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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問124「天の喜びを地に」ルカ15章1-10節

2018-05-27 17:57:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/27 ハ信仰問答124「天の喜びを地に」ルカ15章1-10節

 主の祈りの第三の願いは

「御心が天で行われるように地でも行われますように」

です。天の父の意志が行われますように。この地において、天でのように、という力強い祈り。私たちが思い込んでいるのは、「祈る」のは自分の願いを叶えてもらうため、という考え方でしょう。自分の願いが叶ってほしいから、祈りにも縋るし、願いが叶わなければ祈る事などなく、願いが叶ったとしても感謝もそこそこに次の願いを祈り始めるのです。そういう私たちに、イエスは「私の願い」のために祈るよりも、天の父の

「御心が行われますように」

という祈りを教えてくださいました。自分の願いを叶えてもらうために祈り始めた私たちは、自分の名誉も支配も願いも差し置いて、まず天の父の御名、御国、御心のために祈るよう教えられるのです。すっかり私たちは襟を正させられます。それでこそ、私たちは自分の思いに凝り固まって、神を忘れて熱くなっていた思いをすっかりクールダウンさせられて、神の前に静まらせてもらえるのです。ここにも、この「主の祈り」の革命的な斬新さ、深さ、大胆さがあります。

問124 第三の願いは何ですか。

答 「御心が天で行われるように、地でも行われますように」です。すなわち、わたしやすべての人々が自分自身の思いを捨て去り、ただあなたの善きみこころにのみ、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、そうして、一人一人が自分の務めと職責とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。

 最初に「私や全ての人々が自分自身の思いを捨て去り」とあるのは、思考停止とか主体性をなくすという意味にも取られかねません。また、神の「善き御心にのみ何一つ言い逆らうことなく聞き従えるように」というのも、ちょっと間違えると、マインドコントロールのような、宗教の教えをすべて鵜呑みにして、おかしな命令にも服従するような恐ろしい事にもなりかねません。そうした誤解、誤用はよくよく注意する必要があります。ここには「あなたの善き御心にのみ」とハッキリ書かれています。神の善き御心。それは、聖書に啓示されています。聖書全体を通して見えてくる、素晴らしい御心です。決して、聖書の一部だけを抜き出したり、聖書で繰り返されている神の恵みを踏みつけたりするような教えのことではないのです。

 この事はルカの福音書15章から気づかされます。7節と10節にこうあります。

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。…10あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 この事を教えるために、イエスは迷子の羊の譬えと、無くした銀貨の譬えをお話になりました。またこの後には、最も有名な「放蕩息子の譬え」が語られるのです。

 天の御心は一人の罪人が悔い改めること。神から離れて生きている人が、神の元に帰ってくること。そして、そのためには、羊飼いが羊を真剣に捜して見つけるまで探し歩くように、銀貨を無くした女性が、灯りをつけ家を大掃除してでも、見つけるまで注意深く捜すように、労を惜しまない。それが天の御心です。また、一人の罪人が悔い改めたなら、大喜びで宴会を開いて、一緒に喜ぶよう招かずにはおれない。その大きな喜びが、天の特徴なのだと仰ったのです。だとすると、私たちもそのような喜びを喜びとして、その喜びに押し出されて、今ここでも人と関わり、この喜びを惜しまずに分かち合うことこそ、

「御心が天で行われるように、地で行われる」

ことに他なりません。

 ルカの福音書15章のきっかけとなったのは、イエスが取税人や罪人たち、当時は神から遠く離れた生き方をしていると見られていた人たちと食事をしていた事でした。正確には、そういうイエスを見て、パリサイ人や律法学者たちが文句を言ったことでした。パリサイ人や律法学者たちは聖書に忠実に生きよう、まさに神の御心に生きようとして、禁欲的に、真面目に、規則正しく生きようとしていました。そうする事で神を喜ばせようと思っていたのでしょう。しかし彼らの考えからすると、神の御心に生きようとしていない世俗的な人、勝手な人生を送っている人は一緒に食事をする価値もない、呪われた人々だ、ということになったのでしょうか。それなのに、イエスは自分たちを差し置いて不真面目な人々と一緒に食事をしている、と文句を言ったのです。しかしそれこそ、天の父の愛に言い逆らって、自分の思いを押し通そうとする生き方でした。

