神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

浅草橋

2019-12-06 06:43:43 | 平川・外堀4

 神田川に戻ります。左衛門橋の次が浅草橋です。寛永13年(1636年)築造の浅草門付属の橋ですが、同9年の「武州豊島郡江戸庄図」には、桝形門のない橋単独で描かれていて、「浅草橋」と付記されています。本町通り(横山町大通り)や平行する本石町通り(江戸通り)に架かる橋で、常盤門から浅草、さらには遠く奥州へと至る交通の要所にあるため、元和年間(1615~24年)の神田川付替えの際、真っ先に架けられたものと思われます。

 

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    ・ 浅草橋  江戸通り方向のショットです。本町通りは江戸通りの左手にあり、→ 「江戸名所図会」に描かれた馬喰町馬場(初音馬場)は、江戸通りの右手にありました。

 浅草橋は明治6年(1873年)石橋に架け替えられましたが、施工したのは万世橋と同じく、肥後の名工橋本勘五郎です。その後震災復興によって架け替えられ、現在に至っています。なお、明暦の大火の際、伝馬町の囚人が解き放たれましたが、それを集団脱獄と誤解し浅草門が閉じられたため、逃げ場を失った2万人余が犠牲になったといわれています。これを契機に、軍事上の理由から千住大橋以外、橋のなかった隅田川ですが、万治2年(1659年)ないし寛文元年(1661年)に両国橋が創架されました。

 

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    ・ 神田川  浅草橋から下流方向で、河口に架かる柳橋までの間には、多くの屋形船が停留しています。なお、奥に見える高架は隅田川の対岸を走る首都高(6号向島線)です。 

 <郡代屋敷>  馬場から浅草御門にかけての一角には、関八州の幕府直轄地の年貢徴収、治水事業、紛争処理などを担当した、関東代官(のち関東郡代)の屋敷がありました。「馬喰町御用屋敷 当所は関東御郡代伊奈氏の屋敷なり。明暦三年(1657年)三月三日馬喰町にて替地を賜ひし由年録に載す。是より前は常盤橋御門の内に在せり」(「御府内備考」) 伊奈氏は家康から代官頭に任命された忠次、その子忠治と、利根川、荒川付替えなどに功のあった家系ですが、代々当地に居を構えその職を世襲してきました。寛永4年(1792年)、伊奈家が改易により任を解かれた後は、勘定奉行が兼任する一時期をはさんで、文化3年(1806年)には関東郡代職は廃止され、代官3人制に移行しました。引用文にある馬喰町御用屋敷は、代官3人制になってからの名称です。