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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問119「祈りのお手本」マタイ6章5-15節

2018-04-23 06:34:15 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/22 ハ信仰問答119「祈りのお手本」マタイ6章5-15節

 夕拝では「祈り」についてともに教えられてきました。前回は、私たちはすべての必要を神に求めるよう命じられていることと、その事をイエスが教えてくださったという問118でした。それを受けて、今日から主イエスが教えられた主の祈りに入ります。

問119 主の祈りとはどのようなものですか

 その答は、先ほどもご一緒に口にしました「主の祈り」が引用されるのです。そして次から主の祈りの言葉が一つずつ丁寧に解説されていきます。今日は、言葉の細かな所ではなく「主の祈り」の全体的なことを見ていきましょう。

 まず、先のマタイの福音書でありましたように、これは、主イエスご自身が弟子たちに教えて下さった、祈りのお手本です。マタイの六章とルカ一一章に記されています。その二つは細かく見ていくと意味が違う所もありますが、元々イエスご自身があちこちで何度も「このように祈りなさい」と教えてくださっていたのでしょう。その時に、少しずつ違う言い回しを使っておられたのかもしれません。ルカが書いたものとマタイの記録とが違っているのは、矛盾や食い違いではなく、むしろ、イエスが教えられた祈りの豊かさ、型にはまらない自由さの現れだと思うのです。

 これは「主の祈り」そのものに言えます。イエスは私たちにこのように祈りなさいと教えてくださいましたが、ただ「主の祈り」を機械的に唱え続けるようにと命じたのではありません。一字一句間違えずに、繰り返していればいい、というのではありません。「主の祈り」は祈りのお手本であって、この祈りをよく味わい、身に着ける事で、私たちの祈りの土台や骨組みが作られるのです。イエスが仰ったのは「このように祈りなさい」という手引きで、祈りの決定版を下さったのではありません。

 よく考えもせず、分かってもいない言葉をただ繰り返すような事があったために、その反動で教会の中にも、祈りの言葉を嫌う傾向があります。「成文祈祷」より「自由祈祷」を推奨する教会が多いのです。確かに、成文祈祷より自由祈祷の方が「自由」ですし型に囚われず、自分の心の思いを祈る事が出来ます。しかし、それで祈りが成長するかというと結局リードしてもらう事がないので、成長がないことが多いのです。また、意外と誰か周りの人の繰り返している言葉を真似していて、「自由」とは限りません。そしてそのような自分なりの「祈祷文」を繰り返しているだけで、必ずしも心がこもっているとは限りません。独り善がりな祈りのまま終わってしまいます。そして、こちらの自由裁量に任されてしまうだけに、心が落ち込んだり塞いだりして祈れない時には祈れなくなって、ますます神が見えなくなってしまいます。

 ある方が、私たちは「主の祈り」の逆で祈る事が多い、と言いました。「逆」とは

私たちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
私たちに負債のある者を赦しましたように、私たちの負債をもお赦しください。
私たちの日ごとの食物を、今日もお与えください。
御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。
御国がきますように。
御名が聖とされますように。

 「助けて下さい、罪は責めないでください」、まず自分のことを祈って、それから神様の御心を祈り、御名が崇められますようには一番最後になりやすい。それが私たちの思いつく、そして戻ってきやすい発想です。だからこそ、主イエスが教えてくださった祈りを味わう時、私たちは、自分流の祈りを繰り返す事から解放されるのです。自分が助かることが一番大事になってしまう考えから、もっと大きく、神の御名が聖とされることを第一に願う考えへとシフトチェンジしてもらうのです。自分の名前よりも、神の御名のために祈る。自分が王様のように思い通りにしたい考えから、神が王である御国の来る事を願う。そのように自分の思いを軌道修正してもらうのですね。私は「主の祈り」を自分にとっての「軌道修正の祈り」と呼んでいます。

 マタイの福音書でイエスが「主の祈り」を教えられた時も、父なる神に対する根本的な勘違いをまず指摘なさいました。人に見せるために祈るのではなく、隠れた所で見ておられる神に祈りなさい。また、同じ言葉を繰り返して、長々と祈れば聞いてもらえると思うような神を小さく考える間違いを止めなさい、と仰いました。私たちの必要をすべてご存じの神に、また隠れた心の奥までご存じの神に、祈っているのだと思い出させてくださいました。この絵のように、沢山の生贄を献げたり、ゴージャスな礼拝をしたら神を動かす事が出来る、という宗教がたくさんあったのです。