 私たちもそんな狭い心、冷たい考えになりやすいのです。だから、そうした自分の思いを捨て去り、神の善き御心に言い逆らうことなく従えるように願うのです。それも心を殺して従順なロボットのように聞き従うのではなく、一緒に喜びなさい、と言われる御心です。そして、その神の愛の御心を喜び願うからこそ、イエスがして下さったように、忍耐をして、労を惜しまずに、人の魂を大切にし、尊び、喜び迎え、イエスを伝えたいと願うのです。

「そうして、一人一人が自分の務めと職責とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。」

 神は、御自身の御心を確実に完全に果たされます。神のご計画を妨げることが出来るものは何もありません。同時にそれは、神から羊のようにさ迷い離れ出た人をもう一度、神との交わりに入れてくださるという御心です。聖書は、そのような回復の物語を繰り返しています。また、私たちもお互いにそのような御心を学び、受け入れ、そのような喜びを持つようになって、そのために自分の務めや責任を果たしていくようになる。そういう御心なのです。なんと回りくどいことでしょうか。

 そのために神はどれほど忍耐し、犠牲を払わなければならないことでしょうか。それでも神は、それを無駄だとは思われず、むしろ、そのような回り諄い手間暇を掛けてでも、私たちを取り戻し、私たちと心を一つにしたい。互いに受け入れるようにしたいのです。世界が問題や過去の失敗や対立で深く傷ついているからこそ、神の大きな愛に私たちを招いてくださるのです。やがて私たちはそのような神の大宴会が始まることを約束されています。それは今私たちには想像も出来ないような、大勢の人々が神の家族として一つとされる姿です。今は考えたくもない信じがたい喜びに包まれるのです。私の考えや意志よりも遥かに大きな神の御心がある。その神のご計画が今ここでも行われるように、私たちもその心を心として喜んで果たせるよう祈りましょう。


問123「義と平和と喜びの神の国が来る」ローマ14章13-19節

2018-05-20 15:54:53 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/20 ハ信仰問答123「義と平和と喜びの神の国が来る」ローマ14章13-19節

 

 主の祈りの第二の願いは

「御国が来ますように」

です。この御国とは「あなたの国」という意味で、

 「国」とはKingdom、王国

という言葉です。これは神が王として治めておられる国や、神の御支配そのもののことです。神が王様となって治めてくださる。もし「御国」を死んだ人がいく「天国」のようなものとして考えていると、

 「御国は早く来ませんように」

となるでしょう。ですから、安心してください。ここでの祈りは、神が王として治めてくださるという、もっと大胆で力強い願いです。そして、イエス・キリストの御生涯は、この「神の国」の教えで始まって、「神の国」の譬えや教えを繰り返し、弟子たちも「神の国の福音」を伝え続けたと聖書は記しています。では、神の国が来ますようにとは、ハイデルベルグ信仰問答はどうまとめてくれているでしょう。

問123 第二の願いは何ですか。 

答 「御国が来ますように」です。すなわち、あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできるようにあなたの御言葉と聖霊とによって私たちを治めてください、あなたの教会を保ち進展させてください、あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください、ということです。

 この最初にはまず

「あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成」

とあります。神が王としてすべてとなられる「完成」。これも大事なことです。先にも「神の国」とは「死んだ人が行く天国」とは違うと言いました。聖書は、この世界と死んだ人の天国という二階建ての考えではなく、あえて図にするなら、このような流れを考えているようです。

つまり、今の世界はやがて終わって、その後に「永遠の神の国」が始まるのです。それが始まるのは、この世界が終わってからです。それまでも死ぬ人はいますが、先に「永遠の神の国」に行くわけではありません。しかし勿論それまでに死んだ人に「パラダイス」という言い方で語られている過ごし方をするようです。詳しい事は分かりませんが、一つ確かなのは、主とともにいる、ということです。そして、最後にはこの人たちも全員がよみがえって、そこから一緒に神の国に迎え入れられます。こういう大きな流れがあります。二階建てではなくて、むしろ、世界は川の流れのようです。最後には海に流れ込むように、永遠の世界に向かっているのです。そしてだからこそ、そこに向かって、今も、神の国に生きるように、神を王とする生き方を始めさせてほしい。それがこの祈りの解説の第一で言われていたことです。

「私たちがいよいよあなたにお従い出来るように、あなたの御言葉と聖霊とによって、私たちを治めてください」。

 正直言って、私が願うのは

「神の国」

よりも

「私の国」

です。自分が王様のように威張っていたいのです。自分の考えや願いを通すような「神の国」であってほしいのです。聖書は、人間が神から離れて、神よりも自分が王になろうとして、神の元に帰ろうとしない人間の物語です。自分が永遠になろうとしては砕かれる人間たちが登場する物語です。人間は皆、裸の王様みたいなおかしな生き方をしてしまって懲りないのです。第一祈りと同様、第二の祈りでも

「私の国ではなく、あなたの国が来ますように。王は私ではなく、あなたなのです」

と祈るのです。もし、自分が王でいたい、自分の思い通りがいいという願いを握りしめたままなら、神の国はその人にとって決して幸せな場所とは思えないでしょう。永遠の御国なんて真っ平御免です。それが神から離れてしまった人間の罪の現実です。

 

 ですから、私たちは自分に都合の良い神の国が来ると思い込んだりせず、今ここで、御言葉と聖霊とによって治めていただくことを求めます。私たちの心も考えも、生き方も、聖書の御言葉を教えられながら、新しくされ、変えられていくことを求めるのです。また、見えない聖霊のお働きによって、私たちが御言葉を受け入れ、従えるよう、働いて下さることを切に願うのです。

 第二に

「あなたの教会を保ち、進展させてください」。

 教会は神の国の現れです。決してイコールではありません。神の国の完全な支配に比べると、教会は実に不完全で、未完成の集まりです。そしてその弱さや不完全さを通して、神の御支配が本当に恵み深く、あわれみによる御支配であることを現すのです。土の器を通して、謙虚に、神様の慰めを指差すのです。それを忘れて、私たちが神様の支配を振り翳し、暴君になってしまうことがあります。或いは、神を伝えることをすっかり忘れた形ばかりの教会になり、内輪だけの世界を造ってしまうこともよくあります。だから、私たちは祈るのです。

「神の国は…聖霊による義と平和と喜び」

 将来の天国ではなくて、この神の国の現れとして保たれ進展することを祈るのです。神の御支配を祈り、教会が教会として前進していくように、御言葉と御霊によって、教会を通して、神の恵みの御支配が現されていくようにと祈るのです。その教会が祈る事、祈る姿そのものが、神の国の証しです。

 最後に

「あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください」

がありました。この祈りが何と大胆で、驚くほどの内容でしょうか。確かにこの世界には、神の国に逆らう力が様々に働いています。日本の国の政治や経済は大きく揺れ動いています。また、世界にはアメリカのような大国があります。沢山の国々が拮抗しています。そうした世界の中で、私たちは

