モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本語の「見る」と「ながめる」

2020年07月31日 | 「‶見ること″の優位」

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ブログタイトル:「侘びのたたずまい——WABism事始め」


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「見ることの優位」に関しては、今後は、書き残した事柄を思いつくままに、書いていくことにします。
題して「見ることの優位・拾遺」です。

今回は、「見る」という日本語について、総論的な観点から言及しておきます。
古典の和歌や物語に接していると、「見る」とか「ながめる」といったことばにしょっちゅう出会います。
そういう経験をたくさん積み重ねてきて、伝統的な日本文化において「見る」「ながめる」という動詞が極めて重要な意義を有していることが分かってきました。

先に「ながめる」の方から言いますと、漢字表記では「眺」と「詠」の二つの漢字が使われますが、
「眺める」は、①じっと長い間見ている・もの思いにふけってじっとひと所を見ている、②見渡す・遠くを見はるかす、という意味があり、
「詠める」は、動詞「詠(よ)み」を基本語形として「よめる」「ながめる」と読んで、①声を長く引いて吟ずる、②詩歌などを作って口ずさむ、といった意味があります。
ひらがなで「ながめ(る)」と表記されているのに出会うと、「もの思いにふけってじっとひと所を見ている・見渡す・和歌をよむ・和歌を口ずさむ」といった意味が重層して思い浮かべられて、含蓄の深いものに感じられてきます。
両方を合わせると、

日本語の「ながめる」ということは、「何かの対象をじっと見詰めて、物思いにふけっているうちに生まれてきたことばを使って、歌を詠む」

というプロセスが浮上してきます。

私が思うに、これは日本的な思惟の特徴を表しているいるのではないでしょうか。
日本人は論理的な思考があまり得意ではない、ということが昔から言われてきていますが、
思考する、考えるということは、論理的でなければならないということは必ずしも言えないわけで、
「ものを見つめじっと物思いにふけりながら、歌をうたう」というような思考(思惟)の在り方もあるのではないかという気がします。
もしそれが認められるならば、日本人は古来そのようにしてものを考えてきたと言えるのではないかと思います。




「ながめる」の原義とも言い得る「見る」については、
今年、中西進さん(万葉集の研究者。現在の元号を提案したと言われている学者さん)が著した『万葉集原論』(講談社学術文庫)という文庫本が出版されましたが、
その中に「古代的知覚――「見る」をめぐって」という文章を見つけました。
これを読む前に、万葉集に収められた歌を素読みしたところ、全巻を通して「見る」という言葉のなんとおびただしく使われていることかと、今更ながら驚いてしまいました。

「古代的知覚――「見る」をめぐって」の中から、印象に残るフレーズをかきだしておきます。
「このように目には生命がやどり、「見る」ことは生命の発動を意味した。古代人の生命の中核は魂であったから、いいかえれば「見る」という知覚は、タマの発現であり、その魂合いによって「目合」が行なわれた。
こうした目の呪性は、「見る」ことの呪能を示している。古代人における基本の近く足る「見る」は、かかる呪能をもった行為であった。」(p.383-384)

「…月光の中に人の「見る」ことが「顕れる」と呼ばれる状態であった。この原形「顕る(ある)とは、「見られる」ことだったわけで、「見る」ことによって「ある」動作が生じるといえる。「ある」と「在り」を同根と見てはいけないだろうか。もしそれが許されるとすると、「見る」ことによって存在が生じることになる。逆にいえば、存在とは「見られる」ことであった。」(p.395)



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"数の観照″としての現代数学

2020年07月21日 | 「‶見ること″の優位」


関数f(y=f(x)のf)はその呼び名にも示されているように、数の一種と見なされます。
そして自然数や実数と同じようにその数が無数に存在する場合も認められます。
そこでその中からなんらかの観点で共通した性質を持つfを集めてグループを作り、
その要素のひとつひとつにf1, f2, f3, …, fm, …fn, … と符号をつけるとすると、
それらの要素の間でまた新たな関数(広い意味での比例)関係が見出されることが予測されます。
すなわち、fn =g(fm) (m, n は任意の自然数)の形に表されるような関数gの存在の可能性です。
このgはいわば“関数の関数”であり、fよりも一段グレードが高くてfを包括する関数といえるでしょうか。
そしてさらに、関数gにもグループを形成する可能性が予測され、gn =h(gm)と表されるような、gよりも一段高いグレードの関数hの存在が予測されたりします。
このようにして、“関数の関数の関数の…”というような現象が想定されるのですが、
要素の数が有限であることもあったり、最終的に一つか二つの関数に包括されていくこともあるようです。

さて、上記の関数f, g, h, … は、f(x+y)=f(x)+f(y) (fのところにはg、h、…の代入が可)といった関係が認められるとき(これを“(x,y)と(f(x),f(y))は自己同型”といい)、“不変量”とも呼ばれます。
もう少し正確に表すとすれば、y=f(x)において「fはyを値にとるxの不変量」というような言い方になります。

不変量の“不変”という言葉の意味は、「いくつかあるものが一見みな異なったもののように見えながら、実は同じ仲間と見なせる」ということです。
あるいは、「xにある操作(変換)fをほどこしても見かけは変化がないように見える」という意味でもあります。
「同じ仲間と見なせる」根拠、「変化がないように見える」操作(変換)を示すのが関数(不変量)fであるわけですが、
上記のように、f→g→h→…と関数のグレードが上がっていくにつれて、“不変”性の度合いが高くなっていく(より包括的になっていく、より抽象化されていく)と解釈されます。
こういった“不変量”の概念は、数の世界を扱う数学と、アナログ的な世界で存在感を発揮するヴィジュアル表現の世界とを結び付けます。



具体例を出しましょう。
ヴィジュアル表現(造形)の世界では、シンメトリー(対称性)ということが、古来より美の規準として考えられてきました。
シンメトリーというのは、たとえば左右対称のものであれば、「鏡に映す」という変換操作が行われて左右が入れ替わった像になるのですが、見かけ上は変化が認められません。
正三角形の図形は60度回転しても元の形と同じに見えますし、正方形は90度の回転でやはり見かけ上の変化は認められません。
以上の例は、“鏡に映す”とか、“回転させる”といった変換(関数)操作が、シンメトリーという図形の性質についてのある“不変量”を表わしているわけです。
数学の世界では、“鏡に映す”(鏡像対称あるいは左右対称)、“回転させる”(回転対称)、それから“平行移動する”(並進対称)といったシンメトリーをめぐる不変量を定数化しています。

シンメトリーという現象がこの世界(私たちが存在している世界)でなぜ成立しているのかというと、究極は空間そのものの在り様に行き着く(f→g→h→…が行き着く)ようです。
さて、20世紀を代表する数学者の一人ヘルマン・ヴァイル(1885-1955)は、生涯を締めくくるにあたって『シンメトリー』という本を遺しています。
その最後の章のタイトルは「結晶 シンメトリーの数学的一般概念」というものですが、
その中から印象的なセンテンスを紹介しておきます。

「シンメトリーという点から、空間内の幾何学的な図形を研究するまえに、やはり空間そのものの構造を調べてみなければならない。空虚な空間には、高度のシンメトリーがある。あらゆる点は他の点に似ているし、1点においては、ことなる方向の間にもなんの内的な差別もない。」

「客観性とは、自己同型群に対する不変性であることがわかった。事実上の自己同型群は、なんであるかという疑問に対して、(中略)数学者は、、ある変換群にたいして、どうしてそのインヴァリアント(不変関係、不変量等)を見出すか、という一般的な問題を提起する。」

「現代数学の指導原理になったもの、それはつぎの教訓である。‘構造をもった実体Σをとりあつかうときには、いつでも、その自己同型群、つまり、すべての構造的関係を変えない1対1対応の群を見出すようにせよ。’このやり方で、Σの構成に対する、深い洞察が得られるであろう。」

最後のセンテンスは難解かもしれませんが、要するに西洋文明における“数の観照”の20世紀時点での到達点を言い表していると私は読み取っています。
(“群”という言葉は、シンメトリーな事象を数学的に表現するにあたっての文法的な基礎を提供する数学領域を指しています。)

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近代的“数の観照”の宿命——数値化できるものが存在を認められる

2020年07月10日 | 「‶見ること″の優位」

任意の二つの数mとnの間の関係を表わす仕方にm=f・nという数式を使うやり方があって、
この場合のfを関数と言い、シンプルなところではy=ax+b(a,bは定数)のような方程式、あるいは高校で学ぶ二次方程式とかも関数とみなされます(数学全般で言えば、関数の世界は広大で複雑です)。
つまり関数は広い意味での「mとnの間の比例関係を表わす」と解釈することが可能かと思います。

そのように解釈すると、西洋文明における近代の認識方法は、m=f・n(もっと一般的にはy=f(x)と表わされる)という、
広い意味での比例関係を表わす数式に支配されてしまった、ということが言えるかもしれません。
科学的認識方法というのがこれで、要するに、観察データを数に置き換え、データ間の関係からy=f(x)で表わされる数式を導き出していく(逆に、その数式を使って観察データを数に置き換えていく)わけです。

“数の観照”という言葉を使うならば、“数の観照”をy=f(x)で表わして客観的な(さらには主観的な)現象世界を支配していくことを会得したのが、西洋の近代(科学)文明ということになります。
言い換えると、認識されるものは数に置き換えられるということであり、存在が認められるものは数に置き換えられるものとして存在するということです。
ということは、数に置き換えられないものは認識されることがない、つまりその存在が認められることがないということになります。



たとえば、社会科学としての経済学の文献に出てくる“富”という言葉を経済学辞典で調べてみると、そもそもその項目が扱われていません。
なんでかなと考えてみましたが、私の結論は“富”という現象は数に置き換えることができないから、ということになりました。
実際、“富”をどう定義するかというのはとても難しい問題のように思えます。
たとえば、自分が住んでいるところは自然が豊かであると感じ、その豊かさを享受しながら暮らしていけることをひとつの“富”として受け入れる場合、
あるいは家族に恵まれて、家族とささやかながらも不足のない日々を過ごしていけることを自分の“富”と見なせる場合、
その“富”の量はどれほどのものかということは、それを数値化して表わすことはとても難しいのではないでしょうか。

他方、“財”という概念は貨幣の量に換算してその量を計ることができるという意味で、その現象を数に置き換えて記述することができます。
たとえば、自分が住んでいるところの自然が豊かに感じられているとして、
その敷地面積が○○㎡あるので地価はいくらである、というふうに、
“自然の豊かさ”を地価に換算して数値化する場合には、“自然の豊かさ”を“財”として見ていることになります。

“財”については経済学辞典でも項目に挙げられている、というか、経済学の基本的な概念として何ページにもわたって解説がされています。
かくして近代経済学においては、“富”という現象は学的研究の対象とか商取引の媒体としては認められず、
経済現象は“財”の交換過程として対象化され、研究され、実践されていきます。

数値化されない事象は存在しない。
これが近代的“数の観照”の帰結であり、宿命であるということになります。
現代社会にはこのように、数値化する方法が見出されていないために存在が認められないブラックマターのようなものがいっぱいあるのではないかと、筆者は思っています。

そういえば、俗称ホリエモンなる御仁がIT関連企業の社長を勤めていたときに、
「貨幣で手に入れられないものはこの世にはない」と言ったとか言わなかったとか、聞いてますが、
それは単に、「この世には数値に置き換えられるものしか存在しない」と言ってるに過ぎないということだと思います。
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