 今でも教会の中に、熱心に祈れば、神様を祈り倒せると言っている教派があります。それはイエスが引っ繰り返された考えです。神の偉大さ、また私たちに対する深い関わりに立ち戻らせつつ、主イエスは「主の祈り」を教えてくださったのです。

 神は私たちのすべての必要をご存じで、それを満たしてくださる「天の父」です。すべてをご存じの神です。では私たちは祈るのでしょうか。祈らなくても、神は私たちの必要をご存じなのではないでしょうか。この事については、問116で既に見ましたが、こう言い換えることも出来ます。神は私たちの必要をご存じです。その神が私たちに祈りを教え、こう祈りなさいと「主の祈り」まで与えてくださった、ということは、私たちに祈りが必要だ、ということです。「主の祈り」を祈る事で、私たちは、すべての必要をご存じである神を、天の父として仰ぐことが出来るのです。祈る事で、焦りや疑いや傲慢や裁く事から救われるのです。軌道修正をしていただくのです。自分のことしか見えない生き方から、神の広い世界に立ち戻って、深く息を吸って、伸び伸びと歩むことが出来るのです。飾ったり、格好をつけたりせず、聴いておられる神の前に、自分の思いも悩みも恐れも悲しみや怒りも祈ることが出来るのです。

 「主の祈り」をそれぞれの生活でゆっくり味わいつつ、祈っていきましょう。立ち止まりつつ、繰り返したり前に戻ったり、自分の祈りも合間に差し挟んだりしながら、天の父とお話ししましょう。そして主イエスがこの祈りを教えてくださったのですから、天の父が自分の祈りを聞いてくださらないはずがないと信じる時、私たちは、実にこの世界で大切な役割を果たしているのです。天と地とをつなげる祈りに加わっています。また、世界中の人たちがそれぞれの言葉で「主の祈り」を祈っている、その大きな輪に連帯しています。この祈りを学び、普段毎日祈り、そして魂を養っていただきましょう。

 

 

成文祈祷

自由祈祷

主の祈り、聖書の祈り

「祈祷書」や先輩たちの祈り

「成文祈祷」を使わない

利点

リードしてもらえる

内容・言葉などを教えられる

深みがあり、養われる

教会とつながる

祈りが出て来ない時も使える

自由に祈れる

型に囚われない

自分の思いに気づける

 

欠点

言葉だけの繰り返しになる

心がこもらない

理解が難しいときがある

進歩がない

意外と誰かの言葉の真似が多い

心がこもっているとは限らない

独り善がりで終わる

祈りが出て来ない時は出来ない


問117「祈りは聞かれます」ルカ18章9-14節

2018-04-15 20:51:27 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/8 ハイデルベルグ信仰問答117「祈りは聞かれます」ルカ18章9-14節

 二週間、主の十字架と復活を記念する「受難週」と「イースター」を過ごしました。イエスが想像を絶する苦しみを受けてくださったこと、そしてよみがえって、今もその力で私たちに働いてくださっている。その素晴らしい恵みを思いました。今日からまたハイデルベルグ信仰問答に戻ります。祈りの学びを再開しますが、十字架と復活と別の話ではありません。イエスの十字架と復活は、私たちと神とを親子関係に結びつけてくれました。私たちが、神を親しく「天のお父様」と呼ぶ親しい永遠の関係をくれました。その事が最もよく現れているのが、祈りです。ですから、祈りについて学ぶだけでなく、私たちの普段の生活で祈ることも励まされて、夕拝を続けて行きたいのです。

 前回116では、祈りが私たちに必要であることをお話ししました。今日の117では、祈りに求められることは何か、三つの姿勢を挙げています。

問117 神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。

答 第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。第二に、わたしたちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。第三に、わたしたちが無価値なものであるにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れようとしておられるという、揺るがない確信を持つ、ということです。そのように、神は御言葉においてわたしたちに約束なさいました

 ここで祈りに求められるものとして3つあげているのは、どれも私たちの心の姿勢や考えです。見える外見のことではありませんし、形式的なことではありません。呪文のようなものがあって間違わないとか、沢山の献げ物をしましょう、ということではないのです。私たちが聖書から教えられる祈りは、神との心の関係を問います。それなしに、沢山の生贄や花輪や人柱を立てれば神が聞かれるだろうとか、強力な呪文を唱えたら、こちらの大きな願いも聞いてもらえるとか、そういう世界ではありません。