「神の国が来ますように」。

 天の父よ、あなたの国が来ますように、と祈ります。日本やアメリカ、イスラエルなどの国々を越えた神の国の到来を待ち望みます。国家や民族が争ったり、国境で排除したり、力で競い合ったりする中で、どの国も永遠に続く事は出来ない。ただ、神の国だけが永遠の国になる、と信じます。そして、その国の王は、恵みに満ちたイエス・キリストです。偉そうにする王ではなく、ご自分を献げてくださり、私たち小さな者を顧み、祝福してくださる王です。また、民族や生まれや文化の違いを超えて、どんな人をも受け入れ、一つの国として下さる王です。その国の到来を信じて、待ち望むのです。そして、今の私の生活、また私たちの交わりがそのような国を現すよう祈りなさいとイエスは教えてくださいました。イエスがそう仰った以上、王は今ここでの私たちの中に神の国をもたらしたいと願っておられるのです。信じて、祈りましょう。争ったり裁いたりせず、自分の支配やこの世の力よりも強く素晴らしい神の国を待ち望みましょう。その神の国が、やがて永遠の完成をするのです。


問122「第一の願いは何だろう」詩篇115篇

2018-05-13 16:21:42 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/13 ハ信仰問答122「第一の願いは何だろう」詩篇115篇

 

 主イエスが「主の祈り」を教えられていなければ、私たちはどんなことを一番に願うでしょうか。何が私たちの願いでしょうか。ともあれイエスは私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。そこで第一に何を願うよう教えられたのでしょうか。

問122 第一の願いは何ですか。

答 「御名が聖とされますように」です。すなわち、第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すそのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、賛美するようにさせてください、ということ、第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなくかえってあがめられ賛美されるようにしてください、ということです。

 去年から「新改訳2017」を用いるようになって、ここが変わりました。

「御名が崇められますように」

だったのが

「御名が聖とされますように」

となりました。確かに原文では「崇める」よりも「聖とされる」という意味です。

 神は聖なるお方です。全く汚れや利己心とか下心、邪心などのない、寄せ付けるもののない憐れみのお方です。聖という字は「きよい」とも読みますが、「きよらか」というと白を思い浮かべるかもしれません。しかし、その白さには黒いシミをつけることが出来ます。人間が考える清さは、汚す事が出来る白さです。けれども、神の聖さ、聖は汚す事が出来ません。むしろ、汚そうとするものまで聖く変えてしまいます。真っ白い布のような白さというよりも、眩く輝く光のような白さが、神の聖です。不純物を取り除いてしまう火のような強い聖さです。光より強い闇がないように、神の聖は火のように強いのです。神は永遠に、汚れや罪や打算とは無縁で、憐れみ深く、恵みに満ち、惜しみなく与える愛のお方です。

 そして、その神の聖なることが最もよく現れているのは、神の御名です。特に「主の祈り」では、私たちは神を

「天にいます私たちの父」

と呼びます。神が私たちの天の父となって下さったことは、神が私たちに御自身の聖なることを最もよく分かるように表してくださった恵みですね。それは限りない恵みです。尊い約束です。その事を思う時に、私たちは神を

「天にいます私たちの父」

と心からの賛美と信頼をもって呼びかけるはずです。しかし、神がそのように私たちに御自身の聖なる憐れみを示してくださったのに、それがまだまだ分からないのも現実です。それは勿体ない事です。

「御名が聖とされますように」

とは、ですからまず、神が私たちの天の父となってくださった素晴らしさを、私たちが正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すすべての御業において、あなたを聖なる方として、崇め、賛美するようにさせてください、という祈りだとされるのです。ただ私たちが口先で神様をほめ称える、というだけではないのです。神を本当に聖なる方として知るように、そして、神の御名が聖とされるようにしてください、という願いなのです。詩篇115篇は、こう始まりました。

私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
 ただあなたの御名に 栄光を帰してください。

あなたの恵みとまことのゆえに。

 その後の言葉を辿っていくと、他の神々を信じる人から、「お前の神は目に見えないぞ。一体お前の神はどこにいるんだ」と馬鹿にされていたらしい。それに対して、目に見える神、人間が考え出せる神は、どうあっても限界がある。けれども、私たちは天地を造られた神を信頼します。この神は私たちを助けて下さる方、私たちを祝福してくださる方。大いなる者も、小さな者も。そんな神は、人間が作ることも考え出す事も出来ない大いなるお方。その方を私たちは信頼します。だから、私たちが求めるのも、自分の栄誉とか、自分の面目が保たれることとか、自分が高くなることではなくて、主よ、ただあなたの御名に栄光を帰してくださることを願います。そして、それは

