物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

検査がおわって

2017-02-15 13:30:04 | 日記

結果がそれほど悪くなかったので、また半年後の検査を予約して帰った。

PSAの数値があまり変わらないということで癌化はしていないということらしい。昨年もお盆のころの健診だったが、今年もお盆のころの検診になる。

こういうことがずっと続くということになろうか。

 


半年に1回の検査

2017-02-14 12:17:00 | 日記

が明日に迫って来た。これは数年前から松山赤十字病院で検査をうけているのだ。それ以前には四国がんセンターで半年に一度づつ検査を受けていた。

こちらの方は2年ほど受けたが、あまり変化がないということで、もしか一般の健康診断で引っかかったら、また来なさいということで行かなくなった。赤十字病院の方はまた別の理由である。こちらもう2年越しになるが、こちらは悪くなってもよくなるはずはないので、定期検査は続いている。

まあ、年なんだから何かがあってもそれほど不思議なことはない。


八方破れの論

2017-02-13 10:55:25 | 日記

武谷三男論の論文をこのところ読んでいる。それでいくつかの武谷批判も読んだのだが、「それがどうしたと」いう感じの感想を持つようになった。

八方破れの感想である。どうしてこのような感想を持つようになったのか自分でも不思議である。要するに創造的なアイディアを出したり、議論をすることがすばらしいことであって、それを批判することはまあ, する人はしたらいいけれどもそれほどたいしたことではないのではないかという観点に達した。

似たような感じを前にももっていたかもしれないが、ここまで開き直るような見解に達したことは自分でもおかしい。それについての論をまだきちんと述べる機会はもっていないが。


八巻俊憲の武谷三男論

2017-02-11 11:49:31 | 日記

いま売り出し中の新人ということではないが、八巻俊憲の武谷三男論がおもしろい。

このところ武谷三男論を読むことが多い。その中で『昭和後期の科学思想史』に出ていた金山浩司さんの武谷三男論はよく考察された論文だが、それにもかかわらず読んでいてちょっと異論が心にいくつか浮かんだ。それについてはいつか私の考えをまとめて見たいと思うが、続けて岡本拓司さんの武谷三男論も読んだのだが、どうも頭に残っていない。これはまだ何回も読みなおさなくてはならない。

さらに、柏道夫さんの「武谷理論の有効性」という論文を読んだ。これはどうも有効性が時間切れというか、時代に合わなくなっているという主張である。これについてはまだ異論も反論も感じていない。1回しか読んでいないので。

昨日、八巻さんから送っていただいていた彼の「武谷三男の思想構造」をきちんとはじめて読んだ。送ってもらったときにざっと読んだのだが、どうもあまり印象に残っていなかった。この武谷三男論についてはいまのところそれほど違和感とか異論がない。それでもちょっとしたことは感じたのだが、まだきちんとした考えになっていない。

だが、他の人の武谷論と比べて、いちばん違和感がすくない。もちろんすべてお説ごもっともとまではいかないけれども。

塚原東吾さんの「現代思想」に掲載された武谷三男論は金山さんと同じような違和感とか異論があった。塚原さんは金山さんの武谷三男論を出版前に読まれているのだが、それでももちろん金山さんと同じ考えではない。彼は科学思想が社会に有効に働くためのいくつかのヨーロッパ起源の思想等からヒントを得て、モデルを考えている。

もっともそういうところが私の気に入らない。似たようなことをした人は日本にもいるはずなのに。

ただ、唐木の武谷批判に武谷が反論しているところについてある種の感動を覚えたと素直に書いてあるところは評価したい。


外国の思想を有難がるな

2017-02-10 12:14:46 | 日記

これは武谷三男がいつも強調していたことだったが、日本で何か新しいことを主張してもなかなか認められない。ところがヨーロッパの学者とかアメリカの学者が提唱した学説とかだとすぐに認めてしまうことが多い、それも日本の学者がそれと同じことを提唱していたとしても。

素粒子物理学で坂田モデルに関係して私たちの先生の方々が群論を導入したときにも日本の学会ではすぐに評価されたとはいいがたい。もちろん評価してくれた研究者もいたのだが。それだのにアメリカの物理学者ゲルマンがeightfold wayで成功するとすぐに飛びついた。もちろん、坂田モデルよりもeightfold wayの方が実験的成功もあったし、説得力があった。これは事実である。