 まず、私たちが

「御言葉において私たちに啓示された唯一の真の神に対してのみ、この方が私たちに求めるようにとお命じになった全ての事柄を、心から請い求める」。

 聖書において私たちに語りかけておられる、唯一の神だけに、全ての事柄を求める。それも心から。自分に都合の良い神を造り出したり、二股を掛けたり、人間はしがちですが、神は人間の都合でどうこう出来る方ではありませんから、まず、神は神であって、この方以外にないと肝に銘じるのです。そして、自分に都合の良いことだけでなく、聖書で求められているすべてのことを求める。これは、次の問118以下で触れますが、自分が欲しいものだけでなく、知恵とか愛とか勇気、良い心も求めることを教えられます。

 第二に、私たちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前に謙る。乏しさと悲惨さ、ということはこのハイデルベルグ信仰問答で何度も言ってきたことです。これは人間のありのままの事実です。私たちは愛にも真実にも乏しく、神の大きな恵みが見えずに苦しく、孤独で、不安や生きづらさを抱えています。また、周りの悲惨や苦しみを助けることも理解することにも本当に力の無いことを痛感しています。それでいて、そういう乏しさや悲惨を認めることが苦手で、言い訳をしたり、背伸びをしたりしがちです。人と比べて自分のほうがましだと言いたがります。

 先に見ました

「パリサイ人と取税人の譬え」

はまさに典型でした。宗教的に熱心な生き方をしていたパリサイ人はどう祈りましたか。イエスは

「自分を正しいと確信して他の人々を見下している人」

に対しての警告として語られました。自分を正しいと確信して他の人々を見下し、自分は他の人のようではない、悪の生き方をしていない。「断食も献金もしています」。そう祈る祈りと、取税人として敵国ローマの手先となって生きていた人が

「目を天に向けようともせずに、「神様罪人の私をあわれんでください」

と言うしかなかった祈り。その違いは何でしょうか。ここには今日の学びの第二点

「自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、神の威厳の前に謙る」

姿勢がありません。勿論、やたらと卑下して諂って、自分を貶めるのとは違います。人との比較でない、ありのままの自分の状態を認めるなら人は謙虚にならざるを得ません。自然の前で人間ってなんてちっぽけな存在か。十字架のイエスの愛の前に、自分は何と愛のないろくでなしか。神の前にある自分の惨めさ、貧しさを認める謙虚さを忘れた尊大な祈りは、神の大きさを見失った独り言です。

 ですから第三は

「私たちの無価値にもかかわらず」

と始まりますが、私たちが無価値だと言っているのではありません。私たちは神の作品であり、神に愛されているものです。それは私たちに何が出来るか、人と比べて能力や美貌や実績があるか、というパリサイ人が見ていた価値観とは違う、深い神の愛です。ここで言われているのは、私たちが自分の乏しさ、悲惨さを思って自分を無価値だと思っているとしても、だから神も自分の祈りを聞かれないだろうと思ってはならない、ということです。自分では無価値で祈る資格もないし、祈りを聞かれると期待する資格もないと思っているとしても、主キリストのゆえに、神が私たちの祈りを確かに聞いてくださる。その揺るがない確信こそ祈る時に求められることだ、というのです。自分を卑下して、貶めて、祈る価値などないと謙るのではないのです。その逆に、自分が無価値であるかのように思う時も、主キリストのゆえに、祈りは聞かれるという確信を持ちなさい、というのです。何という励ましでしょうか。そしてそれが聖書の御言葉における神の約束なのです。

 どう祈れば良いのか、そう思うこともあるでしょう。私も以前は、失礼のないよう、堅苦しくぎこちない言葉を早口に綴って、何を祈っているかより早く終わりたくて言葉を並べ立て、終わってホッとしていました。今日の言葉の逆さですね。偉大な神に心を向けて祈るのです。自分の貧しさを早口で誤魔化したりする必要はなく、心までご存じの神が聞いておられると信頼して、心の思いをゆっくり祈るのです。その前に、聖書の御言葉をゆっくり読むだけでも、それも十分な祈りです。聖書の約束通り、神は私たちの祈りや心の呻きさえ、確実に聞いておられます。そして、私たちの願うよりも大きなご計画で、全てを益としてくださいます。祈りはその神への信頼を与えてくれるのです。


