モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

益田鈍翁と原三渓 ——「見ることの優位」近代日本編[2]

2019年04月27日 | 「‶見ること″の優位」

明治から昭和初期にかけて日本の伝統的文化財の膨大なコレクションに最大級の貢献をなした、
実業家にして偉大な目利きといえば、筆頭に挙げられるのが益田鈍翁(孝)と原三渓です。
今回はこの二人の事績を紹介しておきましょう。

益田鈍翁(孝)は幕末の幕府方の役人の家に生まれ、十代には英語の通訳の仕事に従事していました。
明治9年、27歳のときに三井物産会社が創立して初代社長となり、
その旺盛な事業活動によって三井物産会社を当時の世界的な企業にまで育て上げ、
三井財閥の経済的基盤と組織強化を推進していった人として知られています。

明治20年代後半あたりから茶の湯の茶道具や日本の古美術の蒐集が始まり、昭和13年12月に他界するまでの間に、
国宝、重要文化財クラスの古美術品を数千点蒐集しています。
主だったものを挙げておきますと、(戦後、財閥解体にともなって益田家から散逸していきます。()内に現在所蔵している美術館名を記しています。)
・ 源氏物語絵巻(国宝、現・徳川美術館所蔵)
・ 絵因果経(現在は分断された状態でいくつかの美術館で分蔵している。そのうちMOA美術館のものは重要文化財指定)
・ 十一面観音画像(国宝 現・奈良国立博物館所蔵)
・ 弘法大師筆崔子玉座右銘断簡(重要文化財 真言宗系仏教施設所蔵)
・ 茶道具だけでも膨大なコレクションを誇っていたそうです。

茶文化関係での鈍翁の遺産としてよく知られているのは、東の大師会、西の光悦会という茶会です。明治28年に鈍翁を中心に始められ、1年に1回開催されて、今日まで継続しています。

鈍翁は同時代の実業界の大立者を次々と茶の湯の世界に誘い込みました。
彼らは、最初は、鈍翁に近づくための手がかりとしてお茶を習い始めましたが、
やっていくうちに、人格を磨き教養を高めることを学び、
高価なお茶道具は財産の保全手段として蒐集をはじめましたが、やがて自分自身の人生観や価値観を見据えていくようになった、と鈍翁の周辺にいた人が語っています。
鈍翁における「見ることの優位」は、単に目利きとして優れていたというだけでなく、
人間の経済活動や事業経営に対しての“優位”という意味も含まれていたかもしれません。
そういうタイプの実業家(あるいは文化人も含めて)は今日にはまったく存在しなくなったように思われます。




原三渓(富太郎)の名前は、横浜市本牧にある三渓園で一般の人にも馴染みが深いかと思います。
岐阜県柳津町佐波村(現・岐阜市柳津)の名主の家に生まれ、20歳のときに東京の跡見女学校の教師となりましたが、
横浜で生糸を扱う事業を成功させた豪商原家の令嬢が跡見女学校に通学していた縁で、
富太郎は原家の令嬢の婿に迎えられ、家業を引き継ぐことになりました。
事業家としての富太郎は、原商店を個人商店から合名会社に改組し、生糸問屋業からアメリカ、フランス、ロシアなどに代理店を置く、国際的な交易会社にまで育て上げました。
関東大震災後には私財を投げ打って、横浜市の復興に尽くしたことでも知られています。

古美術品や伝統的文化財の蒐集では、特に古建築の購入移築を行ったことが大きな特徴となっています。
移築場所がまさに現在の三渓園であるわけですが、膨大な文化財を収蔵展観して観照、愛玩するにふさわしい古建築と、
その古建築を配するに適した環境として広い庭園を整備したということです。

古美術の主な収集品は、
(藤原仏画といわれる、平安期の仏画)
・ 絹本著色孔雀明王画像(国宝 東京国立博物館所蔵)
・ 閻魔天像(重要文化財 MIHO MUSEUM所蔵)
・ 愛染明王像(重要文化財 細見美術館所蔵)
(絵巻物)
・ 寝覚物語絵巻(国宝 大和文華館所蔵)
・ 絹本著色一遍上人絵伝(国宝 東京国立博物館)

三渓のコレクションも敗戦後まもなく散逸の憂き目にさらされることになりますが、当時、奈良で大和文華館の建設が始まり、名品中の名品はまとめて文華館が引き取っています。
「三渓の莫大なコレクションは、将来有名な私立美術館となるものの基礎をつくるとともに、国立博物館の強力な補充となった」と『美術品移動史』(田中日佐夫著)にも書かれています。

三渓は自ら絵も描いていて、同時代の日本画家(主として院展系)の役割も引き受けていました。
特に、三渓園グループと呼ばれた今村紫紅、速水御舟、小林古径、安田靭彦、前田青邨といった画家たちは、恩恵に浴するところが大きかったのではないかと思われます。
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谷本景氏(伊賀焼陶芸家)の床の間しつらえ

2019年04月17日 | 床の間奪回

伊賀焼茶陶を代表する窯元の一つ三田窯のゲストハウスで、和室の床の間を面白くしつらえしたのを拝見したので、ここに紹介しておきます。



軸は、刻石の拓本の愛好家にはあまねく知られている泰山金剛経の拓本で、三田窯当主谷本景しがネットオークションで入手したとのことです。
特に「唯一心」と書かれたものを知り合いの古美術商にも頼んで永い間捜し求めていたのが、ようやく手に入れることができたとか。

床の造形物は、陶芸作家である谷本氏の作になるものです。
ベースは伊賀焼の陶オブジェですが、全面を大小の赤い水玉で彩色した野心作です。
三田窯は伝統的な伊賀焼の窯元として知られていますが、谷本氏は伝統の枠を逸脱して、
コンテンポラリーなアーチストとして新しい伊賀焼の創造に邁進しています。

