モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅧ 久隅守景「納涼図屏風」の‶りべらる″感⑤彼らは何を見ているのか?

2022年04月23日 | 日本的りべらりずむ

最後の問題は、彼らが眺めているのは何か、彼らのまなざしの向かう先には何があるのか、ということです。

これも、素直に考えれば東の空に浮かんでいる月であるとして何も問題はないでしょう。

満月は画面左上方に描かれており、人物の視線は水平方向に向かっていますが、日本画の研究者によれば、こういう描き方は他にも例があるとのことです。

このことは認めた上で、私としてはここでも別案を提示してみたいと思います。


この3人は揃って同じ水平方向を眺めています。

私は「ながめる」という動詞を、万葉の歌以来の日本の古典文芸の世界に通底する、観照を主体とした精神のはたらきを表わす言葉と考えています。

それは、万葉の時代の代々の天皇による国見の歌や、山部赤人の歌に代表されるような叙景歌を起点とし、
古今集時代の小野小町の「花の色はうつりにけりないたつらにわか身世にふるなかめせしまに」を経て、
新古今集では「ながめ」という詞を使った和歌を多数残した式子内親王の代表作「なかめつる-けふはむかしに-なりぬとも-のきはのうめは-われをわするな」
そして王朝和歌のとうびを飾るとともに叙景歌表現の頂点を極めたといわれる玉葉和歌集の歌人たちの作などに象徴的に表わされています。

時代が下っていくにつれて「ながめる」対象は外界の現象的世界から心的世界へと拡張していくことで、文芸の世界の拡がりと深化が推進されていきます。


(左右とも)「山水図」(至文堂刊『日本の美術2』489 久隅守景 より転載)
画面上方1/3ほどが余白表現されているのも守景の山水画の一大特徴とされています。


久隅守景が描いた山水画の特徴について、日本美術史の研究者の間では次のようなことが言われています。

すなわち山水のモチーフを画面上に少しずつ重ねることによって「後ろへ後ろへと空間の深い奥行きを表わ」していくことが、守景の山水画の特色をなしている。(榊原悟「久隅守景筆四季山水図屏風」『国華』1281)

この観方に従うならば、守景の絵画表現の精神性を、日本の伝統的な「ながめる」という精神活動の発露として捉えることが可能かと思います。



「六歌仙画帖」(至文堂刊『日本の美術2』489 久隅守景 より転載)
歌人の目の描き方に注意(見えにくいようでしたらゴメンナサイ)


さらに山水画とは別に、古今集時代の代表的な歌人たちを描いた「六歌仙画帳」という遺作があります。

彼らの眼は伏せているように描かれ、視線は下方に向かっています。

守景の人物画の多くがそのように描かれているのですが、彼らのまなざしはあたかも内面世界へと向けられている趣きがあります。


ところが「夕顔棚納涼図」では、視線の方向は下方ではなく、まっすぐ前に向かっているように描かれています。

特に女性と童子の視線ははっきり前方に向かっています。

他方、男性の視線は伏目がちに描かれ、さらに頬杖をついています。

頬杖をついていることの意味については、東京国立博物館研究員の松嶋雅人さんの論考に、

日本絵画の作例を2,3挙げながら、「これらから見ても、「納涼図」の男が頬杖をついているのは、深く考え思う様子があらわされているとみてよいかもしれない」とあります(「謎の絵師・守景」日本の美術489「久隅守景」所収 至文社)。

この説にしたがえば、男性のまなざしは、月をながめつつも意識の半分は心の内側に向かっているように描かれている、と観えなくもありません。


前回私は、この3人の像を守景自身の幼年時の両親と自分自身をモデルにしているという解釈を提示しましたが、
同時にまた守景の二人の子供(雪と彦次郎)と自分自身との3ショットという解釈も成り立ち、両者を重ねると、
「納涼図」は守景の3世代の家族を重層させての自己像と解釈することも可能かと思います。
そして、童子(守景自身または彦次郎)と女性(守景の母または雪)の視線はしっかりと前方(未来)を見据えています。

