明日は基礎ゼミ発表です。御題は『インド人の輪廻思想』です。
原稿は以下のとおりです。
※はじめに
今回の課題のテーマとして『輪廻思想』を取り上げた。人間の死亡率は100%です。人間は死ぬとどうなるのでしょうか。また、昔の人はどう考えたのでしょうか。古代の死生観。そこで今回取り上げるのがインド哲学『輪廻思想』であります。それが記してあるのが、後述する事になる世界最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』(紀元前十二~十世紀ごろ)には、既にその原形が記されている。(大正大学綜合仏教研究所輪廻の思想研究会編『輪廻の世界』『四 ヒンドゥー教における輪廻思想をめぐる諸問題-バガヴァッド・ギーターを中心にー』小山典勇 P一二五)そして、バラモン教の最初の哲学書である『ウパニシャッド』、さらにヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』などを用いて稚拙ながら論述してみたいと思う。
※インド哲学の輪廻思想
○輪廻思想の出てくるのは、『リヴ・ヴェーダ』(紀元前十二~十世紀ごろ)にその原形が見られる、その後は紀元前八世紀頃にアーリア人の中核をなすバラモンたちによって先住農耕民族の死生観に源を発する輪廻思想を受け入れたともされる。また、紀元前五世紀ないし六世紀、前述したとおりバラモン教の最初の哲学書である『ウパニシャッド』にパンチャーラ国王プラヴァーナ・ジャイヴァリが、バラモンの有名な哲学者ウッダーラカ・アーニルの求めに応じてかつてバラモンにつたわったことのない、王族だけの教えであった輪廻思想「五火説」と「二道説」を教示した。とされている。
しかし、王族に伝わっていたのならば、『ウパニッシャッド』以前、つまり紀元前五、六世紀以前から『輪廻思想』は存在していたことになるが、それ以前の『リグ・ベーダ』などには「輪廻」という言葉が出ていていない。つまりは出所は不明で推測の域をでないことになります。『ウパニッシャッド』の中ではヤージュヴァルキヤという哲学者が・以下のように「輪廻」について語っています。
『あたかも草の葉につく蛭(ひる)が葉の先端に達し、さらに一歩を進めてその
身を収縮するように、このアートマン(我)はこの肉身を捨て、無意識状態を離れて、〔別の身体へと〕さらに一歩をすすめてその身を収縮する。あたかも
刺繍をする女が刺繍の一部分をほどいて、別のもっと新しく、さらに美しい模様を作り出すように、このアートマンも、この肉身を捨て、無意識の状態を離れて、別のもっと美しい形―あるいは祖霊の、あるいはガンダルヴァ(ヒンドゥー教の神の一柱)の、あるいは神の、あるいは造物主のあるいはブラフマン(宇宙の最高実在のこと)の、あるいは他の生物の〔形〕―をとる。』※1図
『インド思想史』P25 早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学 著
東京大学出版会 1982年8月16日初版
iv以上、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』より
それでは、具体的な『輪廻思想』の中身について触れていきたいと思う。先ほど触れた「五火説」「二道説」であるが、ひとつずつ解説していきたいと思う。※5図
※五火説
死者が火葬されると、その霊が順次に
(1)月にいたる(2)雨となる(3)地上に降って食物となる
(4)精子となる(5)母胎に入って再生する
と説き、火葬の習慣と降雨の現象とを結合し、輪廻する五段階を五個の供犠の祭火になぞらえて説明している。
※二道説
死者のたどる道を神道と祖道に分け、どの道をとるかは生前の行為によるものとし、そのほかに悪人のおもむく第三の場所を挙げている。神道をとれば最終的にはブラフマン(宇宙の最高実在のこと)に到達するが、祖道をとれば、五火説におけるが如く、月に至ってふたたび逆に戻り、地上に再生する。
両説は本来思想内容を異にするが、その類似性のため「五火二道説」として、あわせ
て言及される。
『インド思想史』P26 早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学 著