「あなたの恵みとまことのゆえに」。

 あなたが恵み深く真実だから、言い換えれば、あなたが聖なるお方であるから、まずあなたの御名に栄光が帰されますように、と祈るのですね。

 私たちは、天地を造り、私たちに命や幸いや助けを惜しみなくくださる神を信じています。滝のように恵みを注ぎ、私たちを生かし、祝福を与えてくださっているお方を礼拝しています。私たちの天の父となって下さった方を信じている…はずです。それなのに、私たちはその方のことを差し置いて、自分の名誉や自分の面子、自分の思い通りになることを考えてしまうことが少なくありません。神様に向かってまず栄光を帰して、神の聖なることをほめ称えるよりも、聖とは反対の自己中心、利己的な願いを恥ずかしげもなく神に訴えてしまうということをしてしまいがちです。惜しみない恵みの神に、自分の思い通りにならないことで権利を主張している、考えてみれば、赤面ものの願いにどうしても陥りやすいものです。だからこそ、私たちが「主の祈り」で、最初に何を差し置いても、

「天にいます私たちの父よ。あなたの御名が聖とされますように」

と祈る時、私たちの優先順位に気づかされるのです。「あなたを忘れて自分に、自分が、自分の、と祈っていたけれど、そうじゃない、私にじゃない。まず栄光を受けるのは、私ではなくて、聖なる神だ。私は神ではない」。そう気づかされるのですね。私が神よりも出しゃばろうとしていたことに気づいて、自分は神ではない。自分が崇められなくてもいい。そして、自分がまず神を聖とさせてくださいますように、と祈るのです。

 そうです。

「御名が聖とされますように」

が神へのお世辞や社交辞令であれば、それ自体、御名を聖としない冒涜です。まず私が御名を聖とさせてくださいと祈るのです。私たちの生活の全て、思いと言葉と行いを正していただき、私たちが御名を汚す事なく、かえって私たちを通して御名が崇められ賛美されるようにしてください、という祈りになります。それは、私たちが立派な事や称賛を得ることによってではありません。神が聖であるとは、神が100%憐れみ深い方、惜しみない憐れみのお方であることです。ですから私たちが、自分の弱さや罪に正直になり、この神の聖なる憐れみをたっぷり戴いて、喜んで真っ直ぐに生きること。間違いを犯した時には正直に認めて、そこから回復をいただくこと。また、他の人が間違った時にはそれを見下したり裁いたりせずに、真っ直ぐに向き合い、その回復のために祈り、サポートしていく事。そういう私たちの交わり、祈り、愛し合う、謙った生き方を通して、神が聖とされるように、と願うのです。


問121「遠くて近い天の父」Ⅱ歴代誌6章12~21節

2018-05-06 20:24:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/6 ハ信仰問答121「遠くて近い天の父」Ⅱ歴代誌6章12~21節