また男性を守景自身と見て、その視線は前方をながめつつ心の内側にも向かっているふうに見えます。

私はこの男性のまなざしを、水墨画の行く末を望もうとする視線と見たいと思います。


そこで改めて、守景が狩野派から離れていったのはなぜか?という問いを俎上にのせることにします。

子供たちの不祥事がその原因とされており、それもあると思いますが、同時に、「何を描くべきか」という問題意識もまた、
守景を狩野派から遠ざけていくもうひとつの理由ではなかったかと考えるのはいかがでしょうか?。

そのような想定が成り立つとすると、この問題意識は江戸前期における創作意識として最先端であるでしょう。

そしてこの問題意識を抱懐した点にこそ絵師久隅守景における近代意識の萌芽、すなわちリベラル感の萌芽があるのではないかという気がします。



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日本的りべらりずむⅧ 久隅守景「納涼図屏風」の‶りべらる″感④自己の像に向き始める 

2022年04月12日 | 日本的りべらりずむ

一見家族のようにも見えるこの3人は果たしてどういう人たちなんだろうかということについて、ここでまた若干の検討をしておくことにします。

有力なのはやはり家族説で、しかも守景の家族とするのが自然な受け止められ方のようです。

守景には二人の子供がいて、上の子は雪という名前の娘、下の子は彦十郎という名の息子です。

二人とも若いときから絵師を目指し、守景と同様に狩野探幽に師事して研鑽を重ねていました。

雪は成人して清原家に嫁いで清原雪信という画名で創作を続け、彦十郎は師の探幽守信から一字を拝領して守則という画名を名乗っていました。

雪信は生前中から評判の高い絵師だったようですし、守則もそこそこの評価をえていたようです。

ところが二人とも醜聞事件を起こして狩野派を破門される羽目になります。

雪信は別な男性と通じ別宅をしたという説がありますが、正確な事実は伝わっていません。

守則は悪所(吉原)通いを重ねて探幽に勘当され、佐渡島に配流されます(のちに赦免されますが、そのまま佐渡に)。

雪信、守則の不祥事が守景にも影響して、守景自身も狩野派から破門される憂き目に遇い、後半生は狩野派から離れてフリーな立場で創作がつづけられます。

「夕顔棚納涼図」のモデルを守景の家族とする解釈では、男性は守景自身、女性は雪信、童子は守則ということになりますね。

彼らは揃って同じ方向に向いて何かを見ています。

絵のタイトルや画面左に満月が大きく描かれていることからして、月見をしている図であると考えるのが穏当なところでしょう。

すこしうがった見方をすれば、3人とも狩野派を破門された絵師であるということで、狩野派とは違った水墨画の可能性を夢見ているのかもしれません。
(何を見ているかについては、次回のテーマ)とします。)



ここでひとつ留意すべき事柄があります。

それは、これがもし守景自身の家族像であるとするならば、一種の自己像とみなすことができるわけですが、
絵師が自らをモデルとした作例がそれまでの水墨画の歴史にあっただろうか、ということです。

絵師の自画像といえば、守景以前では、一般向けの日本美術全集レベルの画集では雪舟とそのあとの時代の画僧 雪村(周継)ぐらいしか思い当たりません。

しかも雪舟の場合は、いわゆる頂相(ちんそう)と呼ばれる、禅宗の高僧を偶像風に描写する枠内のもので、
雪村に至って、偶像風からちょっとズレて、自分の姿をリアルに再現しようとする志向が見られるぐらいしかありません。

考えてみれは、江戸期あたりまでの絵師は職人なので自己自身に向き合うなどといった意識は持ち合わせてなかったと考えられますし、
絵画の社会的ニーズとして絵師の自画像など享受者の意識に上ることはなかったと考えるのが自然かと思います。

そのように考えると、守景の「夕顔棚納涼図」は、作者自身をモデルにしているという意味でも、日本美術史上新たなステージに入っていきつつあることを告げるものと考えることも可能.です。
(しかし絵師が自画像を描き始めるのは、少なくとももう100年ぐらい後のことになるようです。)