東京大学出版会 1982年8月16日初版
次に「五火二道説」以後、「ウパニシャッド」の中に「月界一道説」にも来世が描かれている。それを見てみよう。
月界一道説においては解脱者も、梵に達するまでに長距離の行程を必要とした。また、二箇の村落が大道によって結びつけられるがごとく、光線による太陽と心臓の脈管との連絡を認め解脱者のアートマン(我)は、死後ろ頂に通ずる一脈管によって体外に出て光線に乗じて世界の門戸たる太陽に達するとも説かれている。(ChU viii6 cf.BAU iv.4.8-9)※2図あるいは死後この世より、風、太陽、月を経てついに無熱(あるいは無憂)、無寒の世界に入り、ここに久遠の安住を得(る)、(BAU v.10)あるいは、アートマン(我)を悟証して世を去るものは、あらゆる世界に対し選択の自由を有し、その願望の向うところの思惟の力のみにより、父、母、兄弟、姉妹、朋友、芳香、華鬘(けまん)、飲食、歌楽、婦女の世界を得て愉悦する(ChU viii.2)。
二道説においても神道を得て梵界に至った者にも自由闊達な生活が与えられるものと考えられたらしい(BAU vi.2.15)。むしろ、歓楽に満ちた具体的世界と見られたのである。最高天にある梵界には、遊池あり、菩提樹あり、「常勝」といわれる梵の都城あり、黄金の宮殿があるといわれ(ChU viii.15)、梵界なる語はむしろ梵天の世界と訳する方がむしろ適切とさえ思われる。
『ウパニシャッド』 辻直四郎訳 講談社学術文庫 P109~110
また、『リグ・ヴェーダ』には死後の行方・あり方を説く賛歌が収録されている。そこには死後の行方・あり方に少なからぬ感心が見て取れる。
最初に死の道を発見したヤマの歌、ピトリ(祖霊)の歌、死者や葬送の歌などが散見する。『リグ・ヴェーダ』全一〇巻・賛歌の総数一〇二八の中では、死に関する歌は少数であり、テーマとしても二次的である。
ヤマの歌[10・14・1~。辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ賛歌』岩波文庫参照]
14・1大いなる直路に沿いて遥かに去り・多くの者(死者)のために道を発見したる・ヴィヴァスヴァッドの子、人間の招集者・ヤマ王を、供物もて崇めよ。
14・2ヤマはわれらのために最初の道を見いだせり。この牧場(楽土・死界)は奪い取られるべきにあらず。われらのために古き祖先が先に去り行きしところ、
そこの後生(子孫)は、自己の道に従って(赴く)。
ヤマの歌は、人間は「死んだらどうなるのか?」という素朴な問いというよりも「最初に死んだのは誰か?」というユニークな問いに始まり、その意味で楽観的である。最初に死んだのがヤマであれば、最初に生まれた人間は誰かについても推測され、人類の祖先は「マヌ(人間という意味)」とされている。
ヤマとは、最初に死の道を「発見した者」であるが、そのことは結果として死んだ人間を招集する「招集者」の役を担うのである。死者の行き先は、大いなる直路に沿って遥かかなたにある牧場である。その牧場の風景は神々の宮殿のようであり、楽園であり、その情景は次のように多彩である。
14・9ヤマは、昼・水・夜もて飾れる安息所を彼に与う。
14・11ヤマと共なる饗宴を楽しむところの。
135・1(少年の言葉)美しく葉の茂る木のもとにヤマが神々と会飲するところ、そこに部族の長、われらが父は古代の者たち(祖先)を求めて注視す。
135・7(ヤマの居所の賛美)こはヤマの座なり。そは神々の宮居と称せられる。彼(ヤマ)の笛はここに吹かれる。彼はここに歌声をもて荘厳せらる。
ヤマの世界すなわち楽園には、一族の祖先が先に到達しており、やがて子孫も行くことになっている。子孫は供物を供えてヤマを崇めることが要請される。
しかし、どんなに死を美化したところで死は恐怖の対象であったに違いない。では、死
の恐怖とどう向き合って恐怖を回避?してきたのだろうか。もう一度、リグ・ヴェーダ
の葬送の歌で考察してみたい。
16・1アグニ(火神)よ、彼(死者)を焼き尽くすなかれ。彼の皮膚を焦がすなかれ、[彼の]肉体を。汝が[彼を]調理し終わりたるとき、そのとき彼を祖先のもとに送れ。ジャータ・ヴェーダス(アグニ:火神の呼称)よ。