 今日も「主の祈り」を祈りましたが、その最初に「天にいます私たちの父よ」と呼びかけました。その「天にいます」とはどういう事なのでしょうか。

問121 なぜ「天にいます」と付け加えられているのですか。

答 わたしたちが、神の天上の威厳については地上のことを思うことなく、その全能の御性質に対しては肉体と魂に必要なことすべてを期待するためです。

 二つのことが言われています。第一に神の威厳(厳かさ、重々しさ)について、第二に神の御性質について、です。第一の神の威厳は、天上のものですよ、この地上の世界の威厳とは違いますよ。文字通り、雲泥の差、天と地ほども違うのが神の威厳なのですと思うためだ、と言います。人間の世界にも、神のように崇められるものもあります。古代の王国の話や宝物や軍隊の話を聴くと、信じられないような話も沢山あります。でもそうした人間の凄さにどんなに圧倒されても、やがてはそれは失われます。違う人に追い抜かれたり、朽ちていきます。また多くの人間の威厳には、嘘があったり、暴力があったりします。聖書の時代にも、見えない神を信じることを忘れさせるような建物や財力が沢山あったようです。しかし、それは今殆ど残っていません。もう住む事も出来ない廃墟が残っているぐらいです。教会でさえそうです。聖書の時代から今に至るまで、大きな教会も何百年で交代しています。父なる神様の威厳は、そのような地上の権威とは違います。神の権威は決して朽ちることがありません。また、ごまかしや暴君のような所もありません。神の威厳は天上の威厳であって、人間の威厳のようなものではない。そう念を押すために

「天にいます私たちの父よ」

と言うのです。これが第一です。

 第二に、天の父の御性質が天のものであるとは、私たちにとって遠い、ということではありません。神は私たちの父となってくださったのですから、私たちに関わり、私たちを養ってくださるのです。それも、神は天の父という測り知れない大いなるお方なのですから、私たちの必要なこと全てを期待して良いのです。天の父への信頼をも、完全な信頼へと広げてくれる。それが、「天にいます」と付け加えるもう一つの恵みです。

 先ほど第二歴代誌の言葉を読みました。ソロモン王が神殿を建てた時の祈りです。2年も掛けて、立派な神殿を建てたのです。その最初に、ソロモンが台の上に載って、主に祈った、長い祈りが記されています。ここでソロモンはこう祈っていました。

Ⅱ歴代誌六13…そしてイスラエルの全会衆の前でひざまずき、天に向かって両手を伸べ広げて、14こう言った。「イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。

 天に向かって祈っていますね。そこで天にも地にも、あなたのような神は他にありません。私たちが精一杯あなたの前で、あなたに仕えながら生きようとする者に、契約と恵みとを守られる。神の約束してくださった契約を決して破棄されません。また、恵みもいつまでも守ってくださる。そんな神はあなたの他にいない、と言ったのでした。

 けれども、この後にソロモンが言った言葉でもう一つ、忘れがたい言葉があります。

18それにしても、神は、はたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。

 この建てたばかりの立派な神殿を自慢するのではありません。いや、神は地の上に住む方ではないし、天だって十分ではありません。天の上に天があるとしても、そこにもあなたをお入れする事は出来ません。まして、この神殿など尚更あなたをお入れする事は出来ません、というのですね。とても大胆で、謙虚な言葉です。

 確かに神は天よりも大きな方です。聖書は神が天と地をお造りになった、と教えていますし、私たちはそう信じています。神は天と地をお造りになった方で、天と地よりも大きなお方です。私たちから観ると、天は途方もなく大きく、広い、手の届かない世界です。けれども神から観ると、地球だけでなく、宇宙全体が小さなものなのでもないでしょうか。

 宇宙は神の手の中にあるもの。神が愛おしんで造られたとは言え、その天に神が入る事は出来ないはずです。天の天も神の家には小さすぎます。しかし、その宇宙の中のほんのちっぽけな私たち人間を、神は愛おしみ、その私たちを子どもとしてくださり、私たちから「父よ・お父ちゃん」と呼ばれる事を神は喜んで選んでくださいました。それと同じように、神はこの世界の中の天に下りて来られて、私たちの

「天の父」

として御自身を現してくださったのです。天の天も神には小さいのですが、それで終わっては、私たちは全く神をイメージすることが出来ませんね。神が天にいますと呼べることで、私たちは神を

「天にいます父」

と思えるのです。ですから神が

「天にいます」

ということは、私たちにとっての遠さ、距離感ではありません。その反対です。神が近くなって下さった、ということです。天が入れる事が出来ないはずの偉大な神が、私たちに神の威厳の偉大さを思えるように、そして、神が私たちに必要なすべてのものを下さるとハッキリ確信できるようにと、天にまで降りて、近づいて来て下さったのです。