作られた場所も環境も異なり、素材や技法がまったく異質なものが、
日本の床の間という空間で遭遇して、非日常の空間を演出する。
しかしエネルギーを内側に蓄えこんだような趣きの点で両者が共鳴するところもあって
見ているうちにテンションが上がってくるようなアート鑑賞体験をさせてもらいました。

「床の間奪回」サイトへ]


谷本景氏は現在、伊勢市にある伊勢現代美術館というギャラリーで個展を開催中です。(5月12日まで)
[出品作から]









[伊勢現代美術館について]


庭から五カ所湾を望む 画像は伊勢現代美術館HPより


野外展示場“宇空” 画像は伊勢現代美術館HPより


伊勢現代美術館は、名古屋からJRまたは近鉄電車で伊勢市駅まで1時間ほど、駅からは車で30分ほどかかりますが、庭から望む伊勢志摩国立公園内の五ヶ所湾は穏やかな癒しのある眺めです。
コンテンポラリーアートや工芸作品を展示しています。野外展示場もあり、神社の境内のような雰囲気なのがいかにも伊勢らしいです。
伊勢方面にお出かけの際は、是非立ち寄られることをお奨めします。

伊勢現代美術館のHP
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内貴清兵衛——「見ることの優位」近代日本編[1]

2019年04月10日 | 「‶見ること″の優位」

明治維新以後日本の近代は、西洋の文化・芸術を手本にしてこれに染まっていくことに血道を挙げ、自前の文化・芸術を省みなくなったと言われています。
他方、西洋ではジャポニズムブームで日本の文化・芸術的所産への関心が高まり、
私的にコレクションしようとする人が鵜の目鷹の目で買い漁っていったとのことです。
今ならば国宝とも重要文化財とも指定される文化遺産が二束三文で買い叩かれていたという話をよく聞かされたものです。

しかしみながみなそうだったわけでもなくて、旧大名家に所蔵されていた文化財などが頒布されることがある折などに、
それらを買い求めて自らの所蔵として、海外に流出していくのを防ぐのに一役買っていった人々もいたのでした。
入札会ともなるとさすがにある程度まとまった資金が必要なので、
そのような役目を担ったのは主として事業で稼いだお金を注ぎ込むことのできた財閥系の実業家たちでした。
そういう人たちは今日で言うところの企業活動に専念していた人たちでしたが、
他方で美術品や文化財にも大いなる関心を向け、自らすすんでコレクションしたり、展示施設を建造するなどして、日本の伝統文化の保護に尽力もしたのです。

これら実業家であり且つ目利きであった人たちによって国内に残留した文化財は、
今日各地の美術館に所蔵されていて、私たち一般市民も時々その眼福に預かることができます。
そういった伝統文化を礎として、現代の新しい文化が創造され育成されていくという意味では、
現代日本人の創造力は先人の人たちの「見る力」に負っているのであり、「見ることの優位」によって、文化創造力が支えられているということができるわけです。
今回はその中の一人で、私がもっとも尊敬している人を紹介しておきましょう。



それは内貴清兵衛という人で、日本近代の希代の目利きとされる人ですが、
歴史の表舞台にはほとんど姿を現していないので、容易に目にすることのできる資料もありません。
唯一、北大路魯山人の研究者でその詳細な伝記を小説仕立てで著した白崎秀雄という人の『北大路魯山人』という本の中に登場してきますので、それに依って紹介させてもらいます。

内貴清兵衛の存命期間は1878年から1955年、「錢清」という京都の呉服問屋に生まれています。
一時は「錢清」の店主を勤めていましたが、日本新薬という会社の創始者メンバーの一人であり、また、島津製作所・日本電池・京都織物などの役員を務めるなど、
関西経済界で活動して財を築き上げていったようです。
「錢清」を退いた後は京都市の郊外に別荘を立て、美術界のパトロンとして、当時人気のあった日本画家などを物心両面で支援していたとのことです。
別荘に出入りしていた画家は、土田麦僊・富田渓仙・榊原紫峰・小茂田靑樹・速水御舟・村上華岳・小松均・北大路魯山人など錚々たる顔ぶれです。

コレクションについては、内貴家の所蔵品入札目録という資料に依って記述していますが、それに依りますと、
「所蔵品の総数は千点内外に達し」古美術や茶道具に混じって「黒田清輝・岸田劉生のタブロオもある」
しかし「この目録で、目を瞠り、嘆息を抑えられないのは、一連の仏教美術である」として
「春日曼荼羅、呉道子の楊柳観音、地蔵菩薩、弘法大師像、来迎仏等の仏画、天平時代の鍍金の倚像、聖観音立像、誕生仏像」などを挙げています。

清兵衛は正式に美術史などを学んだわけでもなく、「博物館をのぞくことや、当時さかんになりかけてゐた旧大名家の所蔵品の入札売立を、見て廻ることがその基礎をなしてゐた」とのことです。
コレクションも、「仏教美術を主眼に、既成の観念や権威にとらわれることなく、自由に自らの美意識にかなふものを選んでゐた。」
知る人ぞ知るエピソードに、大正6年に「道成寺絵巻」という絵巻物を購入する際、道具屋が「あれはニセモノ」と忠告したのにも構わず「ニセモノでもかまわぬから買ってとおけ」と買い取ったのが、後に重要文化財に指定されることになった、というのがあります。

その他、清兵衛の眼力や見識の深さを伝えるさまざまなエピソードに事欠きません。
そういう深甚な「見る力」でもって魯山人はじめ当時の若き美術家に多大の影響を与えていったことで、
日本の近代美術の発展に創造的な役割を果たしていったのでした。
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