物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

数学史家、近藤洋逸氏

2017-03-29 12:38:11 | 日記

私は近藤洋逸氏と一度だけ大学院生のころ会ったことがあった。私の学んでいた大学に集中講義に来れられたことがあり、科学史をやりたいと思ったことがあったので、一度だけ講義の後で、10分か15分だか会って話したことがあった。

そのころはこの近藤洋逸氏が武谷三男との知り合いであるなどとは思っていなかった。それが彼の死後『近藤洋逸数学史著作集』が日本評論社から発行され、それの付録(いわゆる月報というもの)にまだそのころ生きていた武谷が近藤洋逸氏とのつきあいについて書いていることを西谷 正氏の論文リストで知った。

それで、東京神田の明倫館書店から、その著作集を20,000円で古書として購入した。一度、国会図書館でこの現物を読んではいたのだが、「武谷著作目録」をつくっているので、それに記載もれがあったということになる。

いまの最新の「武谷著作目録」は第5版であるが、これを修正する必要がある。


数学・物理通信の配布

2017-03-29 12:22:04 | 日記

について、これはメールで無料配布しているのであるが、あまり送らないでほしいというメールはいままでもらったことがなかった。ところがある数学者の方から、そういうメールをもらった。それはほとんど読まないのでメールが貯まるだけで申し訳がないということであろう。

たしかに、純粋な数学者などはこういう怪しげなサーキュラーは読まないのかもしれない。それにそういうことを言って来た数学者はある意味で私に対して、遠慮ない物言いができるという方であったのだろう。

それにそのメールアドレスを知ったのは彼の奥様を通じてであるので、ひょっとしたら数学者その人ではなくて、彼の奥様が書いて来たのであろう。もっとも彼の奥様も中学かどこかの数学の先生をされていた方だと聞いている。

「数学・物理通信」の配布を受けている、普通の方はどう処理をされているのかはわからないが、ほとんど読まない人でも貯まったら、ゴミ箱に捨てているのであろう。少なくとも発行人である、私に対して遠慮してそうしているのだろうと思われる。

もしそうなら、申し訳がないところだが、あからさまに読まないのでという理由で配布の辞退を受けたのはほとんど最初であった。私などならば、分かるところだけ読んでわからないところは読まないという処置をとると思うので、ちょっと考えるところがあった。       


vielleicht, wahrscheinlich

2017-03-29 11:46:12 | 日記

私のような老人がドイツ語を学びはじめたころには独和辞典のvielleicht(フィライフィト)の訳語は「多分」とか、「おそらく」であった。これはあまり正しくないということだったのだろう。

その後、何十年か学んだNHKのテレビとかラジオのドイツ語の講座ではvielleichを「ひょっとしたら」という意味だと繰り返して聞いて来た。

最近ではvielleichtを「多分」とか「おそらく」とか訳をつけている独和辞典はないと思う。それだけドイツ語の研究も進んできたのだ。私などが学生のころに一番よいと言われていた、木村・相良の独和辞典でもvielleichtの訳語は「多分」とか、「おそらく」となっていた。

私自身の経験でも、私が1976年にドイツの大学に留学して間がないころに、新しいPhysics Lettersの号が図書室から一時的に行方不明となったというので、同僚の研究者にHaben Sie vielleicht die neueste Physics Letters ?と聞かれたことがあった。

可能性は低いのだが、ひょっとして最新のPhysics Lettersを借り出していないかというのであったろう。もちろん、私がその雑誌を借り出していたわけではなかった。

一方、wahrscheinlich(ヴァ―ルシャインリッヒ)だが、こちらはそれこそ「おそらく」とか「多分」とかいう意味であろう。大分こちらの方は確率がたかくなる。このwahrscheinlichから派生した名詞にdie Wahrscheinlichkeitという語があるが、これは数学用語として「確率」という専門語でもある。

あまり量的に考えたことはないのだが、vielleichtならありそうなのが、10%か多くても20%くらいな感じがするが、wahrscheinlichなら70%か80%で確かの感じがする。これは私の感じであるから正しくはないかもしれない。