もっとも私は坂田モデルの方がオリジナルだのにゲルマンだけがノーベル賞をもらうのは我慢できないという説には与しないが。 

多分、外国の学者の方がプレゼンテーションが上手なのだろうか。それにしてもそういうことが多すぎるような気がする。

私のことで恐縮だが、小著『四元数の発見』で他であまり見ることの少ない議論を徹底的にしたつもりだが、それを素直に認めてくれる人などほとんどいない。皆無とまでは言わないけれども。日本の、それもあまり名も知られていない元研究者が書いた本など無視してもいい。これが外国の有名な学者の本とか論文にあれば、絶賛してすぐに提灯持ちをするのに。

ちょっとひがみぽいけれども、そんな感覚をもっている。武谷三男にしても放射線量に関して許容量という概念を提出したのに、そしてそれがICRPの基準に採用されて、いまではアメリカ由来のリスク・ベネフィット論として流通している。そうなるともう日本人の手を離れたということで堂々と学会とか世界の考え方の基準になっていたりする。

どうも若い学者たちの欠点もそういう日本固有の弱みをもっているのではないか。日本人でももう若くはない人にはそういう欠点はもっていないかもしれないけれども。

本当に独創的な思想なり、学説なり、研究なりなら、それは外国起源であろうと、日本起源であろうと同様に評価すべきなのであろうが、日本人の場合にはお互いによく知っていたりすれば、どうしてもいつも議論したり、つきあいがあったりして、その欠点もよく知っていたりするためにどうしても評価が低くなりがちであるのかもしれない。

それだから、私たちは自分を鑑みていつも自戒していなければならない。


読後感想を見つけた

2017-02-09 14:30:43 | 日記
インターネットに「四元数の発見」の下のような書評があった。
 
複素数を習いたてのときに読むとワクワクする本だと思います。説明が細かく簡単な本なので早いうちに読むといいでしょう。線形代数やPauli行列を知っていると味気ない感じでした。ただ、なぜ三元数だと閉じた代数ができないのか、四元数と鏡映などちゃんと理解していなかったことがいくつかあったので、読んでためになりました。
 
多分けっこう数学を知っている人の書いた感想だと思う。線形代数とかPauli行列のことを知っている人の忌憚のない意見だろう。しかし、高校生のためには役立つという指摘は当たっていると思う。
 
よく知っているところは読み飛ばしたらいいのだと思う。数学のことをよく知っている人なら、この本を一晩で読み終えることができるだろう。たぶんそれは高校生には難しいだろうけれども。

『昭和後期の科学思想史』

2017-02-09 12:57:58 | 日記

にとりあげられなかった人として日本で思想的に一番影響があると思われる人はやはり遠山啓であろう。広い意味の科学思想史の中に遠山さんは入れてもらえなかったのだろうが、やはり金森修さんの目がどうかしている。

そういう意味でいえば、いまも存命の方では板倉聖宣がいる。二人とも教育界での活躍であるので、金森修さんのようなヨーロッパかぶれには視界に入らなかったのであろう。

武谷三男の著書としては最近の再版では『弁証法の諸問題』新装版とか『物理学入門』くらいしかないのだが、遠山さんの著作はものすごくたくさん新版が出版されている。これは遠山の専門が数学であったことを考えると驚嘆に値する。

武谷が簡単に忘れ去られていい思想家だとはもちろん思わないのだが、すくなくとも出版商業ベースでは遠山の勢いは没後30数年だというのにすごい。

板倉についてはこれは私は西村肇(東大名誉教授)さんのブログで知ったのだが、西村さんに星野芳郎が亡くなる前に敬意をもっている思想家で活動家として板倉さんの名をあげたというが、さすが星野さんはよく見ている。

板倉は世間的に有名になると風当たりが強くなるというためにか、名を求めず実質的な教育活動を仮説実験授業を中心として長年やり続けている。だから、金森修さんの目に留まらないのはしかたがないが、どこに目をつけているのだといわれてもしかたがあるまい。


坂本賢三の武谷評

2017-02-09 12:41:06 | 科学・技術

を『昭和後期の科学思想史』で見た。これは武谷三男について書かれたところではなく、坂本賢三を取り扱ったところにあった。

瀬戸口明久さんの書かれた箇所だが、316頁に

戦時中の弾圧を経験した武谷は、非合理的な政治こそが諸問題の元凶であり、より科学的な精神を行きわたらせれば社会は進歩するという科学観をもっていた。だが、坂本は「ヘーゲルをきちんと読むようになってから」、次第に武谷の理論が「底の浅い、悪くいうと思いつきのようなもの」と感じるようになったという。

