モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

〈気韻生動〉について

2011年07月20日 | 気をめぐる物語
かたち21のHP


岸野忠孝展の案内状の文章のタイトルは「現代の〈気韻生動〉」というもので、
本文では、「現代絵画に欠けているのは〈気韻生動〉だ」といった趣旨のことを書きました。
すると展覧会を見にこられた人の中に「いまどき〈気韻生動〉という言葉を使う人は
どういう人か」という興味でこられた方がいて、いろいろ話をうかがったり、
〈気韻生動〉をテーマに展覧会を企画してはとハッパをかけられたりしました。

その人は表具の仕事を50年以上してこられている人で、
「これが〈気韻生動〉というのを見せてあげる」と言うので、
展覧会が終わったあとお宅におうかがいして、
室町期水墨画の凄いのとか、富岡鉄斎の若年のものとかを見せていただきました。
その体験を通して〈気韻生動〉についての認識を新たにするところがありました。

〈気韻生動〉というのは中国の唐の時代以来、
水墨画表現の最終目標として目指されている境地のようなものですが、
そのあまりに深い内容をここでご紹介することはできません。
で、この数週間いろいろ調べたり考えたりしてきた結果だけをお伝えするならば、
現代の絵画で〈気韻生動〉をテーマにした展覧会を企画するのは不可能だということです。

水墨画の例でいいますと、気韻生動は、墨と筆と紙といった物質と道具を
いわば「交響させる」ことによって現象するものであるわけですが、
墨や紙についてのかなり深い見識の裏付けもなく、
また筆の機能性と使い方についても、「気」をめぐっての訓練の充分な積み重ねもない状態では、
〈気韻生動〉というものを発動させることはとても無理だということです。

少なくとも、水墨画というメディアの限定性の中では、
〈気韻生動〉を現代に蘇生することは不可能、もしくはむしろ無意味であるような気もします。
もし可能性がありうるとすれば、いっそメディアを
工芸素材全般にまで広げてみる、ということがあります。

たとえばやきものであれば、粘土という物質と、
その成形法と焼成法をめぐって吟味に吟味を重ねて、
〈気韻生動〉の発動を準備していくことが考えられなくもありません。
しかし、同時にそこに「精神の鍛錬」ということが伴わなければいけません。
それから、観る(鑑賞する)側にも気韻生動を読み取る力が求められます。
(岸野忠孝展会場で、「水墨は描くのも難しいが、観るのも難しい」という人もいました。)
それを考えると「かなりムズカシイな」と思ってしまうんですね。



岸野忠孝筆「六甲山」(部分)
コメント
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