問118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

2018-04-15 20:43:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/15 ハ信仰問答118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

 祈りについて今まで二回見てきました。それは絵にするなら、聖書に基づいて、私たちがともに祈る、こんな姿に出来るかもしれません。

今日はその続きの118です。

問118 神は私たちに、御自身に対して何を求めるようにとお命じになりましたか。

 皆さんなら、神は私たちに何を求めるようお命じになっていると思いますか? どんな祈りを神は喜ばれるでしょう。逆に、「こんな願いは神に祈ってもなぁ」と思って遠慮した方がいいことはあるのでしょうか。ハイデルベルグ信仰問答はこう言います。

答 霊的また肉体的に必要なすべてのことです。主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、それをまとめておられます。

 天の神は、必要なことをすべて求めなさいと言われます。ただ信仰や礼拝だけでなく、霊的また肉体的に必要なすべてを祈るのを待っておいでです。今日食べるパンや健康、環境、睡眠など体のことから、信仰や聖さ、聖書の学び、誘惑からの守り、愛を行う勇気…。要するに、霊的また肉体的、というのは、見える必要も見えない必要もすべて、ということです。そうした全てを神に祈り求めるようにと聖書は教えています。

ヤコブ一5あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。

 ここでは知恵も求めるよう言われています。「私は知恵が無くて、もっと知恵が欲しいけどそんなこと祈ったら我が儘だろうなぁ」などと思わず、祈っていいのです。嬉しいことだと思いますね。今日から祈りましょう。でも

「少しも疑わずに、信じて求めなさい」

以下はちょっと厳しすぎると思うかもしれません。私たちは少しも疑うなと言われても、まだ不完全な信仰で、神の偉大さを十分に理解するには到底足りません。ですからここでも、ちょっとでも疑う心があってはダメだというのではなく、堂々と開き直って、疑ってかかる横柄な態度を言っているのでしょう。大事なのは、私たちの側がどれほど神の養いを信じるに足りないとしても、神はすべての良い物を十分に下さって、私たちを養い、喜び、完全な賜物さえ与えてくださっている、という揺るがない真理です。それを人間の浅はかな考えで疑うなんて態度は慎みなさい、と戒めているのです。

17すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

18この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。

 天の父である神は、私たちに全ての良い贈り物を下さり、全ての完全な賜物まで下さって、私たちを生み育てて下さるお方です。そして、神は私たちが霊的にも肉体的にも何を必要としているのか、熟知しておられます。

 最近、こんな図を見つけました。

 ここには人間の持っているニーズ(必要なもの)が九つにまとめられています。ただ食べるものがあれば人間は生きていくのではないのだなぁと気づかされますね。安全も必要です。休息(睡眠、休暇)も大切なのは、十戒で「安息」が命じられている通りですね。目的や意味、生き甲斐もなければ、人間の心は死んでしまいます。コミュニティ、仲間、支えてくれる人、所属できる居場所は本当に必要。共感してもらうこと、心と心が通い合うことがないと生きていけないのは、人間はロボットではないからです。愛、これこそ必要です。喜ばれ、尊重され、大事にされること。失敗や挫折や大きな変化や喪失をしても、変わらず自分の価値を重んじてくれる愛。しかし、愛だけで良いわけでもありません。生命の維持、食事や健康も必要です。そして、自主性。自分の意見を持てる事。自分で選択できる事。自分らしさを受け入れてもらうことも、子どもの頃から必要です。最後に創造性。何かを造り出す事、新しい物を生み出したり、創作したり。神は世界を創造されたお方ですから、神は私たちにも創造性を下さって、何かを生み出す事に喜びを感じたり、それを認めてもらう事に自信を持ったりするように、人間の心を作っておられます。