これは多分に坂本だけの感じではなく、関西に居住した、数人の若い科学史家たちの共通の感覚だったという。その中には広重徹も含まれている。

(2017.2.13付記)坂本さんの武谷三段階論観にケチをつけるわけではないが、思いつきにしてもなにかオリジナルなことを考えることは素晴らしいことである。それが私たちにはなかなか難しい。だから、オリジナルをちゃんと認めるところから話が始まるのである。それにいちゃもんをつけようとどうしようとかまわないのだが、やはりそのオリジナルさをまずはきちんと認識することから話がはじまるということを忘れてはならない。 


武谷三男のユーモア

2017-02-09 11:55:52 | 科学・技術

はところどころに他人に引用されている。

一つは佐高信が書いている武谷三男と辛淑玉さんのやりとりである。これは前にもこのブログで書いたのだが、「もう少し前に知り合っていたら恋人になったのに」という、辛淑玉さんのジョークに対して武谷さんは「いまじゃダメなのかい」と返したという。武谷が亡くなる少し前のことだから、なかなかのユーモアである。

これは法政大学におられた西田勝さんとの武谷との時事漫談というのをある講演会の前座でやったとき、西田さんが「時事漫談ではなくて、じじい漫談だいう人もいるようですが」と言ったら、「じじいが頑張らなくてもいいようになればいいのだが」、と切り替した。

即座に反応できるところがすごい。頭の反応の速い人だったらしい。

いま、金山浩司さんとか岡本拓司さんとかの武谷論とか塚原東吾さんの武谷三男論を読んでいる。特に金山浩司さんの論文は3回は読んだ。

岡本さんの論文は3回目を読もうとしている。塚原さんのは国会図書館で走り読みをしたのだが、今回は昨年6月発行の雑誌「現代思想」を購入して読み返している。こちらは1回目がまだ終わっていない。

金山浩司さんの論文も主な記述ではあまり武谷批判はないのだが、結論というか終りの方にどうも批判的視点を持っているというような記述である。それは塚原東吾さんの論文も同じである。

最近読んだ武谷三男論ではもちろん八巻俊憲さんの論文もある。こちらは武谷は「科学主義とヒューニズム」とが2本の柱だとあった。

いずれもそれはそれとしてまちがいではないのだが、まだ十分に武谷に特質を捉えてはいないのではないかという気がしている。

金山浩司さんは武谷を模写説派ととらえており、これは構成主義派とちがって単純だという評価である。それは間違っていないけれども、それだけでは済まない何かがまだあるような気がしている。どこが足らないかということをここで書いてしまうとそれこそアイディアを取られてもいけないので、ここではあえて述べないでおく。

すくなくともいろいろな媒介を断ち切って、議論するのが武谷であり、そのために主張の強さもあるが、単純でもある。

武谷が科学万能主義というか、科学第一主義だという金山の主張は科学とは自然科学のことを意味しているのかどうか。もしそうとっているのから、武谷は自然科学第一主義ではないと思う。どうしてかの理由はここで述べないでおくが。

いずれにしてもこれらの論文をさらに読み込んで彼らと少し異なる、私の見解をどこかで発表したいと考えている。


Fake News

2017-02-08 12:20:38 | 日記

一昨日と昨日のNHKの「クローズアップ現代」でFake Newsの問題をとりあげられていた。

もし、武谷三男が生きていたら、この問題を重要な現代的問題として取りあげたであろう。それくらい重要な問題である。それに対する対策はなかなか妙案はない。地道に一つづつFake Newsをつぶしていくしかない。ところが現在ではネット社会であり、スマホその他でSNSという便利な機能があり、そこで知らずに、または意識的に、Fake Newsが流されて拡散して、社会に悪影響を与えていたりする。

これは一つにはアメリカのトランプ大統領とそのブレーンや報道官の現実を直視しない態度にも表れているらしい。Alternative Facts(別の事実)と言われるが、これはあからさまにいうと「嘘だ」ということらしい。またFake Newsをそれを単におもしろがって発信している人もいるらしい。それを確かめせずに拡散してしまうのが悪いと言われればそうかもしれないが、やはり社会的影響を考えると慎重にしてほしいと願わずにはいられない。

もう一つは広告収入が得られるので、人の注目を引くFake Newsを流す人もいるらしい。それが生きる糧になっているような場合にはなかなか自分では止められない。そんなことで収入を得るのは倫理的にも問題だということは言えてももっと倫理の問題だけではなく、実質的に強制的にでも止めさせる方法を考えないといけないだろう。

Fake Newsが社会的にも大きな問題となっていることを知った昨日、今日であった。


アクセスが200を超えた

2017-02-07 12:14:36 | 日記

昨日はどうしたものかアクセスが200を超えた。大体100を越えれば上出来のブログだのに200を越えるとはどうしたことかと思う。はやく元に戻ってほしい。

いま、パリティ演算子の微分演算子での表現について関心をもっている。これは私の先生の小川修三さんの量子力学の講義ノートの編集をしているのだが、その中に出てくる。その導出法がわからなかったので、これをやはり私の先生の一人であった Y さんに尋ねたら、すぐに導いてくれた。

もっともこういう表現は言われてみれば、誰にでもわかることだが、普通の量子力学のテクストにはあまり出ていないので、Y さんの投稿ということで「数学・物理通信」に掲載をしたいと考えている。Y さんに言ったら、そんな自明にも思えることをと言われそうなのでまだ何も言っていないが、私が彼の趣旨を呈してまとめたいと思っている。

Y さんは目の手術をしたときに目が2重焦点になってしまい、目がすぐに疲労するのでここ数年長いデスクワークはできない。たかだか10分くらいで目が疲れてしまうのだという。

 

 


潮の干満なぜ2回

2017-02-06 12:37:31 | 物理学

という記事が朝日新聞に載った。その説明を読んだのだが、説明段階 f の「地球の自転なしで棒が円運動をする」というところがなかなかわかりにくかった。それがわかれば後はなんてことはないが、ついでに量的に遠心力と月の引力との差がどれくらい出るのかを数値として示してくれれば、もっとよかったのだが。

それにしても普通の新聞でこれだけ詳しく説明をしてあるのを始めてみた。この記事を書いた高橋真理子さん、ありがとう。

説明 a の月に近い方の潮が引かれるのはわかるが、なぜその反対側も満潮になるだろうという疑問は私も学生のときに、友人と議論してよく分からなかった覚えがある。海水は液体なので慣性があり、固体の地球部分とは違うからではないかという風に議論が落ち着いたのではなかったかと思う。

満潮になる時間が少し月の引力が大きいはずの時間からすこし遅れるのはやはり海水が液体であるから慣性があるからであろう。潮汐力による海面の盛り上がりは50センチ程度だそうだが、瀬戸内海では干満の差は2メートルを超えるとか。

これはドイツ人の R 氏から折に触れて聞くところでは北海沿岸では10メートルの干満差があるという。これをdas Wattenmeer(ヴァッテン メーア)というと何回もこのブログで述べたことがある(注)。もっともあまり日常生活において、普通に使うドイツ語ではないのですぐに忘れてしまう。

フランスの観光地モン・サン・ミッシェルでも同じように約10メートルの干満差がある。だから、干潮のときには遠くまで砂浜が続くが、潮が満ちてくるとウマが駆けるくらいの速さで満ちてくる。

遠くまで潮が引いていたときにその干潟の沖遠くまで、散歩にでも出ていると潮が満ちてくると、そのあまりの速さに溺れてしまう人が出るとか聞く。

藤田紀夫さんと「FNの高校物理学」のことをこのブログで紹介したことがあったので、だから昨日は日曜日であるにもかかわらず185人の検索があった。この「FNの高校物理学」を紹介したブログが検索されたということである。

(注)Wattenmeerは一般の名詞なのか固有名詞なのかちょっとわからない。独和辞典には「(特に北海沿岸の)干潟のある海岸」とある。Watteとは「海岸の一部でどろに覆われており、干潮のときには水がまったくひいている」と独々辞典にあった。

(2017.6.9付記)  日本でも有明海が干潟のできるところとして有名である。先日、NHKのテレビで放送があったが、干満の差が6mだとのことである。


石棺、その他

2017-02-04 12:09:16 | 日記

ウクライナにあるチェルノブイリ原発が大事故を起こしたことはもう忘れてしまっているかもしれない。そして、ここの原発を鉄筋コンクリ-トの覆いをしていわゆる石棺とよばれている。古い石棺の上にさらに新しく鉄筋コンクリートの覆いが最近またされた。

福島第一原発の事故を起こした原発の処理について5年後とか6年後の廃炉を目指すとか言われたが、なかなか作業が始まらない。最近ある人から聞いた話では、本当はチェルブイリ原発と同様に石棺をつくって20年か30年そのまま放射性核分裂からの放射能が下がるのを待つのが合理的だったといわれる。だが、もう政治問題になってしまって、誰かの政治家が石棺がとか一言漏らしただけで地元からは拒否反応が起こってしまう。