16・4(前半略)汝の吉祥たる形態、それによってジャータ・ヴェーダスよ、彼(死者)を善行者の世界へ運べ。
16・5[彼を]再び祖先に送り返せ。アグニよ、汝に捧げられて、スヴァダー(祖霊への供物)と共に赴く[彼を]。寿命をまといて彼は遺族を訪れよ。彼は[新たなる]身体と合一せよ。ジャータ・ヴェーダスよ。
葬送すなわち火葬では、火の神アグニによって死者は苦痛もなく損傷もなく調理され、祖先のもとに送られるように、願いがこめられている。その行き先は善行者の世界ともいわれ、前述のように、そこで新しい身体と合一することが期待される。
ここで注目したいのは、少なくとも『リグ・ヴェーダ』では、解脱ではなく再生を願
っていることが解かる。つまりは「輪廻」でもう一度、人に生まれ変わることを願って
いるのだ。この再生の切実な願いは死者を蘇生させる歌にも表れている。
57・3われらは今マナス(意識・精神)をこなたに呼ぶ。ナラーシャンサ(神名)に捧げられたるソーマ(酒)により、また祖霊のための賛歌により。
57・4汝のマナスは再び帰り来たれ。思慮の為に、行動力のために、生存せんがために、また永く太陽を見んがために。
生と死は、マナスがあるから生きている・マナスが消滅するから死ぬと考えられ、マナスは「生命の根源」あるいは「命そのもの」と考えられていることに注目しておこう。
では、死者は全て同じ待遇なのだろうか?それについては死者を他界へ送る歌に記述
してある。
154・2苦行により冒すべからざる人々、苦行により天界に達したる人々、苦行を(その)荘厳となしたる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ、
154・3合戦において戦う人々、勇士として身体を棄つる人々、または[牝牛]千頭をダクシナー(布施)として与うる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ、
154・5千の賛歌を知り・太陽を守護する詩人たち、苦行に富む聖仙たち、ヤマよ、彼は苦行より生まれたる人々に加われ。
死者の死後のありようは、ヤマの世界のような安息というよりも、死後の恐怖や不安から守られるようにという願いである。誰が、何が、恐れを払うかといえば、苦行の力、功徳を持つ苦行者、合戦の勇者、布施の功徳を積んだ資産家、聖なるものを歌う詩人、聖仙などであり、その一員に迎えられることが願いの主旨である。ヤマには、死者の先達としての仲介の労をとることが期待されている。死後の世界は、ヤマに期待される理想郷の一として、その二には現実的な問題として深刻に受け止められていることを注記しておきたい。
・『リグ・ヴェーダ』辻直四郎訳 岩波文庫 P229~P253
・大正大学綜合仏教研究所輪廻の思想研究会編『輪廻の世界』『四 ヒンドゥー教における輪廻思想をめぐる諸問題-バガヴァッド・ギーターを中心にー』小山典勇 P124~P132
○次に『バガヴァッド・ギーター』では輪廻思想はどのように考えられていたのだろうかみてみたい。
『バガヴァッド・ギーター』は前述した初期『ウパニシャッド』より成立が遅く、お
およそ紀元一世紀ごろ成立といわれている。しかしその原形は紀元前二世紀にまで遡る
といわれています。では、『バガヴァッド・ギーター』の中の「輪廻」に関する記述か
らその思想をみてみたい。
1・41悪徳の支配によって一族の婦女が堕落する。婦女が堕落すればカースト制身分制度に混乱が生じる。
1・42その混乱は一族の破壊者と一族とを地獄へ導く。その祖先は団子と水の供養を享受することができず、その結果、地獄へ落ちる。
1・44一族の道徳が滅びた人々は必ず地獄に住むことになる、と聞いている。
以上の部分では、道徳の大切さとないがしろにする事によって地獄へ行くという戒めが
論じてある。婦女が堕落すれば子孫が繁栄することが無く、その結果祖先を供養する子
孫がいなくなることを意味する。一族の繁栄が無くなれば一転してこの世では殺人、社
会の混乱、来世では地獄となり、子孫も祖先も共に苦に苛まれることになる。
