不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

Ⅱ‐4 世阿弥の能楽—謡曲「多度津左衛門」姫と乳母、女人禁制の高野山に乱入す

2021年04月27日 | 日本的りべらりずむ

私の手元に『多度津左衛門』というタイトルの謡曲本があります。

古本屋さんで入手したもので、奥付に発行所「大槻清韻会能楽堂」、初版発行昭和63年4月5日とあります。(昭和63年は1988年)

但し書に、多度津の左衛門復曲上演に際し、観世宗家の諒解を得て作成したとあり、資料によりますと、
1987年に観世流能楽師大槻文三のシテ方で、大阪の大槻能楽堂で上演されたことがあるようです。


その後現在に至るまで、どこかの流派で上演されたという記録が見当たりません。

当然、私も未見の演目です。

劇作家・演劇評論家にして世阿弥能楽の研究者でもある堂本正樹さんの『世阿弥の能』という著書の中で、
『多度津左衛門』を解説した一文があって、次のように書かれています。

「この作は世阿弥の自筆の「能本」(能上演用の台本)が残されているだけで、『国書総目録』を閲しても「謡本」による伝本を聞きません。世間に迎えられず、早くに廃された能なのです。……なぜ上演が継続されなかったのでしょうか。」
(世阿弥自筆の能本は現在、奈良県生駒市の宝山寺に所蔵されているとのことです。)



以下、堂本氏の所説に依って『多度津左衛門』という超幻の謡曲を紹介していきましょう。
まずは、あらすじです。

「遁世した父、多度津左衛門を尋ねて、幼い姫と乳母が讃岐の善通寺に参詣、そこで左衛門が高野山の蓮華谷にいたことを教えられる。多度津左衛門は高野山で出家していた。姫と乳母は男装し、狂人を装って、狂い登って来る。左衛門は女人禁制を盾にそれを阻止しようとするが、二人は男装を理由に押し通そうとする。左衛門の従者たる寺男が二人の芸「女の行かぬ高野山」の曲舞を所望すると、二人は舞いながら高野山の女人禁制に抗議、遂には興奮して高野に乱入しようとする。左衛門は驚き二人を杖で打つが、その杖ゆえに親子と知れ、父と娘は再会を果たす。」

狂人を装うことを“佯狂(ようきょう)”といいます。
能楽の演出における“佯狂”の手法について堂本氏は次のように解説しています。

「高野山という宗教的権威、女性差別を打破する手段として、「佯狂」なる手法は、能役者、否世阿弥自身にとって、自然な発想だったと思われます。彼は男にして女に扮する俳優であり、しかも少年として年上の男性に愛された経験を有する、「官能的存在」でした。かくて「男装する女性」を演技する世阿弥の肉体は、中世のアンドロギュヌスにして、「偽」を通して「真」に至る、一種の「憑りまし」の性質を持ったのです。」
(※憑(よ)りまし:神霊がよりつく人間のこと)

女性差別に対する抗議の論拠としては、「この世界の総てが男女の道から生成している」ということに求められ、
戯曲では地謡が次のように主張します。

  「いかなれば女人とて、いとど五障の雲霧を
   八つの谷・峰に隔てつつ
   親子だにも、見せじとや。」

堂本氏はこの謡曲の趣向と主題を、以下のように総括しています。

「男性(世阿弥)が演技者として女役に扮し、その女がさらに男に変装して男と名乗り、その男という建前を利用して、聖山(高野山)の、ひいては仏教そのものの女性差別を告発する。」

そしてこのように締めくくっています。

「世阿弥が多くの能戯曲で描きえた「人間」の深さとは、こうした生理的手続きの上に立っての、男女を超えた「普遍」だったのではないでしょうか。」

『多度津左衛門』が書かれたのは今から600年ほど昔のことです。
余談ですが、現在の香川県多度津町は、筆者が幼稚園児であった時から大学時代までの間を過ごした町です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅱ‐3 世阿弥の能楽—謡曲「善知鳥(うとう)」持てる者と持たざる者の権力関係

2021年04月17日 | 日本的りべらりずむ

謡曲「善知鳥(うとう)」は、日本では主に北海道や青森県(津軽半島)に生息する野鳥ウトウにまつわる古くからの説話に取材して作られた演目で、
作者は不明とされていますが、世阿弥という説を支持する研究者もおられるようです。

親鳥が「うとう」と鳴くと雛鳥が「やすかた」と応じるという習性を利用してウトウを捕獲し、
それを生活の糧としてきた、津軽半島外ノ浜の猟師の亡霊がシテ。

生前の殺生の罪で、死後は地獄で鷹に化したウトウに鉄の嘴で責め苛まれる罰を受けている。

北陸は立山の霊場に立ち寄ったあと津軽半島の外ノ浜に向かう旅の僧に猟師の亡霊が現われて、
家族に自分の形見の袖を渡し、霊前で回向してもらえるよう依頼するとともに、
僧が外ノ浜に着いて遺族に伝言すると、再び亡霊が現われて、地獄の栗しみから救って欲しいと懇願して姿を消す、という話です。

猟師の亡霊が地獄で受けている業苦の描写の箇所を引用しておきます。

「〈中ノリ地〉 娑婆にては、うとうやすかたと見えしも、冥土にしては化鳥となり、罪人を追っ立て鉄の、嘴を鳴らし羽をたたき、銅の爪を磨ぎ立てては、眼を摑んで肉むらを、叫ばんとすれど猛火の煙に、むせんで声をあげ得ぬは、鴛鴦を殺しし科やらん、逃げんとすれど立ち得ぬは、羽抜鳥の報いか。
シテ うとうはかへって鷹となり
地 われは雉とぞなりたりける、遁れ交野の狩場の吹雪に、空も怖ろし地を走る、犬鷹に責められて、あら心うとうやすかた、安き暇なき身の苦しみを、助けてたべやおん僧と、言ふかと思へば失せにけり」