だから、少なくとも建前としては石棺方式の処理法をとることはできないのが、現実である。だが、そういうことを抜きにして考えてみると本当は作業員の放射線汚染とかをあえて冒してまですぐに廃炉をめざすべきであったのかどうか。

これはもともと原発は安全だとあえて政府も電力会社もそういう言い方で地元民をだましてきたつけが回って来たということだ。本来なら、東京電力は会社としてこの原発事故のために倒産してしまっているところだ。

もちろん原発事故を犯した責任は大きいが、企業としてはもう成り立たないはずだ。しかし、責任を取り続けると言わないことには誰も許してくれるはずがない。日本でいちばん大きい東京電力にしてこのざまだ。そうだとするとましてや規模の小さい四国電力で、いったん原発事故を起こしたらどうしようもなくなるであろう。

残念ながらそういうことは理屈ではわかっていても口にすると世間的には具合がわるい。ということでなあなあで四国電力以下、知事もことなかれで伊方の原発を運転している。

原発を動かしたために、政治的に太陽光の利用する半導体の開発等が日本は遅れてしまって初期には技術的に世界でもトップを走っていたのにいまでは、世界では後位を走っていると最近聞いた。それはまた事実らしい。

日本人ははじめは好奇心が強いので、なんでも新しいことに取り組むが、政治的な配慮が足らないためにそのような日本の科学技術の長所を十分に生かせていないで、けっきょく他国の後塵を拝することになる。

東芝が原発メーカーのウエスチングハウスWHを買い取ってそのために、いまでは数千億円の赤字で経営にも困っているなど先を見る目が経営陣になさすぎる。これは私が当事者でないからいうことができるということもあるが、それだけではなく、常に別の相補的な方策を考えておかなった経営陣の失策でもあろう。


ブログの回数

2017-02-03 12:53:04 | 日記

も優に3100回を超えたらしい。最近は何回ブログを書いたかは知らせてくれるシステムはないので、自分ではわからないのだが、各分野に出ているブログ数を足し合わせると優に3100回は越している。

正確な数は全部を足し合わせれば、正確な数は簡単にわかるのだが、そこまでのことはしていない。一年に書くブログの数は大体300回なので全体で3000回を越えたということはやはり十年を越えたことを意味する。実際にこのブログは2006年の4月の終りぐらいにはじめたので確かに10年を越えている。

昨年の12月と今年の1月にそれぞれ10日ほど東京に行ってブログを留守にした。だが、幸いなことに健康でほぼ毎日日曜以外は仕事場に来て、ブログを書いている。

なかなかできることではないという気もするが、大体日記などつけたことのない身にするとよくやれたなという気もする。私の知人で何十年も日記を書いているという人を知っているが、メモ魔みたいなところがある。

別に彼は変な人ではないのだが、やはりそういうことは普通の人にはできない。優れた人といっていいであろう。もっとも私は平凡を絵に描いたような人間であって、優れたところなどまったくない平、平凡人である。

しかし、ブログを書くことを楽しみにしているので、もって生まれた性はしかたがない。こういう性質は多分私の母の気質を受け継いでいるのであろう。

(注)きちんと分野別の数の和をとって見ると3753回となった。思ったよりも回数が多かった。


インフルエンザ

2017-02-03 12:38:44 | 日記

昨日、いつも行く診療所に行ったら、なんだか院内があたふたしている。どうしてだかわからなかった。そして医師の先生からインフルエンザにかからないように人ごみに出かけないようにと注意を受けた。

支払いをすませたら、医師先生の奥様が実は事務の女性がインフルエンザにかかってお休みだという。それも予防注射をしてあったのにという。

これは聞けば家族がインフルエンザにかかり、それから事務員の女性もインフルエンザにかかったらしい。インフルエンザの予防注射はある型のウイルスに対しての予防注射なので、他の型のウイルスによるインフルエンザが流行れば、容易にインフルエンザにかかってしまう。

診療所の関係者がインフルエンザにかかるとはあまり自慢にもならないので、医師の先生は私にはそのことを言わなかったらしい。それにしてもそういうことが身近なところで起こるということを経験した。

いくら医療関係者でも家族がインフルエンザに罹ったのならば、それによって自分もインフルエンザにかかることは十分に起こることである。多分、不可抗力でもあろうか。