物語は、一方に茫然自失してたたずんでいるアルジュナ。一方にアルジュナの戦車をひく御者・クリシュナが、至福の神・バガヴァッドとして神の姿を示現し、躊躇をたしなめ、生命のありようを説き、クシャトリア(カースト制の王族階級)の責務にたてと鼓舞する場である。※3図
2・11ところで、この私(至福神・バガヴァッド)は、過去にも存在しなかったことはないし、汝も、ここにいる王たちも。また我々は皆、未来に存在しなくなることもない。
2・13我々の身体を支配するもの(個我→アートマンの別名)には、現世の身体において幼児期・青年期・老年期があるように、[死後には]他の体を獲得する。賢者は、このことに惑わない。
2・20この[個我]は、生じることもなく、滅することもない。一度存在した後で、存在しなくなることもない。不生[→不滅]、常住、永遠である、この太古から存在するものは、身体が破壊されても、破壊されることはない。
2・22人が古い衣服を捨てて新しい衣服を着るように、身体を所有するもの(個我)は古い身体を捨てて他の新しい身体に行くのである。
最後の部分は『ウパニシャッド』の「蛭」のたとえに似ていることがわかるだろう。
『ウパニシャッド』では、死の恐怖から逃れる為に行、布施、部族のために身を犠牲にして戦うこと、聖なることを吟じること(今で言う念仏を唱えること?)、若しくは聖なる仙人であることが求められており簡単には死の恐怖から逃れられないことになっている。死後の安息がそれだけ尊いものであったといえるだろう。
もう一つは、インド人は「輪廻」を「苦」と考えていたようで今生で死ぬのは仕方ないにしても来世でもまた「死」が待っている。「再生」ではなく、「再死」着目していたようで、これは日本人にはない考えだと思います。※9図インド人は、人生を深く考え再び生まれかわる喜びより、再び死ぬ事を恐れたのです。ですからこの一見果てしない輪廻の輪から脱け出すには、「二道説」に挙げているように生前の行為の欲望を正し、欲望を滅ぼせば解脱できる。この境地をインド人は「不死」といいました。今生で死んでも、もう死ぬことは無い。つまりは「再生」しなくて済むという訳です。
神道を行く人は、最後にはブラフマンの域に到達するわけで、これがちょうど「梵我一如」(宇宙の根源=個人の本体)ということになります。この思想により「解脱」が得られるわけです。以上が仏教以前のインド哲学における「死生観」、「輪廻思想」である。
※最後に
日本では、というか、私の感覚では、「死んでも輪廻転生するのだから・・・」とい
う安直に考えている節があった。これは本来のインドの思想から言えば本末転倒な話で
インドには教えでは生は迷いの世界で「生=苦」という考えもあるのだから、「不本意
な存在であると言っていい。※9図それを思えば、「再生」「再死」しない為に現世の行
いを見詰め直して、ちょっと背筋を正して生きてみようかという気にならないでもない。
今回、インドの輪廻思想や死後の世界に特化して論述してみたが取り上げることができ
たのは一部でありまだまだ奥の深い思想であることを付け加えておきたい。
最後に死をどう捉えていたのか、という話だが死を恐怖と考えていたのか来世の「再
死」を恐怖と考えていたのかという話だが、理想は「再死」を恐れ「解脱」を目指して
いたのだろうが、実際は苦行やたくさんの布施をせねばならず、一般庶民には難しいこ
とではなかったかと思う。※4図であるから、現実的には「輪廻」を願い、再び人間に
生まれ変わることを願っていたと思うのである。
※参考・引用文献
・『インド思想史』 J・ゴンダ著 鎧淳 訳 岩波文庫
・『インド哲学へのいざない―ヴェーダとウパニシャッド』
前田專学著 NHKライブラリー
・『インド人が考えたこと―インド哲学思想史講義』 宮元啓一著 春秋社
・『インド思想史』 早島鏡正・高崎直道・原実・前田專学著 東京大学出版会
・『インド思想史』 中村元著 岩波全書
・『輪廻の思想』 梶山雄一著 人文書院
・大正大学綜合仏教研究所輪廻の思想研究会編『輪廻の世界』青史出版
・『リグ・ヴェーダ』 辻直四郎訳 岩波文庫
・『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦訳 岩波文庫
・『ウパニシャッド』 辻直四郎訳 講談社学術文庫
