モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

使用価値を高めよう、という話

2009年07月24日 | モノ・こと・ことば

「かたち21」のHP



学生のレポートに、ここで紹介しておきたいと思ったのがもうひとつありました。
タイトルは「使用期間による使用価値について」というものです。

講義では、
ものの価値には使用価値で評価される側面と交換価値で評価される側面があって、
「社会科学としての経済学」はもっぱら交換価値の側面ばかりを研究対象とし、
使用価値の側面はないがしろにしてきている、
なぜかというと、使用価値というのは堅牢性が高くて、
使用頻度と使用時間の長さを掛け合わせた量が大きいほど価値が高いということになるし、
ものと使い手の、他者には分からないメンタルな関係も含むので、
それを数値化して客観的に比較する方法を見つけられないからだ、
ものづくりというのは、しかしこの「使用価値」をないがしろにするわけにはいかない、
といった話をしたのです(私の「現代工芸論」は経済学も射程に入れているんです)。

学生のレポートは、今日の衣料市場における衣服の低価格化に伴う使用価値の低下を指摘し、
他方、着物という日本の伝統衣料の使用価値の高さについて次のように言及しています。

「縫製の段階で布を裁つ箇所はなるべく少なくなっている。余った布は「縫い込み」と呼ばれ、裄(ゆき)が足りなくなったときなどに、一度縫製を解き、引き出し、仕立て直すことで様々な体型に対応するために使われたりする。
この「縫い込み」は一人の人間が着用するためというよりは、一通り着用したのち他の第三者が着用する際にこそ使われる。つまり、次の世代の使用が当然のものとして作られているのだ。」

そして再び現代の衣服の使用価値について立ち返って、
「確かに価格の低下は消費者にとっては喜ばしいことなのかもしれないが、私はこのことに今後のものづくりの危機を感じる。というのは、価格の低下は紆余曲折を経るにしろ、品質の低下を伴わざるを得ないと思うからである。特に衣服は直接肌に触れるものであり、その分、トラブルの原因になりうるものである。例えば、アレルギー性敏感肌の持ち主であれば、大量生産の合成繊維をもとに作った衣服によって、湿疹、痒みなどの症状を引き起こす可能性があるし、調理中、誤ってポリエステルの衣服の袖口に火が移ってしまい、天然繊維とは違った燃え方、熱で変質し溶け出し、皮膚により悪質な火傷を負ったという事例もある。」
つづけて
「よって、私たちはものの使用価値の向上を図っていかなければならない。すなわち、ものづくりをする立場の者ならば、「いいもの」をつくるということであり、消費者という立場ならば、「いいもの」を選んで購入するということである。」

値札に書かれている数字が、そのものに対して消費者が支払う対価のすべてとは言えません。
病気をしたり火傷を負ったりするととんでもなく高価につくことがあるのですから
よほど注意していなければいけません。。
(問題はそれだけではなく、ゴミ処理とかストレスの発生といったことにつながっていきます。)
「人とものの関係これから」については、こういったことも考えの中に入れていく必要があると思います。

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「美の用」続き

2009年07月17日 | モノ・こと・ことば
「かたち21」のHP
 (リニューアルしました。)


「かたち21」のホームページをリニューアルしました。
今回の改訂版では、「美の用」とか「使うことは作ること」をアピールすることに主眼を置いています。

「美の用」というのは、前回も書きましたように
「用の美」の漢字を入れ替えただけなのですが、意味がまったく違ってくるんです。
「用の美」は「道具の美」とか「使うこと自体に感取される美」というほどの意味で、
原則としては「道具」とか「使う」ということと「美」とは別なものであるということが、
無意識のうちにも前提とされています。
他方、「美の用」というのは「美には用(はたらき)がある」ということであって、
「美」と「用」を区別しないのです。

「美には用がある」などというと、長い間「美」を「用」から切り離して、
「美」の自立性にたてこもっていたアーチストや美術家の方々のヒンシュクを買いそうで、
今年、大学の講義で話し始めたときも、最初はおそるおそるという感じでしたが、
学生のウケは意外とよかったのです。
長い間もやもやしていたことが、これで初めて納得がいったと受け止めてくれた子もいました。

講義の感想を書いてもらったレポートを読んでも、
学生が正確に理解していることがわかりました。その一例をここに紹介しておきます。

〈「使えるもの」の形にある美を見出したのが「用の美」だとすれば、「使えるもの」と「使えないもの」の区別なく「美」とは何かと純粋に問い直す意味がこの言葉にはあるように思う。それは「美」を至上のものと考えることとはまったく違う。純粋に問われるべきは、これからの時代を生きる人間一人ひとりの生き様を通して見出すことのできる「美」なのであり、「豊かな人間性」とは何かを問いかけるものなのである。〉

これ以上付け加える言葉はありません。あとは「美の用」をめぐる実践を重ねていきます。
そのためにも一人でも多くの方に「かたちの会」へのご参加を呼びかけたいと思います。

(「かたちの会」は期毎になっていますが、ご入会はいつでもフレキシブルに対応していますので、
お気軽にお問合せください。)
「かたちの会」HP

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「科学」と「美の用」の話

2009年07月10日 | モノ・こと・ことば


「かたち21」のHP



4月から7月の間は、毎週1回、都下の美術大学で講義を行っています。
「現代工芸論」という題目の講義で、今年で10年目になりますが、
ようやく「現代工芸論」の全貌のアウトラインが描けるあたりまで来たかな、という感慨を持つに至りました。
今年開けてきた新たな展望は、「工芸」を成り立たせている柱として、
用と美に加えて「科学」を欠かせない、ということとか、
「用の美」に対して「美の用」という観点を提示する、といったことでした。

「科学」とはいっても、西洋で発展した、現象を数量化して観察する方法に基づく「近代科学」ではなくて、
たとえば今中国では儒教がブームになっているそうだけれども、
儒教の認識論は、人間や自然を数量化しない方法で観察したデータに基づく、
東アジア地域の科学的方法の礎である、とか、
「アートもまたひとつの科学である」とか、
西洋近代科学の合理主義に対抗する「自然の合理」の話とか、
そういった内容のものです。

「美の用」というのは、西洋の近代的合理主義から生まれた機能主義に対する批判と、
日本的な「用の美」の特徴を捉えることを通して得られた新しいビジョンです。
「美の用」とは、「美には用(はたらき)がある」という意味です。
「用(はたらき)」という概念は儒教や老荘思想を生んだ、
東アジアのいわゆる「体用論」という哲学から拝借しました。
これにより従来、「用」と「美」を切り離して、あたかも別のものとして、したがって、
人間が創るものを「使えるもの」と「使えないもの」に区別して論じてきた、
「近代の美術と工芸」を乗り越えていくビジョンが提示されるのではないかと考えます。
そしてこれによってようやく、「現代工芸」というジャンルが
今日の生活の中でなにかの意味をなしうるのでは、という気がしています。

「美の用」なんて単に「用の美」を逆にしてみただけなのですが、
コロンブスの卵がそうであるように、両者の間にはまったく異なった世界が開けているということが、
まあ、そのうち分かってもらえると思います。
(美大の学生さんはけっこう熱心に聴いてくれました。)



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