もう1か月ほど前になるが、第559回松山市民コンサートで、八幡浜出身の宮本益光(バリトン)さんが歌われた。このコンサートのときに歌の合間に宮本さんがトークで詩人の三好達治さんのことを話していた。
それによると、太平洋戦争中に心ならずも戦争賛歌を作詞しなければならなかったが、戦争が終わってようやく自由になったというので「鴎」という歌をつくったという話をされた。詩人の高村光太郎が戦争賛美の詩を書いたりして、武谷三男が幻滅を感じたということをどこかで書いていたが、戦争賛美の詩を書かなくてはいけなくなって、三好達治も嫌気をきたしていたのかもしれない。
私が知っている三好達治の詩は一つしかないが、これは中学校か小学校のときに「アリが蝶を引いていく。ああヨットのようだ」とかいう短いものを先生が黒板に書いて教えてくれたことだけを覚えている。
宮本さんに話を返すと彼は楽しいトークができる才能をおもちであり、かつ作詞とかもされるなかなかの才人であった。
それによると、太平洋戦争中に心ならずも戦争賛歌を作詞しなければならなかったが、戦争が終わってようやく自由になったというので「鴎」という歌をつくったという話をされた。詩人の高村光太郎が戦争賛美の詩を書いたりして、武谷三男が幻滅を感じたということをどこかで書いていたが、戦争賛美の詩を書かなくてはいけなくなって、三好達治も嫌気をきたしていたのかもしれない。
私が知っている三好達治の詩は一つしかないが、これは中学校か小学校のときに「アリが蝶を引いていく。ああヨットのようだ」とかいう短いものを先生が黒板に書いて教えてくれたことだけを覚えている。
宮本さんに話を返すと彼は楽しいトークができる才能をおもちであり、かつ作詞とかもされるなかなかの才人であった。
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