 こうした沢山の面があって、私たち人間は初めて、満たされて生きることが出来ます。そして、この全てに神が関わっておられます。私たちは、こうしたすべての必要を神に祈り求めるよう言われています。勿論、聖書には聖書の表現で、私たちの祈りの模範が沢山ありますが、そこにも私たちは驚くほど豊かな、私たちの生活の必要を網羅した願いを見る事が出来るのです。パウロはピリピの教会にこう勧めました。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 その願いを神が叶えて下さるとは限りません。しかしそれは、神が私たちの必要をご存じない、ということではありません。私たちは自分にこれがどうしても必要だ、適わないと死ぬ、自分はお終いだ、なんて気持ちで色々な事を願うでしょう。でも、その願い通りでなくても、別の方法でもっと素晴らしく神はあなたの必要を満たしてくださるかもしれません。私たちが本当に求めている必要を、神はご存じです。そして、私たちの必要を豊かに答えてくださいます。その事を信頼して、私たちは人知を越えた神の平安をいただくことが出来るのです。次回から主の祈りを見ていきます。主の祈りには、イエスが教えてくださった、私たちの必要な願いのエッセンスがあります。私たちが自分の毎日の必要を、願いを神に祈るとともに、主の祈りや聖書の言葉を通して、イエスは私たちに、本当に必要なことを教えてくれます。そうして、私たちがシンプルでも、豊かに満たされて生きていく事が出来ます。もう一度言います。何も思い煩わないで、どんな時にも、願い事を祈り、献げて、満たして下さる神の平安をいただきましょう。


問116「祈りが必要です」ルカ十一章1-13節

2018-03-18 21:09:43 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/3/18 ハ信仰問答116「祈りが必要です」ルカ十一章1-13節

 

 これはキリスト教会に残っている、最も古い、三世紀後半の壁画です。迫害や殉教の時代から、芸術を残す余裕も出来てきたのでしょうか。そのキリスト教美術の一番古いものに祈りの姿があります。それも、女性が両手を挙げて、目を天に向けて祈っているというとても自由な、明るい姿です。教会の信仰の特徴が、この祈りの伸び伸びとした姿勢によく現されているようです。今日から、祈りについて学んでいきましょう。

問116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。

答 なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです。また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけだからでもあります。

 ハイデルベルグ信仰問答も、他の信仰問答と同じように、最後に祈りについて触れ、主の祈りの解説で終わります。しかし、とても特徴的な事があります。それは、祈りとは何か、というよりも「なぜ祈りが必要なのですか」と言う言い方です。

 ハイデルベルグ信仰問答の当時、一六世紀、教会で「祈り」と言えば既に言葉が決まっていた「主の祈り」や「アヴェ・マリア」やラテン語「祈祷文」での祈りでした。今のように自由な言葉で祈る「自由祈祷」は主流ではありませんでした。そうすると多くの信徒は、あまり祈りに身が入らない。大事だと思えない、という事があったでしょう。私にも祈りが必要なの? と思ったとしても不思議ではありません。だから、そういう時代に「なぜ祈りが必要なのですか」と問いかけたのです。神が私たちの救いのために、もう完全なことをしてくださいました。ですから、私たちが生きるのは、神の恵みに付け加えるためではなく、感謝をもって生きるためだ。そうハイデルベルグ信仰問答は言ってきました。そして、

「祈りは、神が私たちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」

という言葉を生み出したのは、本当に素晴らしいことだと思います。

 祈りは

「感謝の最も重要な部分」

 しかもそれを神は求めておられます。私たちの良い行いや、献げ物にもまして、私たちが祈る事を神は求めておられる。それはとても驚くような言葉です。そして、実際に、分かる言葉で祈りを唱えるようにしたり、自由に祈ったり、祈る喜びを育てることが始まったのでしょう。だから今の時代に、キリスト者はこの時代よりももっと喜んで、祈るようになっています。

 祈りの大切さ、素晴らしさを見ることが出来ます。もしも祈りの必要性が分からなくなったり、「祈るのは面倒くさいなぁ」と思ったりしているとしたら、それはとても大きな損失です。たとえば、先の絵でも、この写真でも祈りの姿勢は本当に伸び伸びとしています。神様に向かう思いが、姿勢にも表れています。手を上げたり目を開けたり、肩を抱いたり、もたれかかったり、その人の心がそのまま姿勢になっています。以前私は「手を組むのがクリスチャンの祈りで、合掌は仏教だからダメだ」と言われたことがあります。そういう考えだと祈りは、途端に窮屈で、義務や余所余所しいものになるような気がします。

 神は私たちに祈りをお求めになります。神の救いとは、私たちを天国に入れるとか、幸せにしてくれることぐらいに考えるのは、とても勿体ない誤解です。私たちが神との関係を回復すること。私たちのすべてを祝福したもう神の恵みに感謝して、神との人格的な交わりを持つようになることが「救い」なのです。私たちが、神に祈ることもなく、ただ真面目に、清らかにしていればいいとか、それなりに幸せに楽しんでくれていればいい、とは思われません。そもそも、神が私たちのために救いを備えて、キリストの十字架というとんでもない犠牲まで払って下さったのはなぜでしょうか。私たちを愛されたから、私たちとの交わりを回復することを願い、求めてくださったからです。それこそが、神に作られた私たちの本来の生き方です。私たちは、神への感謝に生きるようにと造られたのです。祈りなくして、私たちは生きることは出来ません。私たちは祈りを必要とする存在なのです。神に祈り、感謝を献げ、恵みと聖霊とを請い求めることなくしては、糸の切れた凧のような生き方になってしまうのです。

 …また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけだからでもあります。

 この部分を私たちはどう読むでしょうか。人間がこんなことを言うなら、ケチ臭くて、依怙贔屓だと非難されます。そんな心が狭くて意地悪なのが神だとしたら、確かにそんな神を信じるのもゴメンです。そういう事であって欲しくないのは分かります。

 先に読んだルカの18章は

「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」

語られたたとえ話です。そこでイエスは

「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」

を持ち出されました。そんな不正な裁判官でさえ、貧しい女性が困って訴え続けるなら、重い腰をやっと上げるだろう、

「まして神は」

と仰るのです。

 言うまでもなく、神はそんな怠惰で強欲な裁判官とは全く違います。神は私たちを深く深く愛し、全ての必要を私たちよりも知っておられます。私たちが願わなければ動かない神ではなく、私たちの心にある全ての思いも心配も、完璧に知っておられます。しかし、そんな神に祈る事を勧めるために、あえてイエスは、不正な裁判官と貧しい未亡人という譬えを持ち出されます。それは、私たちに祈って欲しいからです。

 イエスは私たちが、祈りを聞いてくださる神を見上げて祈るようになり、失望や諦めで生きて欲しくないと願われます。また、私たちが「どうせ自分なんかの祈りなんか聞いてもらえない」と勝手に思わず「神に心からの呻きを持って絶えず祈り、感謝する」なら神は必ず聴かれると励ましてくださいました。

 神は私たちが祈らなくても全てをご存じです。いや、私たちがいなくても困りません。でも私たちを作られ、私たちが祈り神に語り、神を信頼し、この関係を喜ぶようにと、私たちをお造りになりました。イエスはそのために、人となって私たちの中に住まれ、こんなユニークな譬えを語り、ご自分の命まで与えて、関係を回復してくださいました。ですから、このイエスにあって祈りましょう。心からの祈りは決して無駄ではありません。心を神に向けて、私たちの必要を全て知り、願いも思いもすべて既にご存じの神に、ゆっくり願いと感謝をささげましょう。


問115「目標「感謝が満ちあふれる」」Ⅱコリント4章14-18節

2018-03-11 17:22:56 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/3/11 ハ信仰問答115「目標「感謝が満ちあふれる」」Ⅱコリント4章14-18節

 夕拝のハイデルベルグ信仰問答も、十戒の解説は今日が最後です。前回は十戒を守ることはどんなキリスト者にも出来ない、それは神が与えてくださった始まりを歩み出したに過ぎないとお話ししました。私たちは十戒を守って神の子どもらしく生きることが出来るわけではありません。誰もそんなことを言える人はいないのです。その続き、

問115 この世においては、だれも十誡を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまでに厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。

 どうせ一生完璧に出来ないのなら、十戒なんて説教しなければいいんじゃないの? そんな声を汲み取っています。ここではそれに対して、二つの答を教えています。

答 第一に、私たちが全生涯の間、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心にキリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされて行くためです。

 第一は、律法を教えてもらうことで、私たちは自分の罪の性質が分かる。それも次第次第にもっと分かっていく、というのです。そうして私たちがますます熱心に、罪の赦しと義とを求めるようになっていくため、と言います。確かに私たちは、律法を教えてもらってそれを守れるようになるわけではありません。けれども、律法を教えてもらわなければ、それを守れない事にさえ気づかないでしょう。自分が間違っていることに気づかず、憎んだり盗んだりウソをついたりしてしまいます。それで、とても大切な人生をもっとひどくしてしまうでしょう。あるいは、自分が悪いのに、人を責めたり、自分は悪くないと言い張ったり、自分の事を棚に上げて文句ばかりいうかも知れません。そういう狡い所も、罪の特徴の一つです。けれども、律法をしっかり教わることで、私たちは問題が、誰かとか何かとかではなく、自分が持っている問題だとハッとさせてもらえます。人のことは言えない、自分にも同じ問題があると気づけます。

 この図は、クリスチャンとしての成長を現した絵です。時間が経てば立つほど、聖書を通して、聖なる神についての知識が増えていきます。そうすると、同時に、自分自身の罪や小ささがもっと分かるようになって、ますます謙遜になります。でもそれは悲しいことや、いじけた事ではありません。小さな自分と大いなる神様とが、イエス・キリストの十字架によってつながっています。イエスの十字架の恵みがどれほど大きな、素晴らしいかが分かるから、自分の小ささも素直に受け入れるようになります。背伸びや背比べをせず、謙虚になります。だから、人との関係にも気負いがなくなるのです。

 それは全生涯かかる作業です。私はもうすぐ五〇才になりますが、小さい頃は、大学生ぐらいになったらもう人間として立派で落ち着いて、間違いなんかしなくなると思っていたんですが、その倍以上を生きても、心はまだ間違いや罪の思いが一杯あります。いま三重県にいらっしゃる尊敬する牧師も、そんなことを書いていました。若い頃は、もっとクリスチャンらしくなろうと頑張っていた。中年になってもそれが全然できない。ますます自分の罪が見えてくる。もう中年も終わる今は、あきらめて、力みが抜けて、こんな自分が神様に愛されていることを幸せだなぁ~と思う。そんなことを書いていました。罪を犯さない聖い人になったのではなくて、ますます神様に頼るようになって、毎日、赦しと行くべき正しい道を示していただいている。それを幸せと感謝している。私もそうなりたいなぁと思っています。

 先のパウロの言葉を思い出しましょう。

Ⅱコリント四15すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。

 神はやがて私たちをともに御前に立たせてくださいますが、今も私たちを訓練しておられます。色々な事を通して、私たちは誘惑もされますが、そういう中で律法があるからこそ、私たちはますます神に拠り頼み、恵みを戴きます。十戒を学ぶ歩みは、窮屈や無意味な事ではありません。恵みがますます及んで、感謝が満ちあふれて、神の栄光が現れるようになる。それが神によって今与えられた時間の目的なのです。

 第二はもっと積極的に

「完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされて行く」

とダイナミックな世界を語っています。確かにこの生涯では完成しません。私たちの中に始まった、神の子どもとしての心はほんの始まりに過ぎません。でも、やがて完成する素晴らしいゴールに向けて、今、一日一日励まされて、聖霊の恵みを請いながら歩むのです。「聖霊の恵みを請う」は、この次の問116からの「祈り」についてのお話しに続いていきます。ですから、簡単に言えば、十戒を教えられ、聖書で示されている生き方を学ぶ度に、私たちはますます祈るようになるのです。聖霊なる神が助けて下さるようにと縋るのです。私たちの成長は全て聖霊の力による恵みです。聖霊に頼らなくても良くなるのではなくて、ますます聖霊の恵みを請い求めます。神のかたちへと新しくされて、完成されることを待ち望んで、今励むのです。

 その事を書いたこんな図がありました。私たちは、キリストの心と人格を持つように変えられて行きます。そこには、計画的な訓練、学びや練習も大事です。そして、毎日の生活自体が、計画できない訓練となって、私たちを作っていきます。その頂点にあるのは聖霊のお働きです。そこには、コミュニティとアカウンタビリティと、両方での成長があります。こうした全人格的な成長であって、決して、ただ清らかに、人畜無害な聖人になっていく、というようなことではありません。こうした面があるのも参考になります。でももっとシンプルにこういうイメージをお持ち帰りください。

 私たちは種です。やがて大きな神の国という森の一本になる。そこに向けて今、芽を出したのです。とてもまだ大樹には似ても似つきません。しかし芽を出し、育ち始めたのです。十戒は、私たちがやがて完成に至る、麗しく強い神の国の姿を教えています。神以外のものに誘われたり、人間関係を壊したり怖がったりすることがなくなるのです。今はまだ信じがたい話です。そうでない世界にいます。しかしこの今の生活もまたそこに向けての訓練です。聖霊は全てを恵みとして永遠の栄光を下さいます。祈って、聖霊に拠り頼みつつ、御言葉に教えられ、励まされて、このゴールに向かって行きましょう。