はところどころに他人に引用されている。
一つは佐高信が書いている武谷三男と辛淑玉さんのやりとりである。これは前にもこのブログで書いたのだが、「もう少し前に知り合っていたら恋人になったのに」という、辛淑玉さんのジョークに対して武谷さんは「いまじゃダメなのかい」と返したという。武谷が亡くなる少し前のことだから、なかなかのユーモアである。
これは法政大学におられた西田勝さんとの武谷との時事漫談というのをある講演会の前座でやったとき、西田さんが「時事漫談ではなくて、じじい漫談だいう人もいるようですが」と言ったら、「じじいが頑張らなくてもいいようになればいいのだが」、と切り替した。
即座に反応できるところがすごい。頭の反応の速い人だったらしい。
いま、金山浩司さんとか岡本拓司さんとかの武谷論とか塚原東吾さんの武谷三男論を読んでいる。特に金山浩司さんの論文は3回は読んだ。
岡本さんの論文は3回目を読もうとしている。塚原さんのは国会図書館で走り読みをしたのだが、今回は昨年6月発行の雑誌「現代思想」を購入して読み返している。こちらは1回目がまだ終わっていない。
金山浩司さんの論文も主な記述ではあまり武谷批判はないのだが、結論というか終りの方にどうも批判的視点を持っているというような記述である。それは塚原東吾さんの論文も同じである。
最近読んだ武谷三男論ではもちろん八巻俊憲さんの論文もある。こちらは武谷は「科学主義とヒューニズム」とが2本の柱だとあった。
いずれもそれはそれとしてまちがいではないのだが、まだ十分に武谷に特質を捉えてはいないのではないかという気がしている。
金山浩司さんは武谷を模写説派ととらえており、これは構成主義派とちがって単純だという評価である。それは間違っていないけれども、それだけでは済まない何かがまだあるような気がしている。どこが足らないかということをここで書いてしまうとそれこそアイディアを取られてもいけないので、ここではあえて述べないでおく。
すくなくともいろいろな媒介を断ち切って、議論するのが武谷であり、そのために主張の強さもあるが、単純でもある。
武谷が科学万能主義というか、科学第一主義だという金山の主張は科学とは自然科学のことを意味しているのかどうか。もしそうとっているのから、武谷は自然科学第一主義ではないと思う。どうしてかの理由はここで述べないでおくが。
いずれにしてもこれらの論文をさらに読み込んで彼らと少し異なる、私の見解をどこかで発表したいと考えている。
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