モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅨ上田秋成 日本文芸の始原へ④『春雨物語』から 残りの7篇

2022年06月18日 | 日本的りべらりずむ

「1.歴史語り」の3編の次には「2.世相語り」の『二世の縁』という小説が配されてますが、先に「3.歌論」の紹介をしておきます。

「3.歌論」は『目ひとつの神』と『歌のほまれ』の2編から成ります。

『目ひとつの神』は、東国の若者が歌道を学ぶために都に上ろうとして都の手前の近江の森まで来たとき、目ひとつの神と遭遇して、
神から「都で学問をしようとしても手遅れである。故国に帰って、隠れ住むよい師を探して、自ら努めよ」と諭され、修験者に抱きかかえられて空を翔けて故郷に帰っていく話。

(森の中で目ひとつの神を中心に酒宴が催されますが、その中に猿と兎がいて酒瓶を運んだりしているのは平安末期に制作された「鳥獣戯画図」を連想させます。目ひとつの神に「四、五百年前には師と呼べる人がいた」という発言がありますが、四、五百年前を万葉時代とすると、“今”は平安末から鎌倉前期にあたり、「鳥獣戯画図」が創作された時代、且つ勅撰和歌集「新古今」が編纂された時代です。「新古今集」は上田秋月成と同時代の国学者本居宣長が王朝和歌の規範と価値付けた和歌集です。)

『歌のほまれ』は、万葉時代の歌人が旅の途中で見て詠んだ風景や花鳥が同じ場所であることが多いのは、「昔の人は心が素直で、先人が同じように詠んだかどうかは気に留めず、感動したことを素直に詠んだに過ぎないからである」と説明して、万葉歌の「直き心」を称揚した一篇です。

「3.歌論」の2篇は、万葉時代の直き歌心を和歌の範として、古今集以降の和歌を直き心を喪っていく過程として批判していると読めます。



さて、「2.世相語り」の『二世の縁』に戻りますと、舞台は現在の大阪府高槻市古曽部町にあった村で、
経済的にも文化的にも豊かに暮らしていたある農家の庭の地中から百年以上も前に入滅して土葬された僧が掘り出されたところから始まります。

これは奇跡だということで村をあげて世話するけれども、元の人間の姿にまで復活しても何の霊験も示さず単なる俗人の振る舞いに終始するので、村人から次第に信仰心が消えていった(男たちは形式だけは守ろうとする)というだけの物語です。

解説者は、痛烈な仏教批判と解釈したりしていますが、最後は「どこまでも不思議な世の有様だ」と書かれています。
この「不思議」を、人々が信仰心を失っていく現象をも含めていると読むとどういうことになるでしょうか?

小説集の構成の流れの中で見ると、冒頭の2篇が天上の政(まつりごと)としての「歴史語り」から、『二世の縁』では地上の出来事としての「歴史語り」へと舞台が移っていることになります。

その地上では人々の間で次第に信仰心(聖なるものへの尊崇の念)が喪われ、世俗のリアリズムに浸されていく世相が描かれているわけです。


「4.人倫(人の道)」は4篇から成ります。

世俗のリアリズムに浸された世界で、人はどう生きていくかという意味での「人の倫」が探り出されていくと読むことができそうです。

『死首の咲顔』『宮木が塚』は女性の生き方に焦点が当てられ、『捨石丸』『樊噌』では男性の生き方が描かれます。

つまり「人の倫(みち)」が女性と男性に分けて語られているんですね。


『死首の咲顔(しにくびのえがお)』は、富裕な酒屋の息子と貧しい農家の娘が夫婦の契りを交わすが父親の反対に阻まれる。そこで娘の兄も加わって結託し、酒屋の門の中に入り父親の目の前で息子に向かって「お前の妻だ。この家で死ぬべきなのだ」と言って、妹の首を切り落とす。その首は切り落とされたあとも微笑んだままであったという話。

『宮木が塚』は、宮木という名の遊女を身請けしようとする若者と、宮木に横恋慕して若者を謀って死に至らしめ、宮木を篭絡する男の話。宮木は身請けを約束した若者に対して貞節を守っていたので、若者が殺された上に自身も意に反して貞節を破られたことに絶望し、法然上人から念仏を授かりながら海中に身を投げる。

以上の2篇は、近代以前の家父長制度の桎梏のなかで、女性が自らの意思を貫いて生きようとすると、死を免れがたいという教訓が含まれているようです。

宮木の自死の選択は、「今は命すてんと思ひ定めたる人よ。いとかなしくあはれ也」と呟いて投身を見届けるほかなかった法然上人の聖性をも超えて、凛然とした光輝を放っているように感じられます。


『捨石丸』は、捨石丸という男とのトラブルで死んだ父親の仇討ちを国主から命じられた息子が、捨石丸を探して数年後に遭遇するが、岩の山の斜面を一里ほど掘り抜いて道を作る工事に取り組む捨石丸の姿を見て、仇討ちは止め捨石丸に協力して道を完成させたという話。

『樊噌』も『捨石丸』と同工異曲の話ですが、樊噌と呼ばれる男は肉親の父親や兄をも殺害する極悪人であり、事件後思いのままに狼藉を行いながら諸国を遍歴していくことと、晩年は高僧の地位を得て大往生するところが少し違っています。
しかしどちらも晩年にはいわば悪と聖性が合一して、社会事業に従事するような立場に回心していきます。

『春雨物語』においては、女の場合も男の場合も、この地上の社会の制度や道徳や宗教、また権威に対して、“個”としての生き様を貫くことの純粋さ(万葉の“直き心”をルーツとする)が強く打ち出されていると言えるでしょう。
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