モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――宇野浩二(5)“女”をいじめるのはだれ(何)か?・続

2024年07月19日 | 初期「私小説」論
『軍港行進曲』の後半には「続軍港行進曲」というタイトルがつけられています。
君子が横須賀の芸者屋に身を売ってから10年ほどの間の最初の2年ぐらいは、“私”は君子と逢い引きするために何度も横須賀まで出かけているし、君子は芸者屋からの逃走を何度も試みて東京の“私”を訪ねたりしています。
訪ねるたびに「兄ちゃんの小説はまだ売れないのか」と“私”を詰ります(早く自分を身請けして、“私”と所帯が持てるようにして欲しいという願望の表明です)。
君子が東京に姿を現わすたびに持病のヒステリーをおこして“私”の日常を混乱させることを“私”は恐れていて、彼女との関係を絶とうと何度も試みます(しかし成功しません)。
しかしそれでも最後の別れがあり、その別れの直後に書き上げた小説(君子との暮らしをモチーフにした『苦の世界』)が雑誌社に採用され、文壇でも認められて収入のある生活が開けていきます。

君子との離別が実現してから8年が経ったときに君子の死の知らせを受けます。
知らせを持ってきた高木という友人との会話を次のように語っています。

「君のあの人はやはりいい人だったんだね、」と高木は黙ってぼんやりしていた私に向かっていった。「『苦の世界』はやっぱり苦の世界で幕を閉じたね。」
「ああ、しかし、彼女のやうに生まれた者は、少しでも早く死んだ方が幸福かもしれない、」と私はいった。
私の心は限りない悲しみの淵に沈んだ。


この後“私”は八年ぶりに横須賀を訪れます。中学校の同窓会が横須賀で開かれるためであり、5人もの同窓が海軍の軍人になっていたということ書かれています。
その同窓会では旧知の芸者も交えて君子を偲ぶ会話が交わされ、宴会が終った後は料理屋の小部屋で一夜を過ごす。
つまり、8年前の同窓生や君子ら芸者衆との宴会の一夜と似たような光景が再現されるわけです。
そして小説の最後は、8年前と同じシチュエーションで、早朝に目が覚めた“私”と、矢崎という同窓生の軍人との間に会話が交わされ、そして以下の文で締められています。

…矢張り八年前の時のやうに、彼(同窓生)の鞄の中には戦術の地図が入ってゐるのだらうか、聞いて見ようかと思ったが、私だつて今は彼に負けぬ程忙しかつた。私の鞄には勝栗(芸者で君子の後輩)のいわゆる『げんこ』(原稿)が入つてゐる訳だ。
 矢崎が起きた勢ひで、窓の雨戸を一枚繰ると、障子に薄い朝日がさした。




 小説が終る少し前には次のような文章が置かれています。

 考へて見ると、彼女は伯父の警視総監に、私が最初に知つた頃、彼女の街を追はれたといふものの、その後私と一所(ママ)になつ」てからも、私と別れてからも始終居所が変り、境遇が変つてゐた。ふつうの彼女のやうな女なら、私の考へるところでは、最初の場合と、私と駆落ちした場所を除いては、一つも彼女が別の境遇を求める必要が考へられなかつた。
別の境遇に変つたら、それだけ彼女のやうな境遇のものには借金が増え、自由から遠ざかる訳だつた。それを知らない彼女ではなかつたと思へる。(中略)しかし、もし彼女は二年待って、(小説家として売れ始めた)私と元の夫婦になつたところが、落ち着いてゐたらうか? 矢張りそこで以前より充たされた生活に満足しないで、何かを求めて何処かへ泣きながら行きはしなかつたか? 何処へ?――考へて見ると、彼女にも分らなかった。その求めるものは地上にはないものではなかつたか、とも私は考へるのである。

「君のあの人はやはりいい人だったんだね」
後半の語りの中でこれと同類の発言が、登場人物の口を通して二、三度出てきます。
いい人でありながら、君子は君子の「苦の世界」を生きていくことを余儀なくされていたと考えられます。
女の「苦」を強いた者は何者か?
“私”もその一人であるということを“私”は充分に自覚していることは間違いありません。
上記に引用した三つの文章は、読者には一見責任逃れのような、自己弁明めいた文章のように感じられるかもしれませんが、
その根底に流れているのは、後悔しても後悔しきれない自己呵責の念であると私には感じられます。
この体験は宇野浩二にとって、その後の創作の方向を決定づける出来事ではなかったかと思うのです。

「軍港行進曲」は昭和2年2月に『中央公論』に、その二ヵ月後の4月に「続軍港行進曲」が同じく『中央公論』に発表されます。
そしてそれから二ヵ月後に宇野は精神に変調をきたして、三年間ほどの闘病生活を送ることになります。








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