この話は、生類を無益に殺生してはいけないという仏教の戒めを主題として立てているように見えますし、
またそういうふうに装われているのも、最北の辺境の猟師という、生類の殺生を生業とするいわゆると目される人間がシテの演目など、
観客である都の上・中層階級の人々の関心を引くわけがないのを、仏教説話でカモフラージュしていると勘ぐれます。

しかし単純に仏教の戒めを伝えるにしては、猟師の亡霊が地獄で受けている業苦の描写に、
凄惨なイメージを執拗に重ねていく表現がとられているのはなぜでしょうか。

この執拗さには何か別な意図が秘められているように筆者には感じられるので、主題をもうひとつ掘り下げて考えてみました。


自然界には生物間に食物連鎖的な関係(生体は食べる存在であると同時に食べられる存在)があって、ウトウと猟師の関係もその一つの例と言えます。

しかし食物連鎖関係の一方が人間である場合には、他の動物や植物の間での関係とは根本的に異なっているところがあります。

その一つは、人間と動植物の関係においては必要以上の量が殺傷されるということがあります。
(動植物間では、必要とする食料以上の捕獲(殺傷)はしません。)

もう一つは、立場上の強者と弱者の関係が固定化しているということ、その結果そこに権力関係が成立していることがほとんどであるということです。

この権力関係は人間と自然との間で生じる関係であり、その多くの場合、人間は道具を持つ生き物であるということから、
(道具を)持てる存在者と持たざる存在者の間で成立する権力関係と見ることができます。

謡曲『善知鳥』が告発しているのはこの権力関係に他ならないと私は考えます。

この関係は、人間と動植物の関係に止まりません。

人間と人間、すなわち人間社会においても、持てる者と持たざるものの関係として敷衍されます。

持てる者とは財や道具(時には武器)を持つ者であり、持たざる者は財や武器を持たない者です。

謡曲『善知鳥』では地獄に落ちた猟師(持てる者)が、鷹の鉄の嘴で責め苛まれ続けるわけですが、
それは、強者と弱者の権力関係に乗っかっての、持てる者の驕りを批判し告発する劇として読み取ることができるでしょう。

そのように読むならば、『善知鳥』の作者は心からの平和主義者と見なすことができると思います。

そしてその目線の低さは、前回に紹介した謡曲『藤戸』の目線の低さに通じるものがあります。

天下が南北朝に分かれて合戦が絶えなかった室町初期において、ほぼと見なされていた芸能者の心奥には,
弱者の立場から権力を批判する抵抗者の魂が息づいていたのですね。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅱ‐2 世阿弥の能楽—謡曲「藤戸」シテは「どこともなき下臈」の母子

2021年04月05日 | 日本的りべらりずむ

『平家物語』巻十の「藤戸」は、瀬戸内海の藤戸の浦(現 岡山県倉敷市)での源氏と平家の戦いが語られる段です。
その中で、源氏方の武将佐々木盛綱が、地元の若い漁師に馬で渡れる浅瀬ができる場所と時刻を聞き出し、
それが敵味方の双方に知られることを怖れて若者を殺害します。『平家物語』では次のように記述されています。

(盛綱は)「下臈はどこともなき者なれば、又人にかたらはれて案内をもをしへむずらん。我計(ばか)りこそしらめ」と思ひて、彼男をさしころし頚かききってすててンげり。

殺害シーンの記述はこれだけです。



謡曲ではその後日談が語られます。

盛綱は藤戸の戦いでの戦功により備前の児嶋(藤戸の近く)に領地を拝領し、その地に入部したとき、
殺された漁師の母親(老女)が近づいてきて我が子の仇を討とうとしする。
盛綱は後悔し、漁師の法要を営んで霊を供養することを約束して母親をなだめます。
法要を営んでいるとき漁師の霊が現われて、盛綱に祟りを及ぼそうとしますが、回向してもらったことに納得し、成仏して姿を消します。

あるときラジオのスイッチを入れると、たまたま謡曲「藤戸」が謡われているのを聞いたのが、私の「藤戸」の聞き初めですが、
解説を聞いていて、これは大変な演目だと思いました。
というのは、シテが名もなき(『平家物語』では「下臈はどこともなき者」と記されている)若い漁師とその母(老女)で、
母親は自力で武将に向かっていって仇を討とうとするのですから。

謡曲「藤戸」が創作されたのが世阿弥とほぼ同時代である(作者は不明)とするならば、室町時代初期、15世紀の前半です。
世阿弥によって大成され洗練されていった能楽は、その鑑賞者は主として上層の武家、貴族、富裕商人、著名文化人といったところと推測されますから、
「どこともなき下臈」の振る舞いに関心が向けられるとはとても考えられません。

ましてや、武家同士の合戦の犠牲になった名もなき庶民の親子の悲劇など、
武士の士気を萎えさせるものとして、嫌忌されるのではないかと考えられます。

『平家物語』の作者だって盛綱の処置を、今風に言えば“危機管理”の用意周到さを評価するニュアンスで記しているように感じられます。

そういうふうに考えると、謡曲「藤戸」の作者の目線は、当時としては極度に低いと想定できます。

この低さは、同時代の西洋(ルネサンス前期)にも明王朝期の中国にも見い出せないのではないかと思います。

その意味で、世界の演劇史の流れの中で見ても、極めて先鋭的だなと私は感じたのです。

この「藤戸」との出会いで、私は世阿弥の時代に創られた能楽への関心を、本格的に持つことになりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする