モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

千利休の空間感覚

2010年03月28日 | モノ・こと・ことば


かたち21のHP


前回、千利休のお弟子さんで「利休七哲」とされる大名たちが
みんなキリシタンであったのは意味深、と書きましたが、
利休その人もまたキリシタンだったという説もあって、本にもなっています。
山田無庵という言語学者が書いた本で、題名もズバリ『キリシタン千利休』というものです。
1995年に発行されていて、その時点で著者は亡くなっているし、実証的な研究も進んでいないのか、
その後「利休=キリシタン」説が取りざたされた形跡はないようです。

本を読んでみるとありうる話のように思えてきますが、
私の興味はそのこと自体よりも、利休が持っていた空間感覚のようなものです。
二畳台目の茶室とか楽茶碗とかを創った利休の空間感覚ですね。
西洋の歴史では大航海時代といわれる時代の利休の空間感覚です。
カラヴァッジョやエル・グレコと同時代に生きた利休の空間感覚です。

そういった想念が私の中で芽生えてきたのも、
10年以上も前に安倍安人さんの話を聞いたことがきっかけになっています。


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安倍安人さんと桃山の文化

2010年03月13日 | 安倍安人の備前焼

かたち21のHP



美術界でいま話題になっている長谷川等伯は西暦1600年ごろの桃山時代のトップスター。
ライバルに狩野永徳とか俵屋宗達とかいます(この3人が桃山期のビッグ3ですね)。
工芸関係での代表者といえば千利休と本阿弥光悦というところでしょうか。
そして利休は等伯の後ろ盾となり、光悦は宗達とつながっていたことは周知の事実です。

大雑把にいって、利休・光悦・宗達・等伯、それに古田織部を加えて、
「日本の造形美」の骨格というものが形成されました。
宗達と等伯、利休と光悦と織部、各々を比較してみるのは興味が尽きませんが、
利休と織部の比較でいえば、利休が「静的・無作為的」と言われ、
織部は「動的・作為的」と見られて、非常に対照的であるとされてきました。

ところが備前焼の陶芸家安倍安人さんは、利休が創案した楽茶碗と織部の沓茶碗を並べて、
両者は同じ造形方法でできている、ということを言ってます。
つまり利休の方法と織部の造形は同根であるという説で、
両者をまとめて「織部様式」と呼んでいます。

利休と織部は同根である、あるいは「織部様式」として同一視される造形方法は
何を意味しているでしょうか。
私は10年以上も前に安倍さんからこの話を聞いて以来、
このことにずうっと関心を抱いてきました。

ところで利休には「利休七哲」と呼ばれたお弟子さんたちがいて、古田織部もその一人です。
7人とも大名で、しかもキリシタンでした。
これって何か意味深なものを感じさせます。
たとえばまなざしの方向をはるかヨーロッパまで及ぼすと、
当時活躍していた画家で代表的な人といえば、カラヴァッジョとエル・グレコなんですねえ。
1600年前後の世界を一望すると、
利休、織部、光悦、宗達、等伯、カラヴァッジョ、エル・グレコといった人たちが立役者です。
さらに中国は明末といわれた時代、韓半島には李朝の民画とか高麗の茶碗とかがありました。
そんなわけで、美術造形的な観点からしてこの時代に一体何がグローバルに起こっていたのか、
非常に興味津々なものがあります。
そしてそういった眺望の中で、日本の桃山期の美術はやはり世界の最先端に位置して、
一際光彩を放っているという印象です。

この四月から年末までの間、何回かに分けて「安倍安人さんの話を聞く会」を持つことにしました。
桃山期のやきものの話から始まって、「日本の造形美」とか「東アジアの中の日本文化」とか、
「現代造形のこれから」といったところまで話を広げていこうと思ってます。
今回の会場は東京の銀座の「吉水」というお宿のコンサートホールです。
どなたもご参加いただけますが、人数は30人限定ですので、
お早めにお申込みください。

お申込みは「安倍安人さんの話を聞く会」からどうぞ。


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「いいもの」の条件(つづき)

2010年03月07日 | 「いいもの」の条件
前回の中野みどりさんの紬の画像は着尺の部分写真です。
それが現代絵画っぽく見えているわけです。それはなぜかっていうのが今日の話です。

たとえば左側の画像は着尺のエッジの部分(着尺ではミミといいます)が見えてますが、
よこ糸は何種類も使って、それを何丁もの杼を使って細かく織り混ぜているにもかかわらず、
エッジの線がきれいですよね。手でひいた線ではないのですが、
絵画という造形空間を形づくる意志的な線のように見えます。
着尺のミミとして見た場合には、その線のキリッとしたきれいさは
経糸・緯糸のテンションのバランスがよく、
織りの美しさと布としての堅牢さを表す一つの指標となっています。
(こういうふうにミミがきれいに織れている手織りの着尺は、最近はあまり見かけないですが…。)
右の画像は、なによりも色面構成の美しさが目を引きますが、
その美しさを支えているのは、経糸・緯糸のテンションのバランスのよさなのですね。

ファインアート(純粋美術)から見ると工芸作品は「暮らしの道具」という
不純の要素が入っていると考える人がいますが、
「美しさ」という観点からした場合には、優れた工芸品の美しさは、
ファインアートの美しさに少しも引けをとるものではありません。
それは過去に創られた名品とされる作物を見ればわかることですが、
わかりやすい例でいえば、「民芸」品などはそのことを端的に証明してます。

柳宗悦が提唱し自らコレクションもした「民芸品(民衆的工芸品)」の多くは、
クローズアップして撮られた写真で見ると、現代美術に見まがうような現代性を持っています。
1960年代のアメリカで、日本の民芸品の写真から発想を得た
現代美術のニューウエーブが起こったことはよく知られているエピソードです。
柳宗悦が主張するように、民芸品が持っている暮らしの道具としての堅牢性と健康さが、
造形物として見た場合の美しさを生み出す元になっているのですね。
優れた「民芸品」は決して「雑器」などではない。
感度の高い感性と優れた技能が生み出した「美的なもの」であると思います。


参考までに、中野みどりさんのHP


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