2017/10/1 ハ信仰問答91「すべきからの自由」エペソ書2章1-10節
今読みましたエペソ書二章一節以下は、罪の中に死んでいた人間が、ただ神の恵みによって救われ、今ここに生かされているということを強調しています。その最後には、
10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
とありました。良い行いをしたら救われるというのでは全くないのですが、キリストは、私たちを良い行いをする「神の作品」とされた、というのですね。神の作品、神の最高傑作の一つが私たちなのです。ここに、今夕拝でも見ていますハイデルベルグ信仰問答の第三部、キリスト者の生活の意味があります。私たちが先週一週間を過ごしてきたこと、今日またここから出て行って生活するそれぞれの場所での歩みのことです。しかし、「良い行いをするために」と言われると、嬉しいよりも窮屈な、堅苦しい思いを持ってしまうことも少なくないのでしょう。今日はその「よい行い」とは何なのかを見ます。
問91 しかし、善き業とはどのようなものですか。
答 ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。
ここでは「善き業(良い行い)」とは何かを三つの要素で述べています。
「まことの信仰から」
という動機、
「神の律法」
という基準、そして
「この方[神]の栄光のために」
という目的ですね。そして、追加説明として
「私たちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません」
と付されています。「自分でよいと思うこと」には色々なことがあるでしょう。一人一人の基準や、よかれと思ってしたからといって、それが「善い行い」ではない、ということも沢山あります。誠実であれば、心を込めてであればいい、という考えは身勝手です。イエス・キリストを十字架につけた人々も、神を冒涜するのは許されないと真面目に考えたのです。親が子どもの躾だと称して、脅したり傷つけたりすることもあります。会社や社員のためだと経営者が誤魔化したり粉飾決算をしたりすることもありますが、よかれと思ってやったからといって、神も認めるということではありませんね。善き業を決めるのは、神です。
しかし、このハイデルベルグ信仰問答が強く意識しているのは当時の教会の背景です。教会外で、神を知らない人たちのことではなくて、教会の中、イエス・キリストを知り、聖書をよく学んでいるはずの所でのことです。そこでも、人間が「善い行い」と称して、難行苦行や、献金や、教会制度への従順を強いていた実情を意識しています。そういうときに聖書の言葉を引用して根拠だと言って「神を喜ばせなければならない」とか「そうしないと神を怒らせる」などと強制してきたのです。しかしそれは
「わたしたちがよいと思うことや人間の定め」
であって、キリスト者の「善き業」ではないと言うのです。
「良い行い」とは
「まことの信仰から、神の律法に従って、この方の栄光のために行う」
ことです。その
「真の信仰」
とは、問21で言われていました。
ハイデルベルグ信仰問答21 まことの信仰とは何ですか。
答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。
それはただ本当の神を信じるというだけでなく、その神ご自身が下さる神への信頼です。また、「罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられる」という「恵み」を知っている信仰です。そういう圧倒的な神の贈り物を信じる心から来るのです。決して、私たちが善い行いをしないと怒るとか、私たちの善い行いによって機嫌が直るような、そんな人間的な神ではありません。神を恵みのお方として信じ、揺るがない関係があると信頼することから、初めて私たちの生き方が、よいもの、喜びや感謝に溢れるものとなります。
「神の律法に従って」
もそうです。
「神の律法」つまり聖書には、私たちの信仰と生活の基準が書かれています。けれども、聖書を読めば分かりますが、決して聖書には規則や戒めや道徳が延々と書かれているわけではありません。また聖書には、神様に従順に従って生きた立派な人たちの「偉人伝」が書かれているわけでもありません。また、旧約聖書と新約聖書という大きな展開でも、教会はユダヤ民族の様々な律法を、ユダヤ人以外の異邦人に強制しない道を選びました。ですから
「神の律法に従う」
というのは、聖書に書かれているいくつかの規則を鉄則にして、そのままに行う、というようなことではないのです。聖書自体が、そうした表面的な律法主義を戒めて、警告しています。聖書は神の戒めを書きつつも、そこに生きる事が出来ない人間の現実も書いています。人間の失敗、自己中心、弱さや失敗を書いています。そういう人間に寄り添って、赦しと回復を与えてくださる神の物語が聖書です。その中心にあるのは、神の子イエス・キリストのお姿です。私たちはイエスのお姿、言葉、行動を、聖書からいつも教えらて、神の律法を知ることが出来るのです。規則や義務ではなくて、イエスに目を留めていくことが
「神の律法に従うこと」
です。そして、そのようにイエスに信頼し、恵みに驚きながら、イエスがされたように、この世界の破れ、人の傷や喜びや存在に関わっていくことが、
「神の栄光のため」
という目的になっていくのです。
こう考える時、エペソ書の2章10節の言葉は改めて素晴らしいなぁと思うのです。
10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
これは「善い行いをしなければ」というプレッシャーはどんな意味でもありません。神が私たちを一方的な恵みで救ってくださいました。神に愛された者として、神を恐れることなく信頼して、生きるのです。そして
「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」。
自分が立派なことをしようと背伸びする必要はありません。何をすべきかと恐れる必要もありません。そういう立派な行いや人間的な基準での「善い業」という考えとは全く違う
「善い業」
がキリスト・イエスにあって与えられました。キリストを通していただいた信仰、聖書の生き生きとした教え、そして自分のためではなく神の栄光のために生きていくのがキリスト者です。そして、そのように神への信頼をもって生きる時、神はその良い行いをも予め備えてくださっている、という約束もあるのです。
キリストは私たちを愛して、意味や目的や使命を持つ人生を備えてくださいました。それを果たす力も心配しなくて良い。そう信頼して生きる事自体が、キリストが備えてくださった良い行いであり、神の栄光なのです。