神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

幻の感応寺分水

2015-08-25 06:24:12 | 千川用水5

 千川上水がV字ターンする南長崎6丁目交差点から東に2kmほどのところに、「大江戸のしっぽのあたり鼠山」と川柳に読まれ、→ 「江戸名所図会 / 落合惣図」にも描かれた鼠山があります。町奉行所の支配する江戸御府内(墨引き)の北西端に位置し、武蔵野の原野の広がるこの地には、三河以来の譜代大名、磐城平藩安藤家の下屋敷があり、三代将軍家光も狩りで度々訪れたといいます。なお、名前の由来としては、源頼朝、あるいは太田道灌が陣を敷き、寝ずの見張り番をたてたので「不寝見(ねずみ)山」、あるいは、ネズミが多いのでという、そのままのものもあります。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 長崎」(1/18000)  グレーの三角が磐城平藩安藤家の下屋敷、二万八千六百余坪、その西の丸い台地が鼠山です。オレンジ線は区境で大半は豊島区、そのほとんどが旧長崎村です。なお、「明治42年測図」に描かれた谷端川を重ねました。
 この安藤家下屋敷のあった地に、天保7年(1836年)、突如、上野寛永寺や芝増上寺に匹敵する一大伽藍が出現します。長耀山感応寺です。このお寺にまつわる虚実ないまぜのエピソードは、11代将軍家斉、その側室お美代の方、お美代の方の実父、智泉院住職日啓、長持ちに入った大奥女中やら、イケメンの破戒僧やら、役者も小道具もそろって、時代劇の格好の材料を提供します。大御所家斉がなくなり、最後に老中水野忠邦が登場、感応寺は跡かたもなく取り壊されてジエンド、天保12年(1841年)のことでした。

 

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    ・ 徳川黎明会  安藤家下屋敷のあった一角は、のち徳川侯爵家が所有、昭和6年(1931年)に徳川黎明会を創設しました。尾張徳川家所有のコレクションなどを管理、公開する財団法人です。

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    ・ 目白の森  鼠山の一角のマンション予定地1000坪弱を区が購入、平成9年に区立公園となりました。 → 園内には邸宅当時の緑が保存され、池も設けられています。