神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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下高田村

2018-08-04 06:19:14 | 落合・目白崖線

 「下高田村は日本橋より行程一里半、按に高田は当郡及多摩郡にも跨し地にて、古は上下の別なく通して高田とのみ称せり、『小田原役帳』に赤沢千寿十五貫文江戸高田内、・・・・高田内葛谷岸分等みえて殊に大村なり、其後上下二村となり及葛谷分村せし年月は詳にせざれど、正保改の国図等には既に今の如く分ちて上村を多摩郡に属し、下村を当郡に属したり、四境東は関口村及武家屋敷、南は下戸塚村源兵衛村、西は下落合村北は雑司ヶ谷村、東西十町南北五町余、家数百十軒」(「新編武蔵風土記稿」) なお、村名は下高田村が本来ですが、高田村との記述も随所に見られ、また明治に入り雑司ヶ谷村等と高田村を形成したため、ここでは下高田村、高田村の記述が併存します。 

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、同細線は高田村当時の大字境です。

 「新編武蔵風土記稿」はさらに、「村の北寄に目白辺より練馬村辺への往還掛れり、又南北へ貫ける一條の道は古の奥州道と云」と続けています。前者は清戸道とも呼ばれた現目白通りで、後者はこれまでも度々登場、→ 「長禄年間江戸図」にも描かれた、高田馬場から面影橋を渡り、雑司ヶ谷の鬼子母神へと向かう古道です。下高田村の中央を南北に縦断していて、村の鎮守の氷川神社や南蔵院、金乗院などの古刹は皆、この古道に面しています。

 

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    ・ 氷川神社  「氷川社 村の鎮守なり、南蔵院持在原業平を祀ると云」(「新編武蔵風土記稿」) 一方「江戸名所図会」は、「土俗あやまって在原業平および二條后の霊を祀るといふ、甚非なり」としています。 

 ところで、下高田村の地名由来ですが、「新編武蔵風土記稿」にもあるように、かっての高田は多摩郡上高田村(現中野区上高田)をも含む広域地名で、名前の由来は高い台地上にある田という、地形由来が有力です。これに対して、「御府内備考」は「往古越後家高田御前様馬場下辺に御用屋敷有之当時馬場は地所御遊覧所に相成候に付此辺高田村と相唱候由申伝御座候」と、高田馬場の地名由来でも紹介した説を収録しています。なお、高田御前は家康の六男、越後高田藩松平忠輝の生母茶阿局のことです。