・『インド死者の書』 宮元啓一著 すずき出版
長いね。
原稿は以下のとおりです。
※はじめに
今回の課題のテーマとして『輪廻思想』を取り上げた。人間の死亡率は100%です。人間は死ぬとどうなるのでしょうか。また、昔の人はどう考えたのでしょうか。古代の死生観。そこで今回取り上げるのがインド哲学『輪廻思想』であります。それが記してあるのが、後述する事になる世界最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』(紀元前十二~十世紀ごろ)には、既にその原形が記されている。(大正大学綜合仏教研究所輪廻の思想研究会編『輪廻の世界』『四 ヒンドゥー教における輪廻思想をめぐる諸問題-バガヴァッド・ギーターを中心にー』小山典勇 P一二五)そして、バラモン教の最初の哲学書である『ウパニシャッド』、さらにヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』などを用いて稚拙ながら論述してみたいと思う。
※インド哲学の輪廻思想
○輪廻思想の出てくるのは、『リヴ・ヴェーダ』(紀元前十二~十世紀ごろ)にその原形が見られる、その後は紀元前八世紀頃にアーリア人の中核をなすバラモンたちによって先住農耕民族の死生観に源を発する輪廻思想を受け入れたともされる。また、紀元前五世紀ないし六世紀、前述したとおりバラモン教の最初の哲学書である『ウパニシャッド』にパンチャーラ国王プラヴァーナ・ジャイヴァリが、バラモンの有名な哲学者ウッダーラカ・アーニルの求めに応じてかつてバラモンにつたわったことのない、王族だけの教えであった輪廻思想「五火説」と「二道説」を教示した。とされている。
しかし、王族に伝わっていたのならば、『ウパニッシャッド』以前、つまり紀元前五、六世紀以前から『輪廻思想』は存在していたことになるが、それ以前の『リグ・ベーダ』などには「輪廻」という言葉が出ていていない。つまりは出所は不明で推測の域をでないことになります。『ウパニッシャッド』の中ではヤージュヴァルキヤという哲学者が・以下のように「輪廻」について語っています。
『あたかも草の葉につく蛭(ひる)が葉の先端に達し、さらに一歩を進めてその
身を収縮するように、このアートマン(我)はこの肉身を捨て、無意識状態を離れて、〔別の身体へと〕さらに一歩をすすめてその身を収縮する。あたかも
刺繍をする女が刺繍の一部分をほどいて、別のもっと新しく、さらに美しい模様を作り出すように、このアートマンも、この肉身を捨て、無意識の状態を離れて、別のもっと美しい形―あるいは祖霊の、あるいはガンダルヴァ(ヒンドゥー教の神の一柱)の、あるいは神の、あるいは造物主のあるいはブラフマン(宇宙の最高実在のこと)の、あるいは他の生物の〔形〕―をとる。』※1図
『インド思想史』P25 早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学 著
東京大学出版会 1982年8月16日初版
iv以上、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』より
それでは、具体的な『輪廻思想』の中身について触れていきたいと思う。先ほど触れた「五火説」「二道説」であるが、ひとつずつ解説していきたいと思う。※5図
※五火説
死者が火葬されると、その霊が順次に
(1)月にいたる(2)雨となる(3)地上に降って食物となる
(4)精子となる(5)母胎に入って再生する
と説き、火葬の習慣と降雨の現象とを結合し、輪廻する五段階を五個の供犠の祭火になぞらえて説明している。
※二道説
死者のたどる道を神道と祖道に分け、どの道をとるかは生前の行為によるものとし、そのほかに悪人のおもむく第三の場所を挙げている。神道をとれば最終的にはブラフマン(宇宙の最高実在のこと)に到達するが、祖道をとれば、五火説におけるが如く、月に至ってふたたび逆に戻り、地上に再生する。
両説は本来思想内容を異にするが、その類似性のため「五火二道説」として、あわせ
て言及される。
『インド思想史』P26 早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学 著
