赦されたのだろうか、責められるんじゃないだろうか。」

 そう思う私たちが、一緒に主の聖晩餐を頂く時、深い実感と感動をもって、私たちは赦しと交わりの回復を信じさせていただけるのです。この回復にこそ、「戒規」「矯正的訓練」の目的があります。

 私たち日本長老教会は「訓練規定」を持っています。教会の訓練について具体的に教えています。この中で、悔い改めた場合の陪餐停止は想定していません。しかし、教会の中には、悔い改めても何ヶ月か陪餐停止にする所もあります。他にもこの鍵の務めを誤解したり乱用したりしてきた事実は教会の歴史を見ると沢山見受けられます。だからこそ、正しい鍵の理解をしたいと思います。

 私たちは、間違いやすいものですから、教会の交わりを通して、教え合う事を必要としています。教会の交わりを必要としています。そして、その交わりを壊すような間違いも犯すものです。実際、教会に集まっている一人一人がそうした弱さを抱えているものです。でも、キリストの十字架の恵みによって、その私たちにも天国の鍵が開かれたのです。その恵みを受け止めて、私たちが受け入れ合う時、教会の交わりそのものが、キリストの赦しを味わわせ、見える形で天の鍵が開かれたことを示すような役割を果たすのです。責めて、追い出すための鍵ではありません。ますます主の恵みと赦しを味わい、分かち合うための戒規なのです。


問83-4「神の国の鍵が開く」マタイ16章13-19節

2017-08-20 15:26:40 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/20 ハ信仰問答83-4「神の国の鍵が開く」マタイ16章13-19節

 マタイの16章には主イエスが、ペテロに

「天国の鍵」

を上げると言う言葉がありました。そこから教会は長い間、ペテロを描くときには鍵を持たせてきました。

 鍵を持っていれば、ペテロだと分かるというわけです。そして、ペテロの後継者であるローマの教皇もこの権威を継承してきて、天国の門を与っている。ある人を破門にしたり、天国に入れて上げたり、その権威を教会が委ねられている、という考え方をしてきました。私もいつからか誤解して、イタリアのバチカンに行けば、天国の鍵が見られるらしい、と思い込んでいた時があります。しかし、そういう鍵がある、という事ではありません。また、教会に誰かを天国に入れたり閉め出したりする権威がある、という考えも間違っていると分かりました。今日の問83はそのような誤解を背景にしています。

問83 鍵の務めとは何ですか。

答 聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。この二つによって、天国は信仰者たちには開かれ、不信仰者たちには閉ざされるのです。

 マタイの16章を読んで教会や教皇には天国の鍵の務めが与えられている、と考えて、それが一人歩きしていました。ここでハッキリと教会の

「鍵の務め」

とは福音の説教と戒規の事ですよ、それを通して教会は天国の門を開き、不信仰者には閉ざすのですよ、と教えるのです。福音を語る事、聖礼典に与らせたり陪餐を停止したりする事が「鍵の務め」です。それとは別に教会に「鍵の務め」なる権威が与えられるわけではないのです。この事を解説して、次の84では「福音の説教」、85で「戒規」を説明します。

問84 聖なる福音の説教によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。

答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、信仰者に対して誰にでも告知され明らかに証言されることは、彼らが福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度ごとに、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに神によってまことに赦されるということです。しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され明らかに証言されることは、彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。そのような福音の証言によって神は両者をこの世と来たるべき世においてさばこうとなさるのです。

 福音の説教は、キリストの福音を受け入れる時、どんな罪もすべて、キリストの功績のゆえに本当に赦されることを約束します。それが

「天国の門を開く」

という鍵です。しかし、不信仰な者や偽善者たちには、

「回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰が彼らに留まる」

というのです。これが

「天国の門を閉じる」

鍵だということです。要するにキリストの福音そのままですね。言わばキリストの十字架こそが天国の鍵です。キリストが私たちのために十字架に死んで復活された事実こそ、天国の鍵です。それとは別に何かの鍵があるのではありません。キリストを信じたのに、教会が「あいつは生意気だから、反抗的だから、入れて上げません」と閉め出すことは出来ません。福音が天国を開いたのです。十字架が、閉まっていた神の国へのアクセスとなったのです。そして、今地上で福音を聴き、信じるなら、やがて死んだ後、神の国に本当に入れられるのです。あの世に行ってみたら違っているかも、と心配しなくてよいのです。

 そうです。「鍵の務め」は閉め出すための権威ではありません。元々、神の国は誰も入れなかったのです。誰も自分のために神の国を開く事は出来ません。人が神に背いて以来、天の御国に帰る道は塞がれたのです。ですから人間が考える神の国は、どれも門は大抵閉まっています。条件があって入りづらい門です。人間にとって、神の国への道はもう断たれていました。いいえ、それどころか、神の国に帰りたいとさえ思わず、神を侮り、神を嘲笑う人さえ多いのです。それは、神の怒りと永遠の刑罰を選ぶような生き方です。ここに

「彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まる」

とあります。

「留まる」

とは元々

「神の御怒りと永遠の刑罰」

があった、ということです。それが神から離れた人間の姿です。しかし、神はそれをよしとされずに、一方的な憐れみを注いでくださいました。人に命を与え、太陽や雨を与え、食べる物も大事な家族や、全ての善い物を下さいました。何より、神の子イエス・キリスト御自身が、私たちの所に来て下さり、神との関係の回復を与えてくださったのです。

 このホルマン・ハントの「世の光」という絵は、キリストが戸を叩いている絵です。このキリストは、さっきの絵や多くの人間の描く雲の上の豪華な門の前に立ってはいません。そういう人間が考える世界から飛び出してこられ、人の所に来られた方です。そして、人の門を叩いて、開けてくれるよう優しく語りかけて下さるイエスです。天国の門とは私たちから遠くの門の事ではありません。イエス・キリスト御自身が私たちのところに来て下さいましたので、私たちが心を開いてキリストを受け入れるなら、神の国の王であるキリストをお迎えするのです。今ここで、神の国が始まるのです。しかし、そのような約束を聞いてさえ、キリストを受け入れようとせず、回心しない限り、当然それは神の御怒りと永遠の刑罰に留まって、自滅するしかないのです。

 ここでは

「不信仰な者や偽善者たち」

に対する証言として

「彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰が留まる」

とあります。福音を聞いた事がないまま死んだ人がどうなるのかは論じていません。福音を信じる機会が無かったとしても信じなかった者は皆滅びる、と断定する事は行き過ぎです。どんな人にも主は働きかけ、招いておられるはずです。あらゆる方法で、罪を悔い改めた生き方をするよう呼びかけておられるでしょう。その最もハッキリした呼びかけが、イエス・キリストの福音です。他のどんな約束よりも、人に希望を与え、恵みを確証させ、正しく真っ直ぐ生きる生き方を励ましてくれる力強い福音です。それを宣べ伝えるのが教会の

「鍵の務め」

です。もしも教会が福音ではなく、「自分たちだけが特別で罪赦され、天国に行けるのだ、信じない人はみんな永遠に滅びるのだ」と上から目線で断定するならば、それは「鍵の務め」の完全な誤解です。そんな歪んだ教えには反発を抱く方が健全です。福音ならざる説教は、天国の門とは無関係です。そうした人間の、あらゆる傲慢や偽善や恵みならざる生き方から悔い改めなさい。そんな滅びに留まる生き方から、イエスを受け入れて生きなさい。そう宣言して、キリストの恵みを証しするのが「鍵の務め」という福音の説教なのです。