モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ②女三の宮は元祖「わきまえぬ女」

2022年07月26日 | 日本的りべらりずむ

『源氏物語』(以下、『源氏』)は物語の展開の上では大きく前半と後半に分かれます。

前半は光源氏が40歳を迎えて准太上天皇(天皇の座を譲位した後の天皇。上皇)の地位にまで上りつめ、
都の六条に大邸宅を建ててそれまでにかかわりのあった女性たちを住まわせるなど、この世の栄華を極めるところまでの話。

後半は、六条院に体現された栄華にもやがてたそがれの翳が忍び寄り、紫の上そして光源氏の死から、薫大将・匂宮・浮舟を主人公とする宇治十帖の物語へと移っていきます。

前半は明石や須磨の巻などよく知られたエピソードで構成されていますが、最後まで読んだ人の間では、面白いのは後半という人が多いようです。


栄華を極めた主人公や一族が後半次第に衰えていく過程が描かれるのは、古今東西の長編物語に共通してありがちですが、
『源氏』の場合は、研究者の間では、物語の主題への取り組みを、作者が改めて仕切り直した、というふうに解釈することが多いように感じられます。

つまり、前半は読者を喜ばすことを意図して物語っていますが、後半は貴族社会のなかでの男女のあり方や、仏教的な信仰のあり方など、
人間の生き方を深く凝視していくようになっているというふうに読まれることが多いということです。



私の見解を言わせてもらえば――現代の用語を使わせてもらいますが――後半はいわゆる〝脱構築”ということが試みられているように感じられます。

前半は、平安期にたくさん書かれていただろうと推測される物語文学の、プロット構成法のいくつかのパターンに即したり、組み合わせたりして、
音楽でいえばいわゆる調性コードにしたがって、光源氏の色好みの遍歴と出世譚が語られるわけですが、
後半はそこに異質な要素が入り込んできて、調性が崩れていく過程が語られていくのですね。

調性が崩れていくその歪みや裂け目のなかに、何かうごめいているように感じられるもの(それが何かは作者にもはっきりとは形象化できない)を見すえていこうとする、そんな空気が感じられてきます。

その調性崩壊の始まりを飾る話が、柏木と女三の宮の密通の物語です。

特に女三の宮の性格設定は、『源氏』あるいは六条院の予定調和的な世界に亀裂を生じさせていきます。

そしてこれをどう生かして、新しい物語世界を創り出していくかというところに、作者紫式部の文学的闘争が展開されていくわけです。


女三の宮というのは、光源氏の腹違いの兄、朱雀天皇の末娘で、末っ子であるだけに天皇は溺愛して育てました。

そして天皇を譲位したあとは出家することを希望し、まだ幼い三の宮の後見を心配した末に、最終的に光源氏の正妻に迎え入れられることになります(このときの年齢はまだ十代の前半)。

女三の宮は父親に溺愛されて育ったために源氏の正妻になってからもいつまで経っても幼児性が抜けず、その融通の利かなさに源氏は辟易として、あまり寄り付かなくなります。

源氏には紫の上という最愛の女性がいて、人間的にもよくできた人ですが、源氏の色好みな性格は、紫の上を愛しながらも蔑ろにしてきています。

それが女三の宮と比較することで、源氏の中で紫の上の人間性への評価が高まり、彼女に注ぐ源氏の愛が深まっていきます。


源氏も紫の上もこの時には晩年に至っていて、やがて二人とも亡くなるのですが、
源氏の精神世界のなかでは来し方の生き様を顧みる心が芽ばえ、紫の上ばかりでなく、他の女性たちの一人一人の個性に気付いていくという描写があったりします。

それは光源氏の色好みな生き方や六条院という調和的世界のゆるやかな解体とともに、人間の生き方の新しいヴィジョンの芽生えを暗示していると読めなくありません。

そのきっかけとなったのが、女三の宮という異質なファクターが闖入してくることによってであるわけですが、
その異質性は、現代の言葉で表現すれば、平安期貴族・男性社会のなかでの「わきまえぬ女」の逸脱性と言えるのではないかと思います。

この逸脱性は柏木と女三の宮の密通譚において効果的に発揮されて、柏木という新しいタイプの男性(人間)像の創作へとつながっていくように、私には思われます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本的りべらりずむⅩ『源氏物語』のりべらりずむ①『源氏』の人間描写の細やかさにV.ウルフも驚嘆。

