モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅦ 珠光、宗祇、雪舟—―さかいをまぎらかす②村田珠光

2022年01月18日 | 日本的りべらりずむ

村田珠光は「侘茶の始祖」と目される人です。

珠光が切り開いた茶の湯の世界を千利休が受け継いで大成したといわれています。


珠光に関する史料はあまり残されていないので、その事績の詳細は分かっていないようですが、
よく知られている事柄を二、三挙げておきますと――

1.台子点前を考案した。
   台子は茶道具一式が置ける移動式の棚。道具のすべてを手の届く範囲に置いて座したままで茶を点てられる。
   珠光が考案するまでは、道具は壁に設置された棚に置かれていた。

2.書画や茶道具を自由に置いて鑑賞できるスペースとしての床の間を茶室に設けた。
  何も飾らず、「無」の空間を楽しむということも許容される。

3.侘の美境を表した「藁屋に名馬繋ぎたるがよし」という箴言を遺している。



ここでは侘茶の要諦を弟子に伝える手紙を紹介しましょう。

弟子は古市播磨法師という人で、大和国(現在の奈良県)の文化大名であり、僧籍にもあった人です。

手紙は「心の師の文」と通称され、珠光の茶の湯の考え方が簡潔に表明されていたとのことです(現在、所在不明)。
   (原文はこちらでご覧下さい)

文中に
「此道の一大事ハ、和漢のさかいをまぎらかす事、肝要肝要、ようじんあるべき事也」
というフレーズがあります。

室町期は中国(明王朝)から大量の文物・書画・工芸品等が伝来してきた時代で、それらは舶来の高級美術工芸品として足利将軍や上流貴族によって所有され、時に茶会などを開いてお披露目することもあったようです。

8代目将軍義政のときには一大コレクションを形成して「東山御物」と称されたりしています。

珠光の手紙に言う「和漢」の「漢」はその中国からの伝来品(唐物と呼ばれていました)を指し、「和」は国内で制作された絵画や工芸品を指すと解釈されています。

ただ「さかいをまぎらかす」の意味が、よくよく考えるとちょっと曖昧なところを感じます。


ものの本では、唐物と和物を同等の価値のあるものとみなして同じ場に混在させる、というふうに解説していることが多いですが、
珠光の「心の師の文」では直截的にそのように書いているわけではありません。

その箇所の前後を読みますと、前の文では「(茶の湯を志す)初心者は練達の人の教えを請うことが大事」とあり、
後の文では「(陶器の茶道具では)初心者が備前物や信楽物などを持って、
「冷え枯れている」などと得意げに言うのは言語道断だ」といった意見を述べているだけです。

ここから「和漢のさかいをまぎらかす」という文に込められた意図を憶測してみますと、
単に、唐物と和物の価値を同等に見なしていくというだけでなく、
“物を見る見方”の方向性のようなことを含めて伝えようとしているごとくに感じられます。

すなわち、ものの美しさを見極めるには唐物の上級の美も和物のドメスティックな美も既成の価値観に捉われることなく同列に並べて鑑賞できる力をつけることが肝要だ、といったようなことではないかと思うのです。

実際、備前物や信楽物を引き合いに出しているくだりでは、次のようなことが言われています。

「か(枯)るると云事ハ、よき道具をもち、其あじわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後までひ(冷)へやせてこそ面白くあるべき也」
(たけくらミ=ものの奥まできわめ、その境地にひたること。)  『日本思想体系23』岩波書店刊より引用

上記引用文中の「よき道具」とは唐物を指し、「ひ(冷)へやせて」とは備前・信楽物の粗末な見かけの雑器を指しているとするのが一般的な解釈です。

つまり、侘茶の創始を珠光に認めるとするとき、その“侘”の美境は「和漢のさかいをまぎらかす」ところに求められるということになります。

一見粗末な雑器のような見かけながら唐物に見るような高度の美が宿っているところに新しい美を見出していこうとする態度と言えるでしょうか。


珠光の時代は、応仁の乱後、室町将軍八代目義政によって演出された“東山文化”の時代であり、
その“東山文化”もまた侘び・寂びの文化的表象を特徴としたとされています。



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日本的りべらりずむⅦ 珠光、宗祇、雪舟—―さかひをまぎらかす①

2022年01月08日 | 日本的りべらりずむ

今回から、珠光、宗祇、雪舟について語っていきます。

京極派和歌が集大成的に編纂された『風雅和歌集』の上梓から70余年経ってこの3人が生れています。
3人の生没年をご覧下さい。
  珠光侘茶の始祖)     1422年―1502年
  宗祇(連歌の大成)    1421年―1502年
  雪舟(和風水墨画の確立) 1420年―1502年または1506年

生誕年が1年づつずれていますが、存命期間がほとんど重なり、80歳から82歳の間に生涯を閉じています。

この間に起こった歴史的出来事としては、何よりも応仁の乱(1467-77年)ですね。
3人の年齢で言えば50歳をはさんでその前後の10年間にあたります。
また1489年(3人の70歳手前の年)には銀閣寺が建立されています。


日本文芸史の流れで見れば、『風雅和歌集』の編纂から3人の活動がピークに達するあたりまでにおよそ120年の歳月が流れています。

この間には、能楽を大成した世阿弥の活動があり、和歌の領域では正徹、心敬の時代がありました。

宗祇は心敬から連歌の指導(添削)を受けています。
その時には心敬は和歌壇の大御所的存在でした。

二人は正式の師弟関係ではありませんが、宗祇が50代のときに心敬の謦咳に接していて、連歌の要諦も伝えられたようです。



和歌・連歌の世界で言えば、時代は心敬から宗祇へと移っていくのですが、
心敬と宗祇の間には日本文芸の歴史上での決定的な転換があったように、私には思えます。
その転換の内容はどのようなものであったか。

心敬も宗祇も和歌と連歌の両方の分野で、当時すでに一流の歌人として名をなしています。
しかし心敬は和歌的表現に歌の真髄を求め、宗祇は連歌を和歌のフィールドから独立させ、また発句だけを抽出して俳諧表現への道を開いていきます。

つまり心敬と宗祇の間には、詩的表現の価値観の見出し方において、伝統的な王朝和歌の世界から連歌、さらには俳諧という新しい表現世界への決定的な転換という事態が発生したわけです。

それは単に表現ジャンルに対する価値観の置き方の転換にとどまるものではなく、
詩的表現世界における中世的精神から近世的精神への移行を内包する出来事であったと考えられます。

では、その近世的精神とはどのようなものか、ということが問われてくるわけですが、
珠光、宗祇、雪舟がなした業績の中にそのエッセンスが込められていると言うことができます。

そのアウトラインをこれから描き出してくことにしたいと思います。



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