東京大学出版会 1982年8月16日初版
次に「五火二道説」以後、「ウパニシャッド」の中に「月界一道説」にも来世が描かれている。それを見てみよう。
月界一道説においては解脱者も、梵に達するまでに長距離の行程を必要とした。また、二箇の村落が大道によって結びつけられるがごとく、光線による太陽と心臓の脈管との連絡を認め解脱者のアートマン(我)は、死後ろ頂に通ずる一脈管によって体外に出て光線に乗じて世界の門戸たる太陽に達するとも説かれている。(ChU viii6 cf.BAU iv.4.8-9)※2図あるいは死後この世より、風、太陽、月を経てついに無熱(あるいは無憂)、無寒の世界に入り、ここに久遠の安住を得(る)、(BAU v.10)あるいは、アートマン(我)を悟証して世を去るものは、あらゆる世界に対し選択の自由を有し、その願望の向うところの思惟の力のみにより、父、母、兄弟、姉妹、朋友、芳香、華鬘(けまん)、飲食、歌楽、婦女の世界を得て愉悦する(ChU viii.2)。
二道説においても神道を得て梵界に至った者にも自由闊達な生活が与えられるものと考えられたらしい(BAU vi.2.15)。むしろ、歓楽に満ちた具体的世界と見られたのである。最高天にある梵界には、遊池あり、菩提樹あり、「常勝」といわれる梵の都城あり、黄金の宮殿があるといわれ(ChU viii.15)、梵界なる語はむしろ梵天の世界と訳する方がむしろ適切とさえ思われる。
『ウパニシャッド』 辻直四郎訳 講談社学術文庫 P109~110
また、『リグ・ヴェーダ』には死後の行方・あり方を説く賛歌が収録されている。そこには死後の行方・あり方に少なからぬ感心が見て取れる。
最初に死の道を発見したヤマの歌、ピトリ(祖霊)の歌、死者や葬送の歌などが散見する。『リグ・ヴェーダ』全一〇巻・賛歌の総数一〇二八の中では、死に関する歌は少数であり、テーマとしても二次的である。
ヤマの歌[10・14・1~。辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ賛歌』岩波文庫参照]
14・1大いなる直路に沿いて遥かに去り・多くの者(死者)のために道を発見したる・ヴィヴァスヴァッドの子、人間の招集者・ヤマ王を、供物もて崇めよ。
14・2ヤマはわれらのために最初の道を見いだせり。この牧場(楽土・死界)は奪い取られるべきにあらず。われらのために古き祖先が先に去り行きしところ、
そこの後生(子孫)は、自己の道に従って(赴く)。
ヤマの歌は、人間は「死んだらどうなるのか?」という素朴な問いというよりも「最初に死んだのは誰か?」というユニークな問いに始まり、その意味で楽観的である。最初に死んだのがヤマであれば、最初に生まれた人間は誰かについても推測され、人類の祖先は「マヌ(人間という意味)」とされている。
ヤマとは、最初に死の道を「発見した者」であるが、そのことは結果として死んだ人間を招集する「招集者」の役を担うのである。死者の行き先は、大いなる直路に沿って遥かかなたにある牧場である。その牧場の風景は神々の宮殿のようであり、楽園であり、その情景は次のように多彩である。
14・9ヤマは、昼・水・夜もて飾れる安息所を彼に与う。
14・11ヤマと共なる饗宴を楽しむところの。
135・1(少年の言葉)美しく葉の茂る木のもとにヤマが神々と会飲するところ、そこに部族の長、われらが父は古代の者たち(祖先)を求めて注視す。
135・7(ヤマの居所の賛美)こはヤマの座なり。そは神々の宮居と称せられる。彼(ヤマ)の笛はここに吹かれる。彼はここに歌声をもて荘厳せらる。
ヤマの世界すなわち楽園には、一族の祖先が先に到達しており、やがて子孫も行くことになっている。子孫は供物を供えてヤマを崇めることが要請される。
しかし、どんなに死を美化したところで死は恐怖の対象であったに違いない。では、死
の恐怖とどう向き合って恐怖を回避?してきたのだろうか。もう一度、リグ・ヴェーダ
の葬送の歌で考察してみたい。
16・1アグニ(火神)よ、彼(死者)を焼き尽くすなかれ。彼の皮膚を焦がすなかれ、[彼の]肉体を。汝が[彼を]調理し終わりたるとき、そのとき彼を祖先のもとに送れ。ジャータ・ヴェーダス(アグニ:火神の呼称)よ。