ここで私はモデルについてもう一つの、私の知るかぎりではまだ他で聞いたことがない案を提示したいと思います。

それは、同じ守景の家族ではありながら、守景の幼少時を追想したものではないかということです。

すなわち、男性は守景の父親、女性は母親、そして童子は守景自身ということですね。

このように解釈すると、作者自身の自己像をモチーフに取り上げるという意識は、より生々しく感じられてきます。

そのようなわけで、「夕顔棚納涼図」は日本の絵師が自己意識に目覚め始めたことを示す最初の作品としての意義を有していると考えることもできるでしょう。

身分制社会における下層階級の人間をモデルとし、しかもそこに自己自身の姿を見出そうとする意識の表出において、実に画期的な作品であると私は思うのですが、いかがでしょうか?
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日本的りべらりずむⅧ 久隅守景「納涼図屏風」の‶りべらる″感③‟庶民”という新しいモチーフの発見

2022年04月02日 | 「‶見ること″の優位」

「夕顔棚納涼図」の3人の人物は一見すると農民家族のように見えるので、そのように思い込んでいるかと感じさせるような解説をしている文章もありますが、
よく見ると、農民家族であることを示す状況描写は全然というほどされていません。

粗末な家屋とおぼしき建物は描かれていても農具のひとつ、畑とかも何処にも描かれていません。

下層の士分の家族ではないかという説もあります。しかしこれもやはり決定的な説明描写がありません。

私が密かに思っていることは、そういった職業とか身分とかをむしろ意図的に不明にしている、
あるいは、そういった意識を超えたところでの人間の姿を描いているのではないか、ということです。


この絵のモチーフといいますか、着想の元になった和歌があると言われています。

それは守景の時代より半世紀ほど前の、桃山期の歌人木下長嘯子の「夕顔のさける軒はの下すすみ男はててれ女はふた物」(ててれ=ふんどし ふた物=腰巻)という歌です。

歌意は、男はふんどし姿、女は腰巻一枚の半裸の姿で夕涼みをしている、というものです。
(男は着物を一枚まとっていますが、後で描き足されたようです。)

もともと3人とも裸に近い状態で描かれているということは、職業や身分を表わす粉飾的な要素を切り捨てて、
人間の素の姿に迫ろうという、そういう意図が込められていたと想定してみるのはいかがでしょうか。

そのように考えると、前回書きましたように、夕顔棚に瓢箪が成っているのを描いていることとの関連も出てきます。

また、作者守景自身の社会的出自がほとんど不詳であるということにもつながっているのではないでしょうか。
(それはつまり、守景の生き方や信条を表わしているのでは、ということです。)

いずれにしても、社会的身分としては庶民階層の人たちであることはほぼ間違いないと言えるでしょう。



このように庶民の姿を描いた絵画は、それまでにもなくはありません。

守景自身にも、「四季耕作図」と題された一連の屏風画があり、そこには農民の四季を通じての農耕作業の様子が描かれています。

また、平安末期以降に創作された絵巻物や障壁画にも一般庶民の群像が描かれたりしています。

しかしそれらはすべて群像としてか、あるいは点景として描かれたのがほとんどで、
この絵のように彼らの姿をメインモチーフにして絵画世界を成り立たせたような、そういう作品はそれまで皆無であったように思います。

このことは、絵画の社会的機能(何のために描かれたか、また、誰が絵を享受したか)という観点からも了解できます。

貴族や武家や社寺の階層の人々で構成されていた中世期までの美術鑑賞界の誰が、一般庶民を描いた作品などに目を向けることがあったでしょうか。

そのように考えると、守景のこの作品は、日本美術史に於ける新しいモチーフの提示として見ることができるのではないか、
またそれを受容する新たな階層が誕生してきたのではないかという考えに導かれていきます。

「夕顔棚納涼図」が描かれたのは守景の晩年期、1600年代の後半のような気がします(根拠は提示できません)が、
この時期は徳川幕藩体制となって世の中が安定して、経済活動も活発化して町人階層が富裕化し、また農村部では地主や庄屋といった中間層の人々に財が蓄積していく時代です。

西鶴の小説もこの時期に書かれていて、そこには農村の若者が都市に出て商家で丁稚奉公するというような記述も見られます。

「夕顔棚納涼図」に描かれた3人の顔が穏やかな表情をしているように見えるのは、そういった時代の空気を表わしているのかもしれません。

またこのような絵が描かれる背景に、財を蓄積しつつある商家・地主・庄屋階層を軸とした新たな文化享受者(それは江戸期諸学の発展を支えた人々でもある)の登場という事態も予測されます。

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