「神田枝松町と元柳原町との間に在り。此橋の名付る所俗説さまざまあり。橋を三ッ合せて筋違にかけたるは、長刀の形に似たればとて名付しといふ。又むかし此所の髪結床に弁慶の書かけてありしゆへ、いつとなく弁慶橋と云よし。『江戸名勝志』に此橋筋違に渡してむづかしき橋なり。大工の棟梁弁慶小左衛門が地割故名とすといふ」(「御府内備考」) 最後の説が普及していて、「江戸名所図会」も採用しています。「同所東の方、和泉橋の通り、藍染川の下流に架す。其始御大工棟梁弁慶小左衛門といへる人の、工夫によりて懸初しといへり。此地の形に応じ、衛(ちまた)を横切て筋替にかくる尤奇なり」
- ・ 「江戸名所図会 / 弁慶橋」 左下は「1/5000実測図」の該当箇所を拡大したものです。また、左上も「江戸名所図会」に掲載されていますが、他の図とあわせるため、天地を逆転しています。
- ・ 弁慶橋跡 前回最後の岩井橋跡から120mほど、藍染橋と岩井橋のほぼ中間に位置しています。通りを右手に向かうと和泉橋にでますが、流路に重なるクランクの通りは今はありません。
「ここに、橋が架けられたのは明治二十二年(1889年)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治十八年(1885年)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています」 これは赤坂見附にある弁慶橋・弁慶堀に関わる千代田区教育委員会の解説プレートの一節です。なお、弁慶堀の名前の由来に関して「御府内備考」は、「弁慶小右衛門と申者寛永年中掘割御請負仕候由右ニ付弁慶堀と唱候由申伝ニ御座候」と書いています。
- ・ 弁慶橋 弁慶堀に架かる弁慶橋で、全長41m強、幅22m、昭和60年(1985年)に改架されました。背景の赤坂プリンスホテルがまだ健在だった10年近く前の写真です。