2022年07月16日 | 日本的りべらりずむ

『源氏物語』(以下、『源氏』と略します)は平安時代中期、900年代の末から1000年代の初めに書かれた世界最古の長編小説の一つとされています。

世界史のなかでは『源氏』よりも古い小説もあるようですが、何十人もの主だった登場人物、しかも決して超出した英雄とか超能力者でもなく、
普通の平均的な人間の一人一人の言動や思念を、特定の思想や道徳観や美意識に依らずに、人物自体に即してリアルに、
更には心理の襞に分け入って描写(あるいは観照)していくような、ある意味では近代小説にも比肩しうるような語り方をしている物語は、
古代の小説としては他にないと言えるのではないかと思います。

人間を個別的に観察してその言動や心理を描出するような文芸作品は、当時の文芸的教養の世界を提供していたお隣の中国では、司馬遷の歴史書『史記』あたりが思い当たります。

紫式部は『史記』を愛読していたとのことで、その影響を指摘する研究者もおられます。

(たとえば、国文学者の小西人甚一は『日本文藝史』の中で次のように書いています。
 「…紫式部が『史記』に通じていたことは、みずから語るところである。
『史記』に述べられているのは、国の治乱・興亡にもせよ、人間が自分自身の能力と責任において対処していった事跡だけれども、それらは多くの場合、望まれるような結果になっていない。
この「人の世は不如意だ」という『史記』の知見こそ、仮構物語のなかに初めて現実性を持ち込むことができた重要な契機にほかならないであろう。」)

しかし、宮廷という特殊社会ながらいわゆる〝数ならぬ”(古語で「普通の」「とるに足りない」という意味)人間の心理や振る舞いをリアリスティックに観察し、描写する近代的な意識とは異なっています。

また、『源氏』が書かれた同時期の西洋はまだルネッサンスにも至っていなくて、人間の現実の姿を描く文藝が生れてくるのは、まだまだ数百年も後のことです。



『源氏物語』が最初に英語に翻訳されたのは1925年のことで(以後1933年に全訳完了)、A.ウェイリーという人が訳しています。
これを当時小説家として油の乗っていたV.ウルフが読んで、その創作意識の先進性に驚嘆の言葉を残しています。次のように。

「(『源氏』が書かれていた時代)私たちの祖先は絶えず人間同士、イノシシ相手、生い茂る藪や沼地と格闘していて、写本にせよ翻訳にせよ年代記にせよ、ペンをとって執筆したり、あるいは荒削りの詩を荒々しくがさつな声で詠ったりしたのは、苦闘に膨れ上がった拳、危険に曝され研ぎ澄まされた頭、煙にひりついた目、湿地を踏みわけ冷え切った足を抱えてのことでした。
  夏来たる/カッコウ騒々しく鳴けり
――などが、彼らが唐突にあげた雄叫びでした。
(中略)
レディ・ムラサキはこうした時代に、過剰な表現を嫌い、ユーモアや良識を持ち、矛盾に情熱を燃やし、人間性へ好奇心を持ち、生い茂る草や侘しい風のなか朽ち果ててゆく古い館、荒寥たる景色、滝の音、砧をうつ木槌の音、ワイルド・グースの鳴く音、赤鼻のプリンセスなど、つまり不調和ゆえに美しさを増すものに愛情を抱き、それを表現する彼女の才能を遺憾なく発揮することができたのです。」(訳 毬矢まりえ、森山恵)


ウルフは、平安期日本貴族の宮廷生活のディテールが自然の豊かな変化の相の下に、細やかに優雅に描かれていることに驚嘆しています。

そのような自然環境や暮らしのディテールをながめやる紫女の深々としたまなざしは、登場人物一人一人の振る舞いや心理にも注がれ、それが物語の世界を組み立てていくわけです。

『源氏』の主題についてはさまざまな捉え方があって大方の一致を見ることはないのですが、
少なくとも「ながめ」のステージに浮上してくる出来事はすべて書き尽くしていこうとするような意志の働きに物語は支えられており、
この意味で『源氏物語』は、日本の精神風土が生み出した人間観照の文学の最も豊かな成果と言えると思います。


ではそのような「人間観照の文学」が、西暦1,000年前後の極東日本の宮廷文化の中で、何ゆえ可能であったのでしょうか。?
しかもそれが、人類史全体の流れの中でももっとも先進的に可能であったのでしょうか?

この疑問を頭の一隅に置いて、『源氏』という普遍的な文学から、〝日本的りべらる”と評価できるような要素を、これから4回にわたって探り出していきましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ⑤日本国の民衆の哲学としての国学は可能か?

