ホーエンシュタウフェン

生きるために食え、食うために生きるな。

【311】震災中の生活を振り返る

2012-03-11 20:17:02 | 東日本大震災・地震関連

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人によっては「またかい!」と感じる、311の話。

1周年を各々どう感じるかはともかくも、東日本大震災から今日で1年、本日の14:46に私は、自宅の台所でTVの震災追悼の慰霊祭を観ながら、ローソンで買ったざる蕎麦を食べていました。

陛下が被災者のみならず、当時避難誘導のため逃げ遅れ亡くなった方々や、海外からの支援に感謝している事など、術後間もない老体をおして多方面に気を配られておられる御姿が印象的でした。

さて1年前はまさに戦争状態。

直後から電話は不通、ネットも不通、無事だった我が家に帰ってきてみると、まず玄関が無茶苦茶、台所の食器は盛大に割れており、ストーブの上のヤカンやトイレの水があふれた跡が。

TVをつけると、今まで見た事の無い、日本列島全部を覆った津波警報の赤やピンクのライン。

「あの揺れなら当然そうなるだろう」と感じましたが、まだ実感というか、事の重大性を感じなかったのです。

ひとつは、家族の怪我や自宅の破損などが無かった事、ひとつは普通通りに買い物が出来、車の往来が多いなど、見た感じは普段の夕方~夜の光景と変わりなかった事。

震災の当日はとりあえず、缶詰とカロリーメイト等をまとめ買いしましたが、その後完全に物流がストップし、完全な混乱にいたる事は、思い至りませんでした。

翌日、津波で自宅が流された嫁の実家と連絡が取れ、とりあえず現場に急行すると、嫁の家族は全員避難して無事だった事、生活の見通しが立つまで義理の姉(知的障害者)と飼っていた犬を預かる事を約束しました。

その日、40数km程北にある、福島原発1号機が爆発していました。

しかし、原発が深刻な状態だと知ったのはもっと後の事で、その頃は日々の生活をうまくまわすのに心を砕いていて、私も必死でした。

食料ですが、正月の残りの餅と米、野菜類の在庫がそこそこあったので、とりあえず雑煮を大量に作って他の食料(シリアル、缶詰など)の温存を図るとともに、おにぎり等、食べ残しの無いメニューを嫁に指示。

震災当夜、まず水道が止まり、その次に都市ガスが止まりました。

我が家は料理にガスコンロを使用しているので、料理はすべてホットプレートで行いました。

ホットプレートは煮物・炒め物・鍋物など大概の料理に使用可能なので助かりました。

停電になっていたらアウトでしたが、この辺に関しては震災後ついぞ、停電は起こりませんでした(411の大余震に際30分程度ありましたが)。

しかし、電気の安定供給も怪しかったため、シチリンを用意し、山に入り燃料の松ぼっくりを拾いに行きました。

水が出ないのは困りました。

給水車が来たりしていたようですが、その場所に関する積極的な公報も無く、行ったら行ったで売り切れ御免状態。

それで、クルマを使って川から水汲みのピストン輸送を実施したわけなんですが、こっちも必死になって1回の輸送量を多くしたいがため無理をし、そのせいで傷めていた腰を決定的に悪化させてしまい、以後積極的な行動が出来なくなってしまいました。

ヘルニア由来の猛烈な坐骨神経痛です。

座ってていても痛い、横になっても痛い、会社が原子力災害による休業となり、家にいる間は常に布団に入っているようになりました。

当然病院も閉まってますので治療できませんでした。

その内、原発事故の報道の影響もあり、ウチの近所はほぼすべて、どこかに緊急避難したようで、我が家周辺はまったく無人の住宅街になりました。

私は、犬もいる、知障の義姉もいる、親もいるという事情でどこかに避難するという事をしませんでしたが、それは積極的な理由ではなく、「パニックにならない事」、「浮足立たない事」、「緊急時こそ落ち着いて行動する事」という意識があり、下手に動き回らず、じっとしている事が一番得策だ、と感じていました。

それは、①僅かなガソリンをいたずらに消費せず、②トラブルに巻き込まれず、③金もかからず、④他者に迷惑をかけず、⑤衣食住は確保される、と感じていたからです。

放射性物質の流出の動向を踏まえたうえ、電話で連絡を取り合っていた埼玉の兄も同意見で、結果的に何の問題も起こりませんでした。

避難した人もその内ポツポツ戻ってきましたが、やはり避難先では色々あったようです。

親戚とモメた、目的地が無い上ガス欠になった、金がかかった、オムツが無い、など・・・

帰ってきても、「お前は逃げただろう」という目で見られる人もいるらしく、特に役所の人間や病院関係者、ペットを安楽死させて逃げた獣医などは、特に軽蔑の対象になっていました。

コミュニティ意識の強い地域は、助かりたくて、あるいは赤ん坊を助けたいと思って避難したのに、戻ってきづらい空気も同時に醸成されちゃっていましたね。

別に自由の国なんだから、どこに避難しても良いと思うんですが、それぞれにそれぞれの事情があるにもかかわらず「逃げた」と揶揄されるって・・・これだから田舎はイヤ。

また、会社関係のツテで、内密に水面下で個人的に支援物資を持ってきてくれた人がいて、その時はとても助かりました。

タその中にはバコとか、コーヒー等の嗜好品もあり、それらが入手できない中、それがとても息抜きになりました。多謝。

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震災から1か月経過したころから物流が回復し、徐々にもとの生活に戻っていったのですが、何か悪い夢でも見ていたんじゃないか、という「非・日常」で「現実とは思えない」日々が、遠い昔の事のように感じています。

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