16・4(前半略)汝の吉祥たる形態、それによってジャータ・ヴェーダスよ、彼(死者)を善行者の世界へ運べ。
16・5[彼を]再び祖先に送り返せ。アグニよ、汝に捧げられて、スヴァダー(祖霊への供物)と共に赴く[彼を]。寿命をまといて彼は遺族を訪れよ。彼は[新たなる]身体と合一せよ。ジャータ・ヴェーダスよ。
葬送すなわち火葬では、火の神アグニによって死者は苦痛もなく損傷もなく調理され、祖先のもとに送られるように、願いがこめられている。その行き先は善行者の世界ともいわれ、前述のように、そこで新しい身体と合一することが期待される。
ここで注目したいのは、少なくとも『リグ・ヴェーダ』では、解脱ではなく再生を願
っていることが解かる。つまりは「輪廻」でもう一度、人に生まれ変わることを願って
いるのだ。この再生の切実な願いは死者を蘇生させる歌にも表れている。
57・3われらは今マナス(意識・精神)をこなたに呼ぶ。ナラーシャンサ(神名)に捧げられたるソーマ(酒)により、また祖霊のための賛歌により。
57・4汝のマナスは再び帰り来たれ。思慮の為に、行動力のために、生存せんがために、また永く太陽を見んがために。
生と死は、マナスがあるから生きている・マナスが消滅するから死ぬと考えられ、マナスは「生命の根源」あるいは「命そのもの」と考えられていることに注目しておこう。
では、死者は全て同じ待遇なのだろうか?それについては死者を他界へ送る歌に記述
してある。
154・2苦行により冒すべからざる人々、苦行により天界に達したる人々、苦行を(その)荘厳となしたる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ、
154・3合戦において戦う人々、勇士として身体を棄つる人々、または[牝牛]千頭をダクシナー(布施)として与うる人々、これらの者にこそ彼は加わるべかれ、
154・5千の賛歌を知り・太陽を守護する詩人たち、苦行に富む聖仙たち、ヤマよ、彼は苦行より生まれたる人々に加われ。
死者の死後のありようは、ヤマの世界のような安息というよりも、死後の恐怖や不安から守られるようにという願いである。誰が、何が、恐れを払うかといえば、苦行の力、功徳を持つ苦行者、合戦の勇者、布施の功徳を積んだ資産家、聖なるものを歌う詩人、聖仙などであり、その一員に迎えられることが願いの主旨である。ヤマには、死者の先達としての仲介の労をとることが期待されている。死後の世界は、ヤマに期待される理想郷の一として、その二には現実的な問題として深刻に受け止められていることを注記しておきたい。
・『リグ・ヴェーダ』辻直四郎訳 岩波文庫 P229~P253
・大正大学綜合仏教研究所輪廻の思想研究会編『輪廻の世界』『四 ヒンドゥー教における輪廻思想をめぐる諸問題-バガヴァッド・ギーターを中心にー』小山典勇 P124~P132
○次に『バガヴァッド・ギーター』では輪廻思想はどのように考えられていたのだろうかみてみたい。
『バガヴァッド・ギーター』は前述した初期『ウパニシャッド』より成立が遅く、お
およそ紀元一世紀ごろ成立といわれている。しかしその原形は紀元前二世紀にまで遡る
といわれています。では、『バガヴァッド・ギーター』の中の「輪廻」に関する記述か
らその思想をみてみたい。
1・41悪徳の支配によって一族の婦女が堕落する。婦女が堕落すればカースト制身分制度に混乱が生じる。
1・42その混乱は一族の破壊者と一族とを地獄へ導く。その祖先は団子と水の供養を享受することができず、その結果、地獄へ落ちる。
1・44一族の道徳が滅びた人々は必ず地獄に住むことになる、と聞いている。
以上の部分では、道徳の大切さとないがしろにする事によって地獄へ行くという戒めが
論じてある。婦女が堕落すれば子孫が繁栄することが無く、その結果祖先を供養する子
孫がいなくなることを意味する。一族の繁栄が無くなれば一転してこの世では殺人、社
会の混乱、来世では地獄となり、子孫も祖先も共に苦に苛まれることになる。
物語は、一方に茫然自失してたたずんでいるアルジュナ。一方にアルジュナの戦車をひく御者・クリシュナが、至福の神・バガヴァッドとして神の姿を示現し、躊躇をたしなめ、生命のありようを説き、クシャトリア(カースト制の王族階級)の責務にたてと鼓舞する場である。※3図