2022年07月02日 | 日本的りべらりずむ

上田秋成が活動した十八世紀(1700年代)後半は、文芸では読本と呼ばれる小説形式のものが流行し、
学問の世界では市井の儒学者が“道学者”と俗称されるほどに庶民生活に溶け込んでいたりして、
学問をすることがひとつの流行風俗とみなされるような時代でした。

そして文芸と学問が接近して、古典文芸を研究することがそのまま学問として成り立っていきました。

そういう時代の空気の中で、儒学への批判に発して日本独自の思想や哲学を掘り起こし、提唱していくために、古典文芸や神話を研究する分野が新たに切り開かれていきます。

その分野は“国学”と呼ばれ、中学・高校の日本史の教科書では、万葉学を創始した契沖から始まって賀茂真淵、本居宣長と継承されていった学問と解説されます。

江戸国学の頂点に位置する学者は本居宣長ですが、上田秋成はまさにその宣長が活躍した時代に生きたのであり、
しかも国学分野において宣長のカリスマ性に敢然と立ち向かっていった学者でした。


秋成の国学研究は、30代前半に『雨月物語』で読本界に名声を確立したあと本格的に始まっていきます。

そして晩年にいたるまで新作読本の出版はいっさいなされず、労苦に満ちた人生を送りながら、
万葉集の評釈や古典文芸の研究を進めて、その集大成を『春雨物語』に結実させていこうとしたようです。

つまり秋成は読本作者と国学者の両面を併せ持っていたということです。

しかしそのことが、読本作者としては『春雨物語』を完成させるところまでには至らず、
国学者としても研究の成果を世に問うところまでにまとめきることができませんでした。



秋成の物語作者としての知性のはたらきは、国学研究に向かうときには一つの、潔癖感の強い秋成には乗り超えることが困難なジレンマを生じさせたようです。

国学は学問なので、研究の対象となる古典文芸や歴史・神話を記録した文献(古事記や日本書紀など)が、
それが生み出されてきたときのままの状態で伝えられてきているかどうかを判定する作業(いわゆる文献批判と言われる)が欠かせません。

途中で何ものかによって修正されたり、偽造されたりしていることが多いからです。

しかしそれを、誰もが納得できるような実証性の裏付けをもって判定する史料が、特に歴史・神話のテキストには不足しています。

秋成はその点でテキストに対する深刻な懐疑心を抱いていて、結局過去の歴史の真相をあきらかにすることはできないのではないかという、
いわゆる文献ニヒリズムと称される事態に陥っていくわけです。

物語作者として、創作のために言葉を偽造していくことをある意味得意としてきた秋成には、
伝承されてきた古代の歴史書や神話も「言葉の偽造によるものではないか」という疑いに眼をつむることができませんでした。

大方の国学者はこの問題をどうクリアしているかと、史料で実証することが不可能と予測される箇所は、
個人的な憶測や考え方でもってそこを補完することで辻褄を合わせていこうとします。
(つまりテキスト解釈が恣意的になされていくわけです。)

その結果、国学関係のテキストは、文献の解釈に個人的見解を偲ばせ、それがだんだんと表面に出てきて、観念性を強めていく傾向のものが多ように感じられます。

そしてそれが江戸末期から明治期にかけての天皇制的国家主義を裏付けるイデオロギー表現として超越化していくわけですね。

その代表的な学者が本居宣長です。宣長の国学は、文献解釈のコンセプトを神道思想と結びつけて、超越化していく方向を進めていきました。


それに対して、国学者としての上田秋成はそういう国学の在り方を耐えがたく感じ、嫌悪していました。

宣長の学問に対しても直接論争を挑んだりして、生涯にわたって批判を継続しています。

秋成と宣長の対立を象徴的に表現すれば、たとえば『古事記』という文献に対して、宣長はそれを神格化し国学の聖典として意義付けましたが、
秋成は『古事記』を偽書とみなして、その価値を認めませんでした。


近世文芸の研究者である日野龍夫の評価を紹介しておきましょう。

「宣長の関心は自ずから新しい正しい規範である神道へと移り、人間の自由そのものへの関心は見失われた。
秋成は、人間の自由への関心を終生失うことはなかったが、その代り、そのようなものを保護しようとする営みに公的価値があると信ずることができず、ついに自己の学問を遊びと観ずるに至った。
したがって国学者としての業績は二流に終わるほかなかった。」(『宣長と秋成』筑摩書房 p.8)


『春雨物語』の創作経緯には当時の国学や宣長との確執が重要なモチベーションとして深くかかわっており、
そのことも視野に入れて鑑賞すると、また異なった読み方ができますが、それについては後日を期したいと思います。



上田秋成の項は今回で終了です。
次回からは、このシリーズの最後のテーマとして『源氏物語』を取り上げます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする