雪舟における「さかいをまぎらかす」について私が考えたプロセスを書いていきます。
「冬山水図」
「慧可断臂図」
「天橋立図」
(ここで対象にしている作品は、最も有名な「冬山水図」と「慧可断臂図」と「天橋立図」です((画像参照))。
雪舟は技法的にはオールラウンドテクニシャンで、作品ごとに描き方が異なっているといえるほどなので、どの絵のことを言ってるのか指定しておかないとわけがわからなくなります。)
最初に思ったのは、禅の思想と絵を描くこととのさかいがまぎらかされているということです。
しかし中世期の禅宗の僧には水墨画を描く人も多く、雪舟だけが「禅の思想と絵を描くこととのさかいをまぎらかしている」と言い切れるかどうか、確信をもてないので取り下げることにしました。
次に考えたのは、「遠近のさかいをまぎらかせている」ということです。
水墨表現における空間の遠近表現は、原則的には遠くのものは色薄く近くのものは濃く描くのが定石とされています。
だから空間の遠近をまぎらかすということは、技法的には墨の濃淡(あるいは黒と余白)をまぎらかすという方法になります。
実際、「冬山水画」は墨で描かれた線や面と余白を入りくまさせて遠近関係をまぎらかせた幻想的な山水に仕立てています。
こうなってくると、現代のわれわれが眼にする抽象絵画のもうほとんど一歩手前まで来ています。
しかし雪舟はなぜそんなことをしたのでしょうか?
そのようにえ山水を描くべき必然性はどこにあったのか、それは宗教的な(つまり禅的な)モチベーションと関係あるかもしれませんが、門外漢としては確定的なことは言えません。
そこで着眼点を少し変えてみたのが、雪舟と同時代の中国(明王朝)の水墨画の状況との関連づけです。
雪舟は48歳のときに2年間ほど明の水墨画を学ぶために留学しましたが、帰国すると「学ぶべきものがなかった」と豪語してました。
とは言いながら、二人の絵師から技法を習得したりもしています。
戴進「春山積翠図」 沈周「廬山高図」 呉派
浙派
当時の明の水墨画は、山水の描き方に
おいて、浙派と呉派という二つの流れが形成されていました。
浙派の特徴は南宋以来の伝統的な「空気感(墨の濃淡を生かした奥行き感)の描出」を重視した描法、呉派は元の後期あたりから台頭してきた、空気感を否定して“ものの形”や“物質感”を前面に押し出していく描法を特徴としていました。
この二つの流れは、明の後期(16世紀)になると統合(すなわち両者の「さかいをまぎらかかす」)していく方向で新たな表現方法が求められるようになりますが、
雪舟が「冬山水画」で作画の課題としたのは、まさしくこの、明の山水画における空気感と“形”・“物質感”との融合という課題とぴったりと重なっているように思われます。
そのように見ると、雪舟の探求は15世紀中のことであるのに対して、明では16世紀(雪舟亡き後)にその流れが発生してきますから、雪舟の方が先取りしていたことになります。
明の山水画における浙派と呉派の対照的なところを雪舟の作画の中に求めるとするならば、「慧可断臂図」と「天橋立図」の対照性になるかと思います。
前者は達磨の全身がほとんど余白状態に表現され、後者では天橋立の風景の堅固な存在感(形)が眼前に立ち現れてくるように表現されています。
この両者が紛らかされて、余白を生かそうとする表現と形をアピールしていこうとする表現が融合して「冬山水画」の画境が達成されている、とよめるわけです。
ここで、「慧可断臂図」の達磨の身体を、慧可が観じた“空”の現われとして見、感覚的に知覚される現象に「空を観じる」禅的な境地として解釈すると、
雪舟は、「天橋立図」における「視覚に立ち現れてくる物質世界」と、それを「空を観じる」心のはたらきとの「さかいをまぎらか」して、「冬山水画」の世界を実現しようとしたのだと、考えることもできるかと思います。