2・11ところで、この私(至福神・バガヴァッド)は、過去にも存在しなかったことはないし、汝も、ここにいる王たちも。また我々は皆、未来に存在しなくなることもない。
2・13我々の身体を支配するもの(個我→アートマンの別名)には、現世の身体において幼児期・青年期・老年期があるように、[死後には]他の体を獲得する。賢者は、このことに惑わない。
2・20この[個我]は、生じることもなく、滅することもない。一度存在した後で、存在しなくなることもない。不生[→不滅]、常住、永遠である、この太古から存在するものは、身体が破壊されても、破壊されることはない。
2・22人が古い衣服を捨てて新しい衣服を着るように、身体を所有するもの(個我)は古い身体を捨てて他の新しい身体に行くのである。
最後の部分は『ウパニシャッド』の「蛭」のたとえに似ていることがわかるだろう。
『ウパニシャッド』では、死の恐怖から逃れる為に行、布施、部族のために身を犠牲にして戦うこと、聖なることを吟じること(今で言う念仏を唱えること?)、若しくは聖なる仙人であることが求められており簡単には死の恐怖から逃れられないことになっている。死後の安息がそれだけ尊いものであったといえるだろう。
もう一つは、インド人は「輪廻」を「苦」と考えていたようで今生で死ぬのは仕方ないにしても来世でもまた「死」が待っている。「再生」ではなく、「再死」着目していたようで、これは日本人にはない考えだと思います。※9図インド人は、人生を深く考え再び生まれかわる喜びより、再び死ぬ事を恐れたのです。ですからこの一見果てしない輪廻の輪から脱け出すには、「二道説」に挙げているように生前の行為の欲望を正し、欲望を滅ぼせば解脱できる。この境地をインド人は「不死」といいました。今生で死んでも、もう死ぬことは無い。つまりは「再生」しなくて済むという訳です。
神道を行く人は、最後にはブラフマンの域に到達するわけで、これがちょうど「梵我一如」(宇宙の根源=個人の本体)ということになります。この思想により「解脱」が得られるわけです。以上が仏教以前のインド哲学における「死生観」、「輪廻思想」である。
※最後に
日本では、というか、私の感覚では、「死んでも輪廻転生するのだから・・・」とい
う安直に考えている節があった。これは本来のインドの思想から言えば本末転倒な話で
インドには教えでは生は迷いの世界で「生=苦」という考えもあるのだから、「不本意
な存在であると言っていい。※9図それを思えば、「再生」「再死」しない為に現世の行
いを見詰め直して、ちょっと背筋を正して生きてみようかという気にならないでもない。
今回、インドの輪廻思想や死後の世界に特化して論述してみたが取り上げることができ
たのは一部でありまだまだ奥の深い思想であることを付け加えておきたい。
最後に死をどう捉えていたのか、という話だが死を恐怖と考えていたのか来世の「再
死」を恐怖と考えていたのかという話だが、理想は「再死」を恐れ「解脱」を目指して
いたのだろうが、実際は苦行やたくさんの布施をせねばならず、一般庶民には難しいこ
とではなかったかと思う。※4図であるから、現実的には「輪廻」を願い、再び人間に
生まれ変わることを願っていたと思うのである。
※参考・引用文献
・『インド思想史』 J・ゴンダ著 鎧淳 訳 岩波文庫
・『インド哲学へのいざない―ヴェーダとウパニシャッド』
前田專学著 NHKライブラリー
・『インド人が考えたこと―インド哲学思想史講義』 宮元啓一著 春秋社
・『インド思想史』 早島鏡正・高崎直道・原実・前田專学著 東京大学出版会
・『インド思想史』 中村元著 岩波全書
・『輪廻の思想』 梶山雄一著 人文書院
・大正大学綜合仏教研究所輪廻の思想研究会編『輪廻の世界』青史出版
・『リグ・ヴェーダ』 辻直四郎訳 岩波文庫
・『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦訳 岩波文庫
・『ウパニシャッド』 辻直四郎訳 講談社学術文庫
・『インド死者の書』 宮元啓一著 すずき出版
長いね。