 ですから、私たちは

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかける時、神が遠い天におられる方ではなく、天にまで近づいて私たちをご覧になり、支え、励ましてくださる神に、ますます信頼を寄せるのです。更に、天に留まらず、神の子イエスはこの地上にまで降りてこられ、私たち人間と同じになることを厭われませんでした。私たちを神の子どもとするために、父なる神と子なる神が惜しみないチームプレーで近づいてくださいました。その御業を思って、私たちは今、天を観ながら生きていけます。

伝道者の5章2節「神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」

 神は天におられ、あなたは地にいる…。それは距離の遠さではありません。天よりも偉大な神が、天に来られて、私たちの「天の父」としてご自分を示してくださっています。心からその偉大さを崇めて、大きく信頼を寄せるのです。天の父の偉大さを忘れて、人間の小さな考えや焦ってしゃべっていることがよくあります。この方に祈るのは、たくさんの言葉を並べ立てるより、少ない言葉でゆっくり、信頼を育む時間なのです。


問120「天のお父ちゃん」Ⅰ列王3章16~28節

2018-04-29 17:04:06 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/29 ハ信仰問答120「天のお父ちゃん」Ⅰ列王3章16~28節 

 今日から「主の祈り」についてゆっくりと見ていきます。暗唱しているほどの「主の祈り」ですが、それでもただ習慣的に、意味を考えることなく唱えて終わっていないでしょうか。勿体ない事です! ゆっくり味わいながら、イエスが下さった素晴らしい贈り物として祈りましょう。そのためにも今日からの学びに期待したいと思います。

問120 なぜキリストはわたしたちに、神に対して「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。

答 この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とをわたしたちに思い起こさせようとなさったからです。言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親がわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神はわたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとはなさらない、ということです。

 イエスは主の祈りでまず

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかけることを教えてくださいました。日本語では最初に来るのは「天」ですが、元々の言葉では「父よ」です。ですからここでは、キリストが私たちに「父よ」と呼びかけるようにお命じになったことを確認させてくれます。何を祈るか、どう祈れば良いか、よりもまず冒頭で、神を「父よ」と呼ぶように教えて下さった事自体の素晴らしい恵みを思い起こさせます。

ガラテヤ書四4しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

 神の御子が律法の下にある人間となってくださいました。それは、人間を(私たちを)子としての身分に与らせてくださるためでした。そして、キリストが私たちに神の子どもの身分を授けてくださったので、神は私たちに御子の御霊(聖霊)を遣わしてくださって、私たちが神を

「アバ、父」

と叫び求めるようにしてくださった。私たちは、奴隷やお客様という他人行儀の関係ではなく、神の子どもという確かな絆を頂いたのです。

 「アバ」

という言葉は「お父さん」を呼ぶ子どもの呼びかけです。それも小さな子どもがお父さんを呼ぶ時の、幼児語です。お父ちゃんとかパパとか、そういう幼児の呼びかけです。まだ話し始めたばかりの子どもが、「アッバ、アッバ」という、あの言葉です。この当時でも、家の外で子どもがお父さんに「アバ」と呼びかけるのは恥ずかしいと考えられていた、それぐらい親しい呼びかけです。そういう言葉で、イエスは父なる神に「アバ」と呼びかけられました。そして、それと同じ親しい関係を下さったことが、私たちにも「アバ、父」と呼ぶ関係を頂いていることには込められているのです。神に親しく「アバ(お父ちゃん)」と呼びかけて祈る、そういう親しい関係です。

 「父」という言葉は

「畏敬と信頼」

を思い起こさせる、と言います。「畏敬」というのは、偉大さを忘れない、ということです。馬鹿にしたり軽んじたりしない。神を親しく呼びつつ、しかし神の偉大さを踏みにじるのではなく、ますます心から、喜んで神への敬意、礼拝を惜しまなくなるのです。この事については次の問121で見ましょう。今日はその前に違う角度からこの事をお話ししておこうと思います。

 ひょっとすると「神は天の父だ」と言われて、嬉しいと思えない人もいるかもしれません。厳しいお父さん、怒りっぽいお父さんで、安心できない家庭経験をしている方は少なくありません。今でも沢山の映画や小説で、父親とのギクシャクした関係がテーマになっていることがよくあります。自分のお父さんへのイメージや関係で痛みがあるままだと「父への畏敬」と言われると、体が強張ってしまうでしょう。

 聖書はその事を十分に踏まえています。ですから、イエスの前には神は「父」とだけ呼ぶ事はありませんでした。他の国では王が「父」を名乗ることがありました。王も、家庭の父親も、威張ってふんぞり返っていました。だからこそ、聖書は「父」という言葉に非常に慎重でした。その上でイエスが神を「天にいます父」と呼ばれた時、それは神が人間の父たちとは全く違う父、本当のお父さんだと言っているのです。血の繋がったお父さんに完璧なお父さんはいないけれども、天の神が私たちの本当のお父さんであって、この方を私たちは「アバ」と親しく呼び、心から畏敬と信頼を持てる。そのように新しい関係を下さったのです。

 今日はⅠ列王記三章を読みました。ソロモン王の裁判です。彼が王になった時、夢で神が現れて、欲しい物を願えと言われて、ソロモンは知恵を願いました。その後に書かれているのがこの記事です。

16そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。

17その一人が言った。「わが君、お願いがございます。実は、私とこの女とは同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。

18私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。

19ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。

20この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の懐に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。

21朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が産んだ子ではありませんでした。」

22すると、もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」女たちは王の前で言い合った。

3:23 そこで王は言った。「一人は『生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、また、もう一人は『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」

24王が「剣をここに持って来なさい」と言ったので、剣が王の前に差し出された。

25王は言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。」

26すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。

27そこで王は宣告を下して言った。「生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。」

28全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

 二人の遊女がそれぞれに子どもを産んで一緒に住んでいたのに、一人の赤ちゃんが死んでしまった。どっちも「死んだのは相手の子で、生きているのが自分の子だ」と譲らない。どうしたらいいか、みんな困って、ソロモンの所に連れて来られたのでしょう。そこでソロモンは剣でその子を半分にせよと言うと、本当の母親は、自分のものにならなくてもいいから子どもを殺さないでください、と言うのですね。本当の母親ではない方は、「半分に切って死んでも良い。自分のものにも相手のものにもならなくて良い」と言うのですね。ソロモンは、「自分のものにならなくても生きていてほしい」、それが本当の親の心だ、と知っていたので、こういう試し方をしたのでした。聖書は本当の親心が、何が何でも自分の思い通りにしようとは思わないことを知っています。本来、親はわが子の幸せや命を願うものだと踏まえています。

 それは、神御自身が私たちの「天の父」であることにも言えます。神は私たちの天の父として、私たちの幸せ、命を願い、そのためには遠回りや自己犠牲も厭われません。私たちが祈り願うことを聴いて、良い物は決して拒まれません。御自身の心が引き裂かれてでも、私たちに命を与えたいお方、いやそうして下さったお方です。剣で脅して畏敬と信頼を強いるのではなく、心から「アバ、父」と親しく呼び崇める関係を育ててくださる方です。祈る時、天の神がそのような方である事をまず思い出す。そう呼べる恵みにまず立ち帰る。

 八木重吉の詩を紹介します。

おんちちうえさま おんちちうえさまと唱うるなり
天にいます おんちちうえを呼びて
おんちちうえさま おんちちうえさまと唱えまつる
出ずる息に呼び 入りきたる息に呼びたてまつる
われは御名を呼ぶばかりのものにてあり

さて、赤んぼはなぜにあんあんあんあんなくのだろうか
ほんとにうるせえよ
あんあんあんあんあんあんあんあん
うるさかないよ
呼んでるんだよ かみさまを呼んでるんだよ
みんなも呼びな あんなにしつこく呼びな

 「お父さん」、そう呼びかけるだけで、もう後は何も言わなくても良くなるような